MET People - session #3 「From Low to High By Raw - LOHAS女子の全然LOHASじゃない人生!」イベントレポート

かつて世界一のファーストフード会社や大手製薬会社にも勤務していた、筋金入りの"ナチュラル系"女子!・・・矛盾しているでしょうか?だからこそ、このタイトルなのです。「LOHAS女子の全然LOHASじゃない人生!」

ハフィントンポストの読者の皆様から、かなり想定外の大反響をいただいている、私たちMy Eyes Tokyo主催のトークイベント「MET People」。"がん患者に優しいエステサロンを立ち上げ""10億人に日本を売り込んで来た"Cutting-edgeな女性たちに続いて、今回も素敵な女性をご紹介します。

かつて世界一のファーストフード会社や大手製薬会社にも勤務していた、筋金入りの"ナチュラル系"女子!

・・・矛盾しているでしょうか?

だからこそ、このタイトルなのです。「LOHAS女子の全然LOHASじゃない人生!」

"ローフード(Raw food)"と呼ばれる新しい食文化を広める女性の生き様を、まさに"Raw"(生)のままでお届けするトークイベントを、このハフィントンポストでも、できる限りRawのままでお伝えいたします!

私たちMy Eyes Tokyoがリアルに出会った素敵な方々をリアルにご紹介する「MET People」。第3回目のスピーカーは、"ローフード"を日本に広める伝道師、まるで少女のような佇まいの羽田賀恵(はだ・かえ)さんです。

"ローフード"って・・・?英語で書くと「Raw food」、つまり"生の食材"。加工されていない生の食材を用いた食品を指します。これから日本に広がる予感のこの新しい食文化を広めることを、自らのミッションとして、またビジネスの一環として、羽田さんは関わられています。そしてそのミッションに共感する方々が、実際にたくさん存在します。

食にあまり気を遣っていないと反省中の編集長を抱えるMy Eyes Tokyoが、なぜこのような方をお招きできたのか。まずはMy Eyes Tokyo山崎千佳にその背景を語ってもらうことにいたします。

*協賛:セレナイト(詳しくはこちらをご覧下さい)

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私が羽田賀恵さん(以下「賀恵さん」)と出会ったのは、約13年前。自分探しをしていた私は、当時ニューヨークの対岸のニュージャージーに1ヶ月半ほど滞在していました。仕事でも留学でもなく、たまたま当時の彼氏のニューヨーク赴任についていっただけ。その彼氏の高級マンションに住んでいた私は、お金にも困らなかったけど、やることがなく、そして孤独でした。

そんな折にニューヨークの情報を検索していたら、ニューヨークの街歩きのようなサイトにヒットしました。13年前、HPを自分で作る人がそれほどいなかった当時、配色もキレイで「すごく素敵なウェブサイトを作っている人がいる!」と思い、勇気を出してそのサイトを作っていた人にコンタクトを取ってみました。それが賀恵さんだったのです。「私は今、ニュージャージーのフォート・リーにいます。ぜひお会いしてみたいです」とメールして、つながりました。

賀恵さんとお逢いして、私はすぐに惹きつけられました。そのおっとりした雰囲気の中に思慮深さをうかがわせ、大きく包み込んでくれる暖かさを感じたのです。そしてお互いにプライベートな話に及んだ時に、時々垣間見える賀恵さんの弱さに、私は親近感を覚えました。私も自分の内面をさらけ出せました。

その後私は日本に帰り、賀恵さんと1〜2度お逢いしました。やがて疎遠になってしまったのですが、その後facebookで再会。 賀恵さんの活躍を知り、すごく有意義なことをされていて、なんだか遠い人になったなぁと、遠目に見ていました。が、今仕事もライフワークも充実して、あの頃に比べて少し自信がついた今なら、賀恵さんに逢えるかも・・・と、賀恵さん主催のデトックスセミナーに参加してみました。

当日は他の人もいたし、時間も限られていたから個人的に話はできませんでしたが、賀恵さんの話を聞きながら「強くなったなぁ」と感慨深く思っていました。そして、あの13年前のように、もう一度勇気を出して賀恵さんにコンタクトしてみようと思いました。まだ始まったばかりのこの「MET People」のゲストスピーカーをお願いしてみようと・・・ 賀恵さんはすぐに、本当にすぐに、メールを送ってから5分後に「ぜひぜひ!!ありがとう!」と、しかも興奮して書きかけのまま返信してくれました(笑)。

こうして、このセッションが実現したのです。

■ 4つの柱

私が経営する「マザーアースプロジェクト」という会社の事業は、4部門に分かれています。

1つ目の事業は「ロー・チョコレート」(Raw chocolate)です。文字通り「生のチョコレート」という意味ですが、オーガニックで非加熱、添加物や白砂糖、乳製品、トランス脂肪酸などは一切使っていないというものです。自然の生のカカオを使ったチョコレートを作っています。オーガニックの、大自然の恵をそのままいただこうというメッセージとして、ローチョコレートの製造・販売をしています。

2つ目の事業は、昨年開始したコーヒーの製造・販売です。タイ北部、チェンマイから車で3時間ほど行った山岳地帯、標高1200メートルの山のてっぺんで作られるコーヒーで、山岳民族の人たちとコラボして作っています。

その民族の首長"ヤッパ・ローチョ"の息子さんが日本で"森林農法"を学びました。そして故郷に帰り、森の木と木の間、動物が走り回り、たくさんの果物が育っている場所にコーヒーの苗を植えました。コーヒーは通常日陰で育つ植物なので、森だと木陰で自然に育ちます。大自然の循環の中でコーヒーが自然に育つ、そんな農法を編み出して、彼はコーヒー作りを始めました。

その試みを続けて5年、昨年ようやくおいしいコーヒーができました。何万年もミネラルが蓄積されている土で作られたコーヒーですから、本当に優しい、豆の味がします。

3つ目が、自然療法の普及です。自然療法を定義するのは難しいですが、私は大自然の流れに寄り添い、その流れに自分の体を横たえることで健康になっていったり、本当の幸せのようなものが得られるのではないかということを、私自身の持つアレルギーと闘い、また付き合っていく中で学びました。

特に日々放射性物質を取り入れざるを得ない世界になってしまった今、取り入れたものを"出す"しかない。入ってくるものをいかに出すか、そして免疫力や細胞修復力をいかに上げていくか。そのために、デトックスセミナーなどを月3~4回開催しています。これを私のライフワークにしようと思っています。

4つ目は「馬車を街に走らせるプロジェクト」です。8人乗りの幌馬車を、東京都国分寺市の事業として走らせています。馬車に乗り、馬の走る「パッカパッカ」というリズムを聴くと「あ、懐かしい」と感じてくれる。生きているもののスピードを感じることができる。しかも馬車に乗ると、皆さんが必ず"歩いている人に手を振られる"のです。すると歩いている人も手を振り返す。手を振る方も振り返す方も、当たり前のようにニコニコしながらそれをやっています。馬車なら"周りとつながりながら"進んでいける。生きているもののエネルギーだけで動くから、何も無駄にならず、エネルギーが循環しているだけ。馬車ならそれを肌で感じられるのです。

■ ニューヨークで"爆発"

私自身は今、本当に毎日がワクワクして楽しい。周りの人がすごく助けてくれる、そのような"恵み"を今いただいています。普通に会社勤めしていたら有り得ないものをいただいています。だから毎日が楽しい。でも少し前までは、何かやりたいと強く思っていたけど、それが何なのかが分かりませんでした。そんな日々が10年続きました。

私が「自分のやりたいことをやろう」と思ったのは、ニューヨークにいた頃でした。それまでの私は日本でしか生活をしたことがなく、「自分の意見は言いません。女なので黙っています」みたいな超日本的な人でした。そのような振る舞いを他から求められていることを肌で感じていました。他の人と意見が違っても、言い返すようなことはしない。そんな人でした。

ところがニューヨークに来た時に、それまで抑えていたものが爆発したのです。あの街にはいろんな国の、いろんな宗教の、根本的に常識の違う人たちが渦のように集まっており、それぞれがそれぞれを尊重していました。道ばたで男同士がキスしていても、夜に男の子が街灯の下で本を読んでいても、誰も気に留めずに尊重する。それがすごく気持ちよかったのです。「本当は私は、こういうふうに振る舞いたかったんだ」と思いました。

当時私は駐在員妻で、配偶者ビザで渡米しました。それは仕事ができないビザだったので、やることと言えば遊ぶことだけ。最初の3ヶ月間はすごく幸せで「私って、世界一幸せかも」と思いました。

しかし、やがてその状態が苦しくなったのです。「私は世界に対して何の役にも立っていない。自分自身は価値あるものを何も生み出せていない」と思いました。しかも、それにも関わらず私は暖炉が付いた家に住み、家事すらもしなくて良い暮らしを味わえた。でもそれは、自分で努力した結果ではない。だからすごい罪悪感を抱いていました。それが元でノイローゼにもなりかけました。

一方で、ニューヨークで知り合った人たちがどんどん飛び立っていきました。美術専攻で、私と一緒によく美術館を回ったりご飯をごちそうしていた女の子が突然脚光を浴びたりしました。また、奥様同士のつながりで知り合った、かわいいアクセサリーを作っていた人が、勇気を持って持ち込んだら、バーニーズ・ニューヨークで販売させてもらえるようになりました。超有名デザイナーみたいになってしまい、「あれ、あの人私と一緒にいたよね?」って(笑)

私は自分自身で何かをしたかったのに、何をすれば良いか分からなければ、何が得意なのかも分かりませんでした。学校に行きたいけど、駐在員の妻だからいつ別のところに赴任するか分からなかったから、それも無理だった・・・と勝手に思い込んでいたのです。

ニューヨークは、誰もが「オリジナルのものを生み出して、世界のトップに立ってやる!」と思っているような場所。エネルギーが街全体に渦巻いており、私はそのエネルギーに翻弄されました。

■ テロ、離婚、癌・・・どん底からの再出発

そんな折に、同時多発テロが起きました。ある朝テレビを見ていたら、突然ビルに飛行機が突っ込んでいく映像が表れました。私が当時住んでいたアパートメントの別の部屋に住んでいた日本人女性は、ご主人が富士銀行(現みずほ銀行)のニューヨーク支店で働いていました。つまり、世界貿易センタービル内で働いていたのです。

その奥さんのことを思い出してご自宅に行ったら、彼女は号泣していました。私は「大丈夫、きっと電話がかかってくるよ」と励ましました。でも夜になっても電話は鳴らなかった。翌日も電話は来ず、1週間私は彼女の子どもの世話をしたりご飯を作ってあげたりして、電話を一緒に待ちました。あの事件が、まるで自分の身に起きたことのように思いました。そして悲しいことに、ご主人は帰って来なかったのです。

その時に私は気がつきました。「自分の命は、いつか終わってしまうのだ」と。朝「行ってらっしゃい」と見送って、その日の夜に帰って来ないということが普通に起きるんだ、私にも明日、その瞬間が訪れるかもしれない・・・

だから思ったのです。「今やりたいことがあったら、今やらなくてはいけない!」と。今しかそのタイミングは無いんだと、強烈に思いました。だから私は「仕事がしたい」と旦那に伝えました。

しかし、旦那の実家は"奥さんは仕事をしちゃいけない"という考えを持っていました。だから私は、すごく苦しい思いをしながら離婚という選択をしました。"自分のやりたいことをやりたいから"だったゆえの究極の選択でした。しかし自分で選んだことなのに、地獄にたたき落とされたように思えた。離婚した瞬間に自分が死んだような思いがしました。

それから日本に帰国しましたが、辛くて毎日泣いて暮らしていました。「この世から消えてもいいや」とさえ思っていました。しかもその時受診した健康診断で、癌が見つかりました。クラス4、つまり採取した細胞が癌細胞であることが認められたのです。

でも私は何の衝撃も感じませんでした。病院にも行きませんでした。「それよりも辛いことがある」と思っていました。だから当時から行っていた自然療法で唯一「怪しいな」と思って試していなかった(笑)"ホメオパシー"をやってみることにしたのです。

日本に帰ってきてからの1年半は、夜は全然眠れませんでした。寝床に入って電気を消すと、旦那と一緒にいた日々が映像となって勝手に頭の中に流れてくる。だから眠れず「あの日は戻って来ないんだ」と思って号泣していました。

でもホメオパシーの"レメディ"という錠剤を飲んだ瞬間に、それまで勝手に流れていた映像が一切頭の中に表れなくなりました。消灯したら、そのまま眠れるようになったのです。

この不眠を治してくれたのが、すごく大きかった。精神面を治すのが先ではなく、具体的な不眠という症状を治してくれたから、眠れるようになって徐々に精神的にも安定してきました。ホメオパシーの効能を肌で感じた私は、ホメオパシーの学校にも通うようになりました。そして社会復帰をし、前に進み始めました。

■ ロー・チョコレート

実家での療養から東京に戻り「ミートアップ」という同じ志向を持った人同士の集まりに参加するようになりました。東京にも何百ものミートアップがありましたが、私はそれらの中の"ビーガン"や"ベジタリアン""健康"などに登録していました。中でも私が惹かれたのが"ロー・ビーガン"というものでした。私はニューヨークにいた頃、ローフードのベジタリアンレストランで1年間研修を受けたので、そのミートアップに惹かれたのですが、そこで出会ったのがアンディーとアンジーという2人のアメリカ人女性でした。

彼女たちは代官山でチョコレート販売をすでに始めていました。彼女たちの話を聞いてすごく面白いと思い、私は彼女たちと意気投合しました。でも彼女たちはあまり日本語が話せなかったので、日本でのマーケティングができなかったし、アメリカ人なので手先が不器用でした(笑)リボンを結ぶこともままならず、商品をビニール袋に入れてセロテープで止めてお客さんに手渡していたほど(笑)しかも、チョコレートをかわいくデコレーションすることができませんでした。味はおいしいんだけど、すごく甘かった。「日本では、いくらおいしくてもそれでは売れないから」と彼女たちに言い、私を含めた3人で商品を日本仕様に変えていきました。そのうちに、最初私は彼女たちのアシスタントだったはずが「私がいなければ無理!」みたくなり、そして3人で会社としてスタートしました。

その当時、私は何と大手ファーストフードチェーンや製薬会社に勤めていました。「薬は良くない」とただ言っているだけでは全く説得力がないし、対極にあるものそれぞれを経験しないといけないと思っているからです。そんなわけで、私は週末だけ2人を手伝っていました。3人の1ヶ月の収益の合計が10万円しかなく、何とかもっと売上を増やせないかと思いました。

その後東日本大震災が起き、彼女たちはアメリカに帰ってしまいました。添加物を恐れる人たちだから、放射能なんて耐えられるはずも無かった。だからあっと言う間に本国に帰ってしまいました。彼女たちが開いていた代官山のお店も無くなってしまいました。でも私は、どうしてもそのお店を続けたかったのです。

■ 藁を一本一本つかんでいく

そんな思いから、私は起業関係のミートアップに行きました。そこである人と出会いました。その人は変な帽子をかぶり、フランス訛りの英語で「僕はあなたたちを助けに来ました。興味のある人は後で来て下さい」とだけ言いました。私は「助けてくれると言うなら助けてもらおう」と思って(笑)近づいていきました。

その人はすごく面白い人で、フランス人でありながらシリコンバレーで4つの会社を立ち上げて4社売却した連続起業家でした。デービッド・デュポイという名前のその人は"ハンド・リコグニション・システム"の特許を持っており、それで一生食べていけるほどの財産を築いていたので、起業家をサポートする側に回っていました。それも全部ボランティア。そんな彼に私が「助けてほしい」と言ったら「助けてあげる」と言ってくれました。

それから週に何回も、私にレクチャーしてくれる時間を設けてくれました。彼がスタンフォード大学で行っていたビジネスの講義をそのまま私に、何とコーヒー代だけでしてくれたのです。そして数ヶ月後、彼は「もうあなたは理解している。だから会社を辞めていいよ」と私に言いました。私は戸惑いましたが、それでも「辞めた方が良い」と。だから私は言われた通り、会社を辞めてしまいました。それが2つ目のステップでした。もし私がそのように言われていなかったら、会社を辞めていなかったかもしれません。

一方で放射性物質のデトックスセミナーはずっと続けていましたが、そのうちに私のホメオパシーの先生が「言葉だけでセミナーをやっていたらダメだよ」とおっしゃいました。実際に福島に行って現地の人を助けたり、その人たちと話をしないとダメだ - そう言われて、実際に現地で子どもたちを助けるNPOを紹介してくれました。そのNPOは寄田勝彦さんという人のもとで"ホースセラピー"を行っていて、DVを受けて帰れない子どもや、福島で親を亡くした子どもたちを全部預かって、ホースセラピーを施すという活動を行っていました。

私のデトックスセミナーを評価して下さった寄田さんは、冒頭で申し上げたタイ北部でのオーガニックコーヒー作りに大きく関わられている、農業社会学がご専門の小松光一先生という方とコーヒーのビジネスを立ち上げようとされていました。しかし日本で販売できる人がいませんでした。

私は思いました。チョコとコーヒーは、販売先が似ているから合わせやすい。それにオーガニックチョコとオーガニックコーヒーはコンセプトが合う・・・私は一緒にやらせていただこうと考えました。それが事業拡大に向けての次のステップだったと思います。

寄田さんはコーヒーを淹れたり販売する場所として、国分寺にある「カフェスロー」という環境系のカフェを紹介してくれました。オーナーはかつてユネスコでトップを務めた人で、ものすごく理念の通ったカフェでした。しかもある日「カフェの隣のスペースが空いたよ。入る?」と言われて、そこで事務所を構えたのが次のステップでした。私は人と出会うことで、藁を1本ずつ掴んできたような感じです。

ただ国分寺は、ローフードやローチョコの購買層が住む都心から遠かった。国分寺と都心を往復するだけで1日が潰れました。そのような事情からカフェスローを卒業させていただき、南青山に事務所を移ました。さらに学生時代の部活で縁があったラクロス協会の協会長さんからも、私の事業に少しだけ出資をして下さることになりました。彼も若い頃に起業され、年商何十億円という規模にまで育てたというバックグラウンドがあったので、若い起業家に投資をしていたのです。

■ "完璧な瞬間"など無い

そうやって、私は少しずつ前に進んで来ました。私がアメリカから帰ってきた時は、お金が一切なく、その上1年半も引きこもっていたから人間関係もほとんどゼロの、まるで更地のような状態でした。そんな私がここまで来れたのは、やはり外に出て人とつながろうとしていたからではないでしょうか。そして今、ようやくビジネスが軌道に乗りそうだと思えるようになってきたのです。

何をやるにしても"完璧"と思える瞬間なんてありません。「もう準備は完璧!」という状態は有り得なくて、どんな起業でも「この部分、まだ出来てないけど・・・?」という状態でみんな走っています。無いものをあるように見せたりしながらジャンプしています。大きな仕事が来たけど、あれもこれも出来ない。でも「できます!」と言って受注して大きくなっていく。それでしか成長のプロセスは無いので"無理矢理スタートしてしまう"という一歩を踏み出せるか、そのチャンスがあるかどうかということが、起業家にとって大きいと思います。

■ 自分を檻に入れるな

以前見た「NHKスペシャル」のことを、今でも強く覚えています。狼でも狐でも、檻に入れると家畜化できてしまうというものだったのですが、「檻に入れられても生きるんだ」と思いました。彼らは自然の中でエサを探すことができる能力があるのに、檻に入れられた瞬間に人からもらうエサしか食べられなくなる。そういう話を聞いて思いました。「人間は究極まで家畜化されてしまったのだ」と。

私たち人間は、自分を檻に入れてしまいがちです。例えば"OLだから起業できない"とか、"結婚しているから○○ができない"・・・それが常識だったり当たり前のことだと考える。それはつまり、自分で檻を作ってしまっているということであり、そこから出ようとしないということ。でも外から見ると、そんな檻は存在しない。ただの自分の幻想だけで、何にも無いのにそこから出ようとせず「自分はこれはできない」ということを自分で決めているのです。

それが"自立"の問題だとすれば、私はもうひとつ"自発"についても申し上げたいと思います。アメリカから帰国し、起業準備のために会社で働いていた頃、とにかくお金を貯めるためだけに仕事をしていました。あらゆることを学びたかったけど、仕事自体は全然やりたくないものでした。ある意味"やらされている"という感覚で仕事に取り組んでいましたが、その時思ったのです。「"やらされている"と思った瞬間に檻に入っている」と。

そうではなく、"~される"という概念を自分の中から消し去らなくてはいけないと思いました。「その仕事は自分が選んでやっているのだ」というマインドにならないと、私自身が「~されている」という意識から抜け出せなくなります。「全てのことは自分で選んでやっているんだ」と思わないと、いつか絶対人に責任転嫁してしまう。そうなると私が起業準備中の頃は、自分のために人生を生きていたのではなく、誰か他の人のために生きていたことになります。「どんなことでも自分で選んでいる」と感じるマインドを持てば、もっと自由になれると思いますね。

トークの後の懇親会では、ロー・チョコレートとオーガニックコーヒーの試食・試飲も行われました。

「MET people」は人の生き様にFocusし、今ここのいるゲストスピーカーの華々しい活躍の裏にある苦悩や葛藤、心の声を語っていただき、参加者の人生のヒントにして貰えたら、またゲストとのみならず参加者同士でも新しい出逢いを得て、人生のアイデアをシェアし合える場を作りたいと思って立ち上げたものです。

今回、もともと賀恵さんのご友人でも賀恵さんの軌跡を存じないという方や、賀恵さんご自身は初めて、でもそのご活躍に興味を持ったという方が沢山集まりました。賀恵さんの思いが詰まったライフストーリーに聞き入って涙を流した方もいました。

長い苦悩の道のりを経て、今ここに凛と、でも優しく優しく佇む賀恵さん。人の弱さと強さを感じさせてくれる存在でもあります。 13年前に一目ぼれして、13年後の今、また惚れ直しました。

もはや自分のことだけではなく、人の身体とココロ、地球を癒し、循環する社会を提唱する賀恵さんのご活動を、今後私たちMy Eyes Tokyoは応援していきたいと思います!

羽田さん関連リンク

マザーアースプロジェクト:http://motherearthprojects.com/

NamaKiss ショコラ:http://www.namakiss.net/

ローチョ村の森とコーヒー:http://lochacoffee.jimdo.com/

馬車が走る街 国分寺プロジェクト:http://motherearthprojects.com/basha/index.html

MET People

第1回:さとう桜子さん(がん患者にも優しいエステサロンで起業)

第2回:小松崎友子さん(アジアに日本を売り込むPRプロデューサー)