落語は人生のユートピアです -- 吳繼棻さん

台湾からやって来た「私の体は落語でできてるの」な女の子、吳繼棻さん。笑いの中に涙あり、それ自体が落語のような吳さんの人生について聞きました。

中華圏を中心としたアジア各国は、ただいま旧正月真っ盛り。そこでMy Eyes Tokyoハフィントンポスト版では、台湾からやって来た落語女子をご紹介いたします。

吳繼棻(うー ちーふぇん)さん。時間を見つけては都内の寄席へと足を運びます。しかもFacebook上で昨年末に流行った「私がよく使う言葉」というアプリで、見事"師匠"がトップになったというほど、SNSで落語への愛情、そして師匠たちへの愛情を余すところなく綴る、まさに「私の体は落語でできてるの」な女の子です。

そんな吳さんとの出会いは、昨年(2015年)11月に千葉市内で行われた"第5回落語国際大会in千葉"でした。

ノンプロの日本人落語パフォーマーと、4人の外国人落語パフォーマーが芸を競い合ったこの大会では、昨年ハフィントンポストでもそのインタビューが好評だった、ボルボ亭イケ也ことヨハン・ニルソン・ビョルクさんも出場。日本語の壁を難なく乗り越えて日本人パフォーマーたちと互角の勝負を繰り広げた外国人パフォーマーたちの中で、唯一の女性出場者だった吳さんは、愛嬌たっぷりに古典落語「平林」を演じ、観客を爆笑の渦に叩き込みました。

吳さんへの質問は、ズバリ「なぜ血液の代わりに、誤って落語を体内に注入しちゃったんですか?」(笑)。でもそれは愚問でした。笑いの中に涙ありの吳さんの人生は、それ自体が落語だったのです 。

*インタビュー@浅草

■ 笑いを求めて日本へ

私は今、劇場コンサルタントとして、劇場・ホールの管理運営計画や、開館までの準備計画の策定を支援する業務に携わっています。日本各地を周りますが、国内だけでなく、中国や台湾にも活動範囲を広げています。

この仕事は、エンターテインメントが好きな私にはぴったりです。私は小さいころからクラシック音楽を学んでいて、台湾の大学ではアートマネージメントを専攻しました。そしてさらに知識を深めるために、日本に留学しました。

・・・というのは言い訳で、子供のころから触れていた日本のお笑いをリアルタイムで楽しむために日本に来たのです(笑)

■ 友達と話が合わない

初めて日本のお笑いに出会ったのは、私が5歳のころでした。台湾のケーブルテレビで「志村けんのだいじょうぶだぁ」に偶然出会い、面白がって見ていました。その後小学校5年生のころ、ウッチャンナンチャンにハマりました。当時彼らは、台湾のアイドルだったビビアン・スーと共演していたので、さらに身近に感じました。

台湾では"吉本新喜劇"も放送されていました。当時私は中学校2年生でしたが、コテコテの関西のお笑いを楽しく見ていました。しかもそれらの番組を通じて、私は自然と日本語を吸収していきました 。

私のクラスメイトも日本のエンタメは好きでしたが、彼女たちはドラマやジャニーズのファンであって、バラエティ、まして吉本新喜劇が好きな人など皆無。だから周りとは話が合いませんでしたね(笑)それも、私が「いつか日本に行こう」と思ったきっかけでした。日本に行けば、私が好きなものを分かってくれる人も多いだろうと(笑)

■ 浜松でも吉本一筋

台湾の大学を卒業後、1年間の児童劇団勤務を経て、2010年3月、静岡県浜松市にある静岡文化芸術大学大学院に留学しました。留学に備えて、日本語の文法などを勉強しました。それまでバラエティ番組を見て自己流で日本語を学んでいたから、文法の知識がまるで無かったのです(笑)

1年で大学院試験に受からなかったら、留学をあきらめようと思いました。そんな私を奮い立たせたのは「日本でウッチャンナンチャンやオリエンタルラジオを生で見まくるんだ!」という思いだけでした(笑)オリラジも好きだったんです。

日本への留学先は、アートマネージメントを学べるところを中心に探しました。そして比較的学費が安い公立の大学院を選びました。なぜなら両親からは学費の援助は一切無かったからです。おかげで今も奨学金を返済中(涙)

東京の人からすれば「なんで浜松?」と思われるかもしれません。でも浜松は、ちょうど東京と大阪の中間地点。名古屋にも近いし、お笑いファンとしては理想的な場所でした。もちろん浜松に来ることになったのは偶然ですが、その意味ではすごくラッキーでしたね。

学生生活の傍ら地元のドラッグストアでアルバイトをし、たまの休みの日に東京のヨシモト∞(無限大)ホールやルミネtheよしもとに行きました。また学会などで大阪に行った時は、普通になんばグランド花月に行っていました(笑)特に池乃めだか師匠に会いたくて(笑)もう吉本一筋でした。

■「吉本に入ろう!」

産地直送の日本のお笑いに夢中になる一方、現実での私は就職活動の時期を迎えました。 外国人ゆえに、ビザスポンサーになってくれるところを探す必要があり、日本人学生より高い壁が存在しました。

就職活動では、吉本興業も受験しました。吉本のスタッフになることは、私の長年の夢でもありました。吉本は何万人もの人が受験し、数回の選考を経てわずか数人に絞られるという、超難関の会社でした。

私は3回の面接と筆記試験をクリアし、合宿試験に臨みました。数万人の受験者の中から、その時点で約40人にまで絞られていました。実際、面接官から言われたんです。「あなたが外国人じゃなかったら引く」と。外国人だからこそ、私の吉本好きは嬉しくもあるけど、これが日本人だったら"ドン引き"していただろうって(笑)

でも、その合宿面接で落ちてしまったんですよね・・・多分吉本のことを"好きすぎた"からだと思うのですが、当時はショックでした。しかも、不合格の知らせを受けたのは、奇しくもあの大震災の前日でした。

■ 震災前日 失意の帰郷

最終面接を目前にして吉本に落ち、号泣した私は、気持ちをリセットするために台湾に帰りました。だから2011年3月11日、私は日本にいなかったのです。

台湾には1週間ほど帰っていました。震災の影響を恐れた家族からは「日本には戻るな」と言われました。でも私にとっては、台湾はもちろん故郷だけど、友達がたくさんいる日本も同じように故郷になっていた。だから台湾にいても日本にいても、どちらにしても辛かったと思います。

それに誤解を恐れずに言えば、この震災がきっかけとなって台湾と日本が改めてつながりました。台湾から被災地に義援金が送られたからですが、かつて台湾も日本に助けられたのです。1999年9月21日に台湾で起きた「921大地震」では、日本から緊急救助隊が来てくれました。その恩返しがなされたと思います。

台湾に帰っていた間に、私は気持ちを取り戻しました。日本に戻ってから、私の恩師が推薦状を書いてくださいました。大学院の卒業を目前に控えていましたが、幸いなことに、留学生は1年間のビザの猶予期間を与えられていました。だからその間に日本各地の劇団や劇場、ホールを回り、就職先を探し続けました。全ては「大好きなお笑いがあふれる日本にもっといたい」という思いからでした。

その甲斐あって、2012年12月に今の会社への就職が決まりました。当時私が日本に滞在できたのは、2013年3月まで。まさに瀬戸際でした。

■ 落語との出会い

話は前後しますが、2011年8月に吉本興業のイベント「YOSHIMOTO WONDER CAMP TOKYO」の「東京よしもと落語会」で、オリエンタルラジオの藤森慎吾さんが落語を披露しました。私は藤森さんを直に見たいという思いだけで、落語というものを全然知らずに会に行きました。 彼が披露した古典落語の演目「たいこ腹」の中で、私が理解できた言葉は全体の3割程度。これが私の落語との出会いでした。

その後2012年7月、落語家の桂文治師匠(当時は桂平治)が、私がかつて在籍していた大学院に公演にいらっしゃいました。 すでに落語の存在を知っていた私は、 友達に誘われて見に行きました。素人として高座に上がった藤森さんを除き、私が当時抱いていたプロの落語家のイメージは"ヨボヨボのおじいちゃん"(笑)でも目の前に現れた師匠は若くて驚きました。1席目の演目「肥がめ」(家見舞)で私は爆笑しました。

しかし2席目の演目は怪談噺「もう半分」でした。落語には痛快なコメディもあれば、 笑いと恐怖が同居するような複雑なストーリーもある - そんな落語の振れ幅の大きさに翻弄された私は「やばい、ハマってしまう!」と思いました。

当時はまだ就職前 。落語を楽しみたくても、経済的に難しい状況でした 。だから仕方なく、私の中の落語熱に蓋をすることにしました。

■ 抑えきれないこの気持ち

日本で社会人生活を始めてからしばらく経った2015年4月。数年前に 「もう半分」を見た後に封じこめた落語への愛を解き放つように、私は寄席に毎週末通い始めました。そして「落語を自分でもやってみたい」という思いが、じわじわと私の中に芽生えてきました。

そんな折、"芸能花伝舎"という拠点が主催する落語教室の存在を知りました。4月入学のクラスはすでに募集を締め切っており、次の募集は10月でした。私は「もし半年後も落語を好きでいたら、応募してみよう」と思いました。

その一方で、私を落語の虜にした「もう半分」の桂文治師匠のことが忘れられず、彼について検索していました。すると、奇遇にも桂文治師匠がご自宅の近くで落語教室を月1回開いているとのこと!しかも直近のクラスがその翌日に迫っていました。「どうしよう、まだ落語にハマってから半年経っていないな・・・でも文治師匠に会えるなら!」と、クラスへの参加を決めました。

■ 観客から演者へ

次の日、私は約3年ぶりに文治師匠と対面しました。私は自己紹介の時に言いました。「文治師匠が私の母校で落語を演じました。それを見て、私は落語が好きになりました」と。その時文治師匠は「学校で落語を演じて、落語を見てくれた人の中から、一人でも寄席に来てくれたらありがたい。ウミガメの養殖に近いのです」とおっしゃいました。私は言いました。「一匹が帰ってきました。しかも外来種です」と(笑)

その翌月に受講したクラスで、私は早くも落語を一席やることになりました。演目は「寿限無」林家たい平師匠が演じるものを聴いて覚えました。私は「これで良いのかな?」といった感じで手探り状態で演じましたが、なぜかクラスの人たちの反応は上々でした。

しばらくして、私が「寿限無」のお手本にさせていただいたたい平師匠にお会いする機会に恵まれました。そして師匠から、私の出身地の名前を冠した"宜蘭亭小籠包(ぎらんていしょうろんぽう)"という素敵な高座名を付けていただきました。

2015年9月、初めて一般のお客さんの前で初高座。再び「寿限無」で挑みました。そして11月、千葉で行われた"落語国際大会"に参加しました。文治師匠のスタイルを見て学んだ「平林」を、師匠に恩返しをする気持ちで演じました。

千葉県文化会館(2015年11月22日)

■ 好きこそ物の上手なれ

落語国際大会では惜しくも賞を逃しました。でも心から楽しんで演じました。ご覧になった方からも「誰よりも"落語が楽しい!"という思いが伝わってきた」と言われました。その方も落語をするのですが、私のその姿勢を見て「自分も落語を楽しんで演じなくては!」と思われたそうです。すごく嬉しいですね。

落語は、これからも演じ続けたいです。故郷の台湾で、中国語で落語を演じることも、いずれはやってみたいと思います。だけど、もっと落語がうまくなってからかな。

その前に、千葉でご一緒した外国人パフォーマーの皆さんと落語会を開きたい。欲を言えば、その会に真打や二ッ目など落語のプロにお越しいただき、その方々が外国人の演じる落語をどのように感じるかをお聞きしてみたい。それが、今の私の夢ですね。

■ 吳さんにとって、落語って何ですか?

"人生のユートピア"です。

落語の噺には、悪い人も出てきます。でも、その人たち全てを許せるし、憎めないんですよね。

例えば「掛取万歳」という演目があります。噺の中で、掛け金(ツケ)を回収に来た人と、家賃や食料品などの支払いを滞納していた人との絶妙な掛け合いが繰り広げられるのですが、両方ともすごく可愛いんです。しかもそれを演じる落語家さんたちも、すごく可愛い。だから落語を見るのは、私にとっては一種の現実逃避なのかもしれません。

思えば私の人生、いろいろなことがありました。父と母は離婚し、しかも父を病気で亡くしました 。もちろん当時は辛かったですよ。でも今となっては全てが"ネタ"。そう思えば、山あり谷ありの人生も、人情噺のように味わい深い豊かなものになると思いますね。


【吳さん関連リンク】

(2016年1月15日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を転載)

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