日系アメリカ人になりすました高校時代。日本の事など、何も知らないふりをした。

小5でバタバタと渡米した私が、「サード・カルチャー」という居場所を見つけるまで。

「すごく日本語上手ですね」(だって日本人やし)

「純粋な日本人の方ですか?」(そうです)

「てっきり日系人の方だと思いました」(なんで?日焼けしてるから?)

ーーこれはアメリカで出会う日本人に言われる言葉。

「えー?母国語は日本語なの?」(しかも大阪弁やで)

「えー?アメリカの市民権持ってないの?」(永住権です)

「えー?家族は全員日本に住んでるの?」(そういう事)

ーーこれはアメリカで会うアメリカ人に言われる言葉。

「じゃあ英語ペラペラですか?」 (特にペラペラの意識は無いけど)

「素敵!格好いいですね!」 (何が?)

「日本人離れしてますね」(日本に住んでないからかな?)

ーーこれは日本で会う日本人に言われる言葉。

私は大阪で生まれ、兵庫県の田舎で育った。小学5年生の時に親の仕事の都合で渡米するまでは、日本で平凡な生活を送っていた。

家族とシアトルへ
家族とシアトルへ

急な転勤だったのでバタバタとパスポートを渡され、身の回りの物を詰めてもらい、シアトル行きの飛行機へ乗せられ私のアメリカ生活は始まった。現地校へ通い出し、辛いと言うより正直訳が分からなかった。言葉や授業の内容はもちろん、給食に出てくる食べ物や休み時間に皆が遊んでるゲームのルールさえ何もかもさっぱり分からない。

唯一の友達は言葉の通じる2歳年下の弟。早く日本に帰りたいとばかり思っていたのを覚えている。

小中学生時代は英語が第二言語ばかりの生徒が集まるESL(English as Second Language)という特別なクラスで英語を学んでいた。私はこのクラスが大嫌いだった。「みきは英語の分からない人のクラスに入ってる」と、友達に思われるのが一番嫌だった。

文法なんかよりも必死で発音が上手になるように毎日何回も練習した。どうしたらあんな「R」の発音が出来るようになるのか自分の舌と悪戦した。とにかく皆と同じに聞こえるように、なんとかアクセントがなくなるように。

アメリカの転校先の小学校の校長先生と弟と筆者(中央)
アメリカの転校先の小学校の校長先生と弟と筆者(中央)
Miki Naganuma

高校生になり、ようやく英語を普通に話せるようになった私は、自分の日本人アイデンティティを避けたがるようになった。人前で日本語を喋るのも嫌で、日本の事なんて何も知らないふりをした。日系アメリカ人になりすます事が一番大事だった、変な時代だった。

そのままアメリカの大学へ進学、全てが変わった。小中高生時代を過ごしたダイバーシティほぼゼロの小さな田舎町から都会へ引っ越し、色々な人達と出会った。

大学ではスポーツ系、文科系のクラブやサークルと同様人種、国や地域別のクラブも沢山あった。中でも一番私が影響を受けたのは、大学にある「日本人生徒会」を通して出会えた「変な日本人」仲間のみんな。

日本人生徒会のメンバーは日本からの留学生や日本大好きなアメリカ人のほか、それぞれ色々な都合で日本、アメリカ、または他国で小中高生時代を過ごしてきた子達がいっぱいいた。

アメリカ生活始まって以来「あ、一緒だ!変な人こんなに沢山いるんだ。自分ひとりじゃないし結構普通かも」と思えた瞬間だった。

大学院のあるワシントンDCで家族と。左から父、母、筆者、弟
大学院のあるワシントンDCで家族と。左から父、母、筆者、弟
Miki Naganuma

この時期に「サード・カルチャー・キッズ(Third Culture Kids=TCK)」というアイデンティティを初めて学び、日本、アメリカといった一文化以外に、日本人でもない、アメリカ人でもない、ハーフでもない、日系人でもない独自の第三文化を創り上げた自分の居場所を発見した。

この頃から日本の文化にとても興味を持ち始め現地で様々な日系団体と一緒にボランティア活動を始めるようになった。生け花教室へも通い始め、天声人語の書き写しも始めた。変な日本人でも自分が日本国民であるという事を自覚し、誇りに思えるようになった。日本と離れてるだけ日本の事がもっと好きになった。

今年でアメリカ生活は22年目になる。

大学卒業後、両親も日本へ帰国しこれから自分はどこに住もうと迷った時期もあった。とりあえず自分の中で関心の高かったアメリカの住宅政策を学びにワシントンDCの大学院に進学した。

それ以来、政府の住宅都市開発省に関係する仕事につき、低所得家庭の人達への住宅支援プログラムのマネジメントをしている。人生は面白いほど計画通りに進まないもので「将来どこに住もう」と心配するのは辞めた。もしご縁があれば、将来日本で生活することも全くありえると思う。

人は自分の生まれる国を選べない。育つ場所もある程度しか選べない。10代、20代の頃なぜ自分はこんな変な星の下に生まれたのか迷ったのを覚えている。なぜ周りの人は家族や親戚のそばで、自分の生まれ育った国で普通に生活してるのに、私だけこんなややこしい事になったのか分からなかった。

しかしTCKという国境線を越えたアイデンティティを見つけて以来、知らぬ間に多文化や異文化を通して身につけてきた語学力、共感力、コミュニケーション力、グローバルな価値観や視点が実は素晴らしいものではないかと気づき始めた。

もしかすると変な星の下ではなく、素敵な星の下ではないか、と。

夫とその家族と筆者(右端)
夫とその家族と筆者(右端)
Miki Naganuma

30代の今、第三文化という不思議な空間で私を育ててくれた両親とそこへ導いてくれた自分の運命に感謝の気持ちを持つ事が出来るようになった。

今、自分はアメリカを拠点とし、日本には年1、2度里帰りしている。家族との間に8,000キロと16時間の時差が有るのを寂しいと思う事も有るが、最近スマホさえ持っていれば簡単にコミュニケーションは取れるし、飛行機一本でいつでも帰れる。

将来何処に住もうが、私はこれからも2ヵ国の真ん中を生きていく。

アメリカに居るときはお寿司食べて、日本語の本を読んで、日本のテレビを見て、日本を恋しく思う。日本に居るときは英語の本を読んで、ピザを食べて、英語で独り言を呟きながらアメリカが恋しくなる。

これでいいんだ。世界中どこに居ても私はTCK。

Shiori Clark
Shiori Clark
HuffPost Japan

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