被災地出身、でも被災者じゃない。「中間被災者」として考えたこと

私には「苦しむ資格」がない。孤独と戦った7年。

私は、宮城県出身です。18歳の時に、大学進学のために上京してきました。

私には、ある悩みがありました。

「七海ちゃんって、宮城出身なんでしょ?地震大丈夫だった?」

初めて話す人に、必ずと言っていいほどよく聞かれます。

はじめに言っておくと、私の親族はみんな無事でした。沿岸部に住んでいる親族も、運良く津波から逃げることができたのです。世間一般から「被災地」と言われる場所で生まれ育ちましたが、家族親族を亡くしたり、直接的な被災をしているわけではありません。

私はあの日から、「中間被災者」になりました。

中間被災者?あなたは被災地で生まれ育って、少なからず傷ついたんだから、立派な当事者じゃないか!と思われる方もいるかもしれません。けれど私の言う「中間被災者」とは、「完全な当事者にも、第三者にもなれないような気がして、自分が何者か分からなくなってしまった状態」のことをいいます。

当時、私は中学二年生でした。牡丹雪の降る日、いつも通り授業を終え自宅で一息ついた途端、強烈な地響きとともに視界が万華鏡のように回転しました。震度7の揺れは、永遠のようにも感じました。ふとあたりを見回してみると、家の中はメチャクチャになり、家のすぐ近くで大規模な地滑りが起きていました。携帯電話も、固定電話も繋がらない、もちろんテレビもつかない、情報から遮断された世界。確かに、私はあの時一瞬にして安否不明者になってしまいました。

その日は正直、ここで何が起きているかまだ分からなかったような気がします。次の日の朝、号外を見ると、世界はひっくり返っていました。沿岸部に大津波が来たこと、大規模な火事が起きたこと、原発事故が起きたこと、よく遊びに出かけたボウリング場が遺体安置所になったこと。

それから一週間以上、小学校の炊き出しに並び、夜はすすり泣く声が響く体館で、身を寄せ合って寒さをしのぐ生活が続きました。それでも、家族全員が無事であることは奇跡と言えるようなことだったと思います。

長い間、私は自分が「被災者」だと言えませんでした。

だからいつもこの手の質問が来ると、狼狽して、「全然、全然大丈夫だったよ」と言うのでした。

つらいなら、つらいと言っても良かったと思います。でもそれが、許されないような気がしていました。私よりつらい人がたくさんいるからです。津波で家族を亡くしたり、家や職を失ったり。仮設住宅で暮らす人々の報道を見ると、自分が毎日温かい布団で目覚めることに、罪悪感すら感じました。

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私はあの時から、失望しない代わりに、希望をもつことを自粛しました。そして、震災に関する一切のことに、口を噤みました。たまにSNSで、「東北は終わり」だとか「汚染された地域」、「東京じゃなくてよかった」など、心ない言葉を見かけることもありました。けれど、何もアクションを起こせない自分に、ひとしく苛立ちを覚えました。私は、被災地の中にも外にも自分の居場所がないような気がして、とても、孤独でした。

大学に入った後、初めて宮城県南三陸町でボランティアに参加しました。大学に入ってから、この手の質問を受けることも多く、東北復興について意見を求められる機会が増えたからです。彼らの質問は、心からの善意だったと思います。でもそれに対して何も言えなくなってしまう歯がゆさ、もどかしさをどうにかしたいと思いました。そしてずっとタブーだと思って蓋をしてきたものを、自分の目で見て、自分の言葉で語れるようになりたい。このままでは自分が何者でもなくなってしまうように感じて、思い切ってボランティアに参加してみたのです。

それから帰省のたびには毎回、被災地を訪ねるようになりました。宮城以外にも、福島、岩手にも何度も何度も足を運びました。現地の人の話を傾聴し、時には一緒に涙を流したり、復興に向けて前進していく人々の姿を見て、自分を鼓舞したりしました。

そんなある時、現地のおじいちゃんに思い切って、「私には被災地を語る資格なんてないんじゃないか」と打ち明けることにしました。すると、意外な答えが返ってきたのです。

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「語る資格なんて、誰も持っていない。けど、思いを馳せる資格はあるだろうね。あなたがそれだけ考えてくれていることが、何より嬉しい。」

今思えば、人と苦しみの程度を比べてしまうと、かえって自分の中にあるこころの問題が顕在化していきました。そして本当に目を向け、対話しなければいけない被災者との隔たりは、増幅するばかりでした。

ともすれば、今でも被災地に関して「被災してないのに、つらかったなんて言えない」、「私に東北を語る資格なんてない」と思っている方もいるかもしれません。けど、私はあの時全員が体験した固有のストーリー、固有の感情、感覚を、もっとオープンに話してみてもいいと思うのです。だって、それだけが事実ですから。でも誰かが声を上げるのをやめたら、話すことさえタブーになってしまいます。

この7年間に「当事者」と「第三者」の間に分断があったとして、その間で必死にもがいてきたことをあえて「中間被災者」と呼ぶのは、「今まで大切にしたかったけど、できなかった声がある」という事実と、「そもそもそんな分断は、あってはならなかった」ということを伝えたかったからです。当事者意識持とうとか上からガミガミ言われても陳腐で、つまらなく感じてしまうのは、自分が持っているリアリティこそ代替不可能なものであるからだと思います。

東日本大震災から、もうすぐ7年が経とうとしています。風化していく現状を、私が止めることはできません。でも、これだけは伝えられます。あの日以来、「中間被災者」という状態になってしまった方はたくさんいると思います。ですが、「苦しみ」の大小を比較して、自分を責める必要は全くありません。震災という文脈に限らず、自分の中にある「つらさ」や「寂しさ」は、自分だけでも認めてあげましょう。苦しんだって、何にも恥ずかしいことなんてなかったんです。

だから、自分に嘘をついて押し黙ることは、今すぐやめてみませんか。

私は7年間もかけて、やっと、やっと気づくことが出来ました。

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3.11が近くなってくると、嫌でも震災関連の映像や記事を見ることになるでしょう。それは「みんなの共通の記憶」であるからこそ、一過性のものに過ぎません。でも私はそれだけで終わらせたくないから、こうして言葉にすることにしました。これからは、「あの日を語りなおすことが、自分自身と向き合う時間になる」と信じて。

私はそんなリアリティの多様さを認め合える社会を記事を通して作っていきたいし、何よりも、自分の「こころの動き」にちゃんと向き合っていきたいと思っています。

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