『被ばく証言を消費してはいないか』

もっと聴こう。もっと会いに行こう。何かわかるかもしれない。そんな風に気持ちが高まっている時に、ふと思いました。「私は被ばく証言を消費してはいないだろうか」と。

はじめまして。福岡奈織です。

広島でNPOスタッフをしています。大学生の頃に、広島というまちが、原爆が落とされたまちであることに興味を持ちました。

そして、主に大学生など若い世代に向けた被ばく証言会の開催や、国際交流NGOの主催する『ヒバクシャ地球一周証言の航海』へのユース非核特使としての参加、広島の被ばく者との個人的な交流を通じて、「広島の心とは何か」「広島を継承するとはどういうことか」ということを考えてきました。

また、大学の卒業研究では、フランス領ポリネシアでフランスの行った核実験によって被ばくした現地住民について書きました。調査のためにタヒチ島へ滞在し、現地の被ばく者や、活動家にインタビューを行い、直接の声を聴くことができました。

そんな中で感じたこと、考えたことを書き留めていきたいと思います。

被ばく者と交流する中で、考えることがあります。

それは「被ばく証言を消費してはいないだろうか」ということです。

広島市で育った私にとって、ちいさな頃から「原爆」や「被ばく」という言葉は実に身近なものでした。小学校では毎年原爆に関するビデオを見ました。地域に住むお年寄りを訪ね、戦争体験・被ばく体験を聴かせてもらうという授業もありました。毎年8月6日の8時15分には、目を閉じて爆心地の方角を向いて黙とうを捧げることが習慣です。

特にそれが特別なことだとは思っていませんでした。多くの被ばく者がいることも、原爆にあった記憶を語る人がいることも、当たり前のことだとも思わないくらい自然なことでした。被ばく者が原爆にあったことを話す「被ばく証言」は、あって当然のものだという認識でした。それが広島独特のものなのだと気づいたのは、大学生になって県外出身の人など、多様な人たちと触れ合うようになったからです。

今まで、そして今も、私は広島に落とされた原爆のこと、そこで何があったのかをもっと知りたいと思った時、「原爆の話をきかせて下さい」と言って、お願いしてきいてきます。

被ばく証言、聴けばいろいろと感じるものがあります。本当に様々なことを学びます。聴く度に、もっと勉強したいと思い、もっと、もっとといろんな方にお願いしていた時期もありました。

もっと、もっと聴こう。もっともっと会いに行こう。何かわかるかもしれない。

そんな風に気持ちが高まっている時に、ふと思いました。

私は被ばく証言を消費してはいないだろうか」と。

私は、被ばく者の話に「何か」を勝手に求めてはいまいか」と。

自分の「何か」を満たすために、記憶をおこさせ、話させる。満たされた私は、次へと向かってゆく。たとえその「何か」が、勉強や平和のためであったとしても、それでよいのだろうか。

もし、自分が被ばく者だったら。もし、自分が原爆に合い、家族や友達を亡くしたり、人間の姿とは思えないほどの重傷を負った人びとと遺体の数々を見たり、助けたかった人を助けずに逃げねばならなかったりした記憶を持っていたら。それをわざわざ何度も思い返しながら人に話したいと思うだろうか。私にはできそうにありません。

親しい被ばく者は「話す度にね、においとか感触とかが蘇って吐きそうになるんよ」と言っていたことがあります。何度も何度も思い返し、言葉として口に出すことはそんなに簡単なことではないのだと思わされました。

しかし、私が被ばく者から話を聴く行為は、被ばく者の「被ばくした」という記憶を何度も何度も繰り返し思い出させ、何度も何度も追体験させてしまっているようなものです。そしてそれは、被ばく者を原爆や核実験の犠牲にしたことと同じような構図を繰り返してしまっているのではないかと疑問に思い始めたのです。

広島・長崎のまちや、被ばく者は、原爆投下以前から今に至るまで調査され、データをとられ、その結果のすべてが公表されているわけではありません。

漫画『はだしのゲン』の中には、被ばくしたことによって病気の症状が出た人に、ABCCが「検体」として番号をつけていたという描写もありますが、それは被ばく者が感じてきたことを表していると思います。

私が話を聴いたポリネシアの被ばく者も、フランスの核実験場で働き、今に至るまで何度も健康診断を受けてきたが、診断結果や病名を教えてもらったことはないと言います。

被ばく者を研究することで得られたデータは数多くあります。そのデータが後の人びとの役に立っているということもあるかもしれません。しかし、私の行った研究も含めてその成果がどのくらい被ばく者自身のためになっているのでしょうか。被ばくしてなお使われる。使われて、なくなってゆく。そういうことが繰り返されてはいないだろうか。私は、繰り返してしまってはいないだろうか。

フランス領ポリネシアの核実験被ばく者へも同様です。

タヒチ島に調査に行き、被ばくするに至った経緯をたくさん聴かせてもらいました。

中には話したくはないけれど...と重い口を開く人もいました。「その話を聴かせてください」と言って、ヨソモノの私は話をきく。そして、自分の卒業論文を書く。わたしの目的は達成される。

核開発は、先住民や、中心ではなく周縁に位置する人たちを犠牲にしながら大国によって進められてきました。

おそらく、被ばくに関する研究も、大国によって行われ、先住民や、周縁に位置する人たちから話を聴きながら、進展していきます。

人が被ばくするということが、大国のため、または力の強い側にずっと使われていてよいのだろうか......。

そんなことを思いました。

平和活動や平和学習の一環として被ばく証言を聴く人たちは大勢います。被ばく証言を聴き、学び考えることは大切なことです。そして、被ばく者の直接の声を聴くことができるのは、あと数年が最後の機会になるかもしれません。

しかし、被ばく証言の依頼の中には、「政治的なことは話さないでください」「過激な描写は避けてください」「戦後のことはいいですから、当日のことだけ話してください」などの要望がある場合があると聴きます。今一度、被ばく者の立場に立って、その要望が被ばく者をどんな気持ちにさせるか考えてほしいと私は思います。

被ばく証言を行う被ばく者は、人によっては毎日数回の証言会を依頼され、こなしています。70歳80歳を超え、健康にも不安がある中で伝えねばならないという使命感を持ち、記憶を何度も何度も掘り起こしながら話をする人たちを見てきました。話をするために会場に移動するだけでも、結構な労力が必要です。それでも続ける熱意と強さに圧倒されることもよくあります。

被ばく者が全員当時のことを話すわけではありません。表に出ている方々は、覚悟と想いを持って、腹をくくって話すと決めて話しているごくごく一部の人たちです。証言すると決めているとしても、話したいこと、話したくないことがあります。被ばくの話をするというのは、多かれ少なかれその人の複雑に絡んだいろんな心が反映された行為です。

私は、被ばく者やその体験や記憶を利用して奪ってばかりではいけないと思いました。使ってばかりではなく、きちんとお返しをし、それ以上のことをしていきたい。そう考えた時に、被ばく者の「若い人につないでいってほしいんよ」という想いにこたえることが、今私にできることではないかと思いました。

「もういつ死ぬかわからんけぇ。」と言いながら、話せなくなるまでに一人でも多くの人に原爆がどれだけ悲惨な被害を生むのかを伝えようとする人たちを近くで見てきました。

原爆が落とされて今年で71年目となります。被ばく者の高齢化は顕著で、当時のことを話すことができる人もどんどん減っています。被ばく者の苛酷すぎる体験と、「核兵器は使ってはならない。自分たちと同じような経験を他の人にさせてはならない。」という声は、私たちのようなうんと若い世代が引き継ごうとしなくてはならないのだと思います。

「伝えてくださってありがとうございました。これからはその体験を次へとつないでいきますから。」と被ばく者に言えるような世界をつくることが、たくさんの被ばく体験を聴いてきた私にできることだろうと思います。

「被ばく証言を、消費してはいないだろうか」

ずっと問い続けていたいと思います。

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