安倍首相のダバオ訪問で残された宿題 / 残留2世救済に政治決断を

日系2世らは戦後長く現地で厳しい差別、迫害に苦しみ、多くは「日本人の子」であることを隠してきた。

安倍晋三首相は1月13日、フィリピン南部ミンダナオ島の中心都市ダバオを訪れた。ロドリゴ・ドゥテルテ大統領(71)の就任後初めて地元を訪れた外国の首脳ということもあり、各地で盛大な歓迎を受けた。

なかでも日系人らが中心となって同市ラナン地区に設立されたミンダナオ国際大学には、学生から年老いた日系二世まで多数が集まり、一番の盛り上がりをみせた。

安倍首相を出迎えた日系人ら=1月13日、ダバオ・ミンダナオ国際大学前で、マニラ新聞・冨田すみれ子記者撮影

30年前まで何もない湿原だったこの地にはいま、大規模モールやホテル、大小のレストランが立ち並ぶ。1989年に日系人会が建てた会館が呼び水となり、日本フィリピンボランティア協会(調布市、八木真澄会長)の継続的な支援で、小中学校、02年に同大学が開設された。その後、周辺に日本食料理店や旅行会社が続々と立地した。

安倍首相を歓迎して旗を振る日系人会小学校の児童ら=1月13日、ダバオ・ミンダナオ国際大学前で、マニラ新聞・冨田すみれ子記者撮影

戦前、ダバオには、船のロープに使われるマニラ麻(アバカ)の栽培で成功した日本人ら約2万人が住み、アジア有数の日本人町が形成されていた。当時の「リトルトウキョウ」を彷彿とさせる風景が戦後70年を経てこの地に広がる。

安倍首相を歓迎する日系人の輪のなかに、ダバオ郊外に住む永田オリガリオ・マサオさん(71)の姿もあった。永田さんは1年前、フィリピンを訪れた天皇皇后両陛下もマニラで出迎えた。感想を聞くと「Syempre, Masaya」(もちろん幸せだった)と相好を崩した。

天皇皇后陛下に続いて首相も会いに来てくれた

フィリピン残留日本人の国籍取得を支援するフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)のホームページは、天皇と日系人の面会の様子を以下のように紹介している。

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天皇陛下を日本人としてお迎えするために参集した残留2世87名は、両陛下がご宿泊されるホテル「ソフィテル・フィリピン・プラザ・マニラ」のロビーで、日本の国旗を持ちながら両陛下のご到着を待ちわびていました。

両陛下がお見えになると、2世から歓喜の声が上がりました。

天皇陛下は右手を小さくあげ、一人一人にゆっくりと話しかけられ「大変でしたね」などと慰めのお言葉をかけられました。

皇后陛下は英語で「会いに来てくださって、ありがとう」と話しかけられました。

両陛下は3重、4重にお二人をとり囲む残留2世の間に分け入り、最後列の人の手をとって、一人ひとりに、丁寧にねぎらいの言葉をかけられました。

フィリピン全土から集まった2世たちの年齢は、70歳から87歳。歩行が困難な2世たちは杖をつき、車いすに乗りながら会場にたどり着きました。

当初、天皇・皇后両陛下との面会は代表者5名のみ許されていました。

しかし両陛下は残留2世らの「両陛下にひと目会いたい」という希望を受け入れられ、最終に参加者全員との接見が実現しました。

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このとき、2世としては最年少の参加者だった永田さんは、戦争直後のダバオで、熊本出身の父と現地の女性との間に生まれた。しかしフィリピン人でもなければ日本人でもない。無国籍なのだ。

戦時中の日本軍の蛮行のため、日系2世らは戦後長く現地で厳しい差別、迫害に苦しみ、多くは「日本人の子」であることを隠してきた。出生証明書や両親の婚姻証明書を捨てて逃げた人も多い。永田さんもそうしたうちの一人だ。もう20年も日本の国籍を求めてきた。

永田オリガリオ・マサオさん=ダバオ市内。柴田直治撮影

昨年、熊本家裁に戸籍をつくるための「就籍」の手続きを申し立てた。2013年にも東京家裁に申し立てたが、14年12月、「証拠不足」として棄却されていた。

今回は、新たな証言と、在フィリピン日本大使館の参事官が同席して行われた聞き取り調査結果(陳述書)を新証拠として提出した。PNLSCによると、陳述書を添えて再申し立てした初めてのケースだが、結論はでていない。

2015年7月、フィリピン日系人会連合会のマリャリ・イネス会長らが訪日して安倍首相に面会、2万8000人の署名を添えて、国籍問題の早期解決を陳情した。その結果、昨年実現したのが外務省立ち合いのもとでの聞き取り調査だ。この陳述書の効果がどれほどか、今後の各家裁の判断が注目される。

中国残留孤児並みに

安倍首相は今回、ダバオでイネス会長ら日系人連合会の人々と1年半ぶりに再会した。イネスさんら日系人会幹部らは首相との面会や外務省の調査立ち合いに深く感謝の意を示している。しかし私は、この間の進展をとてももどかしく感じている。

マリャリ・イネス・フィリピン日系人連合会会長=ダバオ市内、柴田直治撮影

安倍首相は東京で「戦後70年を迎える中、日本人としてのアイデンティティーを取得したいという思いは当然で、政府としても、しっかりと協力をさせていただきたい」と日系人らに語りかけた。

首相の言葉に加え、面会実現に尽力した笹川陽平日本財団会長の影響力や首相との近さを考えあわせると、もう一歩踏み込んだ政治決断があると当時、私は期待していたからだ。

天皇の振る舞いに政治的な意味を持たせてはいけないことは承知しているものの、両陛下が彼らを「日本人の子孫」として遇し、日系人だったがゆえの戦後の境遇に「大変でしたね」と同情を示したことは事実だ。

「陛下が手を握ってくれた。首相も会ってくれた。それなのに、なぜ」という思いが未認定の日系人らの心に残ったとしても不思議はない。

確かに陳述書が強い証拠として就籍につながれば、当事者にとっては決定的な進展だ。しかし聞き取り調査はこれまでに3回。対象は計20人ほどだ。前進はした。しかしそれはしょせん官僚の仕事が積みあがっただけ、と言えば言い過ぎだろうか。

PNLSCによると、フィリピン残留2世は判明しているだけでも約3500人。約半数が既に亡くなっている。

父親の身元が判明しているものの親子関係が証明できない2世や父親の身元が判明しない2世計約1200人が日本国籍を求めているが、これまでに就籍手続きによって日本国籍を取得した人は2016年末現在で189人に過ぎない。平均年齢は80歳に近づき、時間は限られている。

国籍が認められれば、4世までが日本に行くことも働くことも自由になる。認められた人の家族が日本に移住したり、出稼ぎしたりして一定の豊かさを得たのに対し、認められない人たちの生活は多くの場合、貧しいままだ。

永田さんも「東京と熊本を訪ねたが、美しい国だ。認められたら一家で日本に住みたい。国籍を得た人たちの生活がうらやましいという思いはある」と話す。

私が望む「政治決断」とは、中国残留孤児と同様の扱いをすることだ。

こちらは日中国交回復後の1981年に政府による訪日調査が始まった。中国政府が作った孤児の名簿を家庭裁判所が証拠採用することで両親の身元がわからなくても就籍が可能となり約1300人が日本国籍を取得した。

両親が日本人である中国残留孤児と違って、フィリピンでは母親が現地の人という差を指摘する声もあるが、日比ともに国籍法が父系主義をとっていたことを考えれば、立場に違いはない。

日本財団の笹川会長は「特別立法による救済の必要性を指摘する声もあるが、国会の動きは鈍い」「新法を作らなくても、現在の『中国残留邦人支援法』の一部を改正し、残留2世をその対象に加えるなど、解決策はいくらでもあるはずだ」と指摘しており、私もその通りだと考える。

ドゥテルテ大統領へのアピール

昨年12月1日、ダバオ市の会議場で催された在ダバオ日本領事事務所主催の天皇誕生日祝賀会に、ドゥテルテ大統領が出席した。現職の大統領が各国の記念日に出席するのは極めて異例だ。

天皇誕生日祝賀会で、日系人らと歓談するドゥテルテ大統領=2016年12月1日、ダバオ市内。アントニナ・エスコビリャ日系人会会長提供

大統領は席上、検察官時代に同僚だったアントニナ・エスコビリャ日系人会(ダバオ)会長を壇上に呼んだ。エスコビリャ会長が「日系人らと一緒に写真を撮ってください」と頼むと、大統領は「Japanese descendants(日本人の子孫たち)」と3回にわたって呼びかけ、「早くしないと大統領警備隊がすぐ邪魔するぞ」と冗談を言いながら記念撮影に収まった。

アントニナ・エスコビリャ日系人会(ダバオ)会長=ダバオ市内。柴田直治撮影

連合会のイネス会長は「ドゥテルテ大統領は、ダバオの発展に戦前来、日本人が大きく寄与したこと、戦後2世が辛酸をなめたこともよく知っている。市長時代からいつも日系人の存在を気にかけてくれる」と感謝する。

安倍首相が残された戦後処理のひとつとして一括救済を政治決断すれば、多くの日系人が救済される。

それは日系人の置かれた立場をよく知るドゥテルテ大統領への大きなアピールになるだろう。日系人らの生活は向上し、日本としても貴重な労働力を期待できる。ダバオの経済にも資するだろう。決断のタイミングはまさに熟している。

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