医師不足:第二次世界大戦とオイルショックの爪痕

現在、医師不足が深刻とされ、医学部の定員増、及び新設が検討されている。しかし、一昔前の80〜90年代には、将来的に医師は余るという見通しが常識とされていた。一体なぜ、真逆の未来を想定してしまったのだろうか。

現在、医師不足が深刻とされ、医学部の定員増、及び新設が検討されている。しかし、一昔前の80〜90年代には、将来的に医師は余るという見通しが常識とされていた。人口動態を予想することは、そう難しくはない。そこから、将来の患者数規模、つまり医師需要は、予測できたにもかかわらず、一体なぜ、真逆の未来を想定してしまったのだろうか。

本稿では、この問題について、我が国の歴史を基に考察する。

問題となっている80年代当時、医療界を牽引していた医師等は、自らが大学を卒業する前後に、同期医師の急増を経験した。元日本医師会会長村瀬敏郎氏(慶応義塾医学部1946年卒)は、マスコミの取材に「昭和十四年(1939年)に私が大学へ入ったとき、日本中の医科大学入学生が千九百人だったのが、卒業した二十一年(1946年)には、一万二千人になっていた。」(1995・3・10産經新聞)と答えている。なんと、同期のライバルが急に6倍になったのだ。

この「異常事態」の原因は、第二次世界大戦前後に、戦時の医療を支えるべく、一時的に生み出された、戦中医専という医師養成機関出身の医師の存在にあった。これに加え、台湾、朝鮮、樺太、満州等、外地には18もの医学校があり、そこから撤収してきた医師等も戦後の医師の増加に寄与していた。例えば京城医学専門学校の総卒業生数は設立以来約2600人おり、教員も含め学校所属者の半数でも帰国したとすればかなりの数になる。そしてその後、先に述べた世代の医師等は、戦後から1950年頃までつづく不況のなか、医療費が削減され、それに伴い医師養成数が約3000人へと縮小されていく様も目撃した。

この当時の医師数削減に関連し、特筆すべきはハイパーインフレーションである。鉛筆一本の値段が、1945年20銭だったのが、1950年には10円になっていた。5年で50倍である。これがいかに急騰であるかは、1969年に同じ鉛筆が15円(20年で1.5倍)となったことからも良くわかる。このような状況下で、傾斜生産方式が採用され、その延長線上で、当然のように、日本国の経済力の回復に関係しない財政支出は徹底的に削減された。実際、1949年の国民健康保険関係費は政府支出の600分の1であり、物価は上昇したにもかかわらず、診療報酬も1948年以来51年まで据え置きであった。

その後、日本経済は立ち直り、60年代の高度経済成長期を迎える。1961年の国民皆保険制度導入以後、15年間で、国民医療費は10倍以上に跳ね上がった。その間、消費者物価指数が約3倍になっていることを考慮しても、医療に割かれる費用の規模が4倍近くなったことになる。そして、この医療費の大幅な増加が以後の医師養成数の増員を可能にした。70年代についに、一県一医大構想が実現し、医師数が約2倍に増加したのである。

ところが、この時期にオイルショックが起こる。

1974年から1980年にかけてのスタグフレーションにより、所得は増大しないまま、物価は約1.5倍に急騰している(あんぱんの値段は50円→80円である。)。

1983年、当時の日本医師会長である武見太郎氏(1904年〜1983年)は、自著「実録日本医師会」にて「今医者がむちゃくちゃに増えている」「保険だけで、こんなに大勢の医者を食わせることが出来ない」と述べている。戦後以来再び、医師が増え、不況に陥るという経験をしたのだ。既視感を抱いたことは容易に推測できる。

当時の武見氏の頭の中にあったのは、どう社会保障を充実させるかではなく、どのように不況を乗り越えるかであったのだろう。「将来、医師が余る」という議論が以上のような観点からなされたことは、注目すべきである。

この状況は政府も同じだった。実際、医師数の抑制方針も、医療整備に関する閣議決定ではなく、財政再建に関する閣議決定に基づくものであった。具体的には1982年9月24日「今後における行政改革の具体化方策について」等によって決定された。1983年には、厚生省事務次官、吉村仁(1930年〜1986年)が「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方、医療費亡国論」を発表している。医師数の抑制という方針は、政府の支出削減の文脈において行なわれたのである。

戦後と80年代の状況を比較すると、規模は違うものの、両状況は、直前に増えた医師数を財政の観点から減らした点で、酷似している。言い換えれば、先の戦後の状況を経験した人々は、80年代に戦後と同様の対処を再現した。それが正しいと疑わなかったのである。実際、80年代に医療現場の中心におり、現場状況を把握すると同時に、最も発言力を持っていたであろう、先の世代の医師等も、当時の医師数抑制に素直に賛同した。1984年に始まった、佐々木智也 東京大学名誉教授(1922年〜2007年)を座長とする「将来の医師需給に関する検討委員会」では、「1995年を目処として医師の新規参入を最小限10%削減すべき」と答弁され、1990年の日本医師会による医業経営検討委員会答申においても、「平成12年より医学部入学定員20.8%削減すべき」と打ち出されたのだ。

しかし、国の財政にとって「適正」な医師数は、結果的に、国民の求める医療を提供するための「適正」な医師数とは一致しなかった。この二つの「適正」の意味する所の明確な区別無しに、医師数というものが議論されたことが、冒頭の矛盾を生み出したのである。

現在国民が求めているのが、間違えなく後者の「適正」な医師数である以上、今後の医師数の議論は、国の財政とは切り離して行なわれなければならない。

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