脳を膨らませてナノスケールの細部を観察

『不思議の国のアリス』を読み過ぎた科学者の夢「膨張顕微鏡法」によって実現可能に

紙おむつの吸収体に利用される材料を使って脳組織を膨張させることにより、一般的な光学顕微鏡を使って、わずか60nmの特徴まで解像することができた。

顕微鏡は生きた細胞や組織を大きく見せるが、実際に大きくすることができると言ったらどうだろう?

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そんなのは『不思議の国のアリス』を読み過ぎた科学者の夢物語だと思われるかもしれない。けれどもこの概念は、今回編み出された技術の基礎となった。この手法を用いれば、普通なら光学限界を超えるような特徴を一般的な光学顕微鏡を使って解像でき、脳全体を分子レベルで詳細に画像化することが可能になるという。

膨張顕微鏡法(expansion microscopy)と名付けられたこの手法では、おむつの吸収体としておなじみの材料を利用して生物組織を物理的に膨張させる。マサチューセッツ工科大学(MIT;米国ケンブリッジ)の神経工学者Edward Boydenは、2014年12月に米国立衛生研究所(NIH;メリーランド州ベセスダ)で開かれたシンポジウムで、MITの同僚Fei ChenおよびPaul Tillbergとともに開発したこの技術について発表を行った(訳註:この成果はScience 2015年1月30日号に掲載された。Chen F., Tillberg P. W. & Boyden E. S. Science347 543-548 (2015))。

回折限界との戦い

膨張顕微鏡法は、その研究により3人の科学者が2014年のノーベル化学賞を受賞した「超解像顕微鏡法」の新機軸といえる。どちらの手法も、物理法則による限界を突破しようとするものだ。1873年、ドイツの物理学者エルンスト・アッべ(Ernst Abbe)は、普通の光学顕微鏡では約200nm(可視光の中で最も短い波長の半分程度)以下しか離れていない2つのものを識別することはできないだろうと考えた。この「回折限界」より近接しているものを見ようとすると、ぼやけてしまう。

超解像顕微鏡法は、タンパク質に蛍光分子を結び付け、蛍光が発生する位置を高い精度で特定することで、アッべの回折限界を乗り越える手法だ。細心の注意を払えば、今やこの手法で互いに約20nmしか離れていないものも識別できるようになったが、高価で特殊な装置が必要であるし、脳や腫瘍の切片などの厚みのある構造の解像は困難だ。

Boydenや他の多くの神経科学者たちは、ニューロン集団や脳全体のシナプス(2個のニューロンが情報をやりとりする結合部)におけるタンパク質の位置などを、分子レベルで解明しようと努力してきた。

Boydenはシンポジウムで、「我々は、全てを大きくすることが可能かどうかを研究しています」と語った。彼らが目を付けたのはアクリル酸塩という化学物質だった。この物質は、彼らの目標にとって都合の良い特性を2つ持つ。1つは、目の詰んだ網目状構造を作ってタンパク質を整然と捕捉できることで、もう1つは、水の存在下で膨張することだ。アクリル酸塩は、おむつの吸収体になる材料である。Boydenがこれを使って観察したい組織を膨張させると、どの方向にも約4.5倍の大きさになった。

水を加えるだけ

Boydenの手法では、まず、生体組織を数種類の化学物質で処理して透明にする。次に、特定のタンパク質をアクリル酸塩に結合させるための蛍光分子タグを付け、アクリル酸塩モノマーを組織に浸透させる。このモノマーの重合反応を開始させると、組織内でアクリル酸塩ポリマーの網目状構造ができる。その後、組織のタンパク質を分解し、残ったアクリル酸塩ポリマーに水を加えると、おむつの吸水体と同じように水を吸って膨張し、網目状構造に結合している蛍光タグの間隔もあらゆる方向に広がっていく。こうして、最初は光学望遠鏡では識別できないほど近接していた蛍光タグが、はっきり分かれて見えるようになる。Boydenは、この手法を用いることで、最初は60nmしか離れていなかったものを解像することができると述べた。

重要なのは、このプロセスがタンパク質の相対的な配向と相互連結を基本的に保存し、細胞のその他の構造を元のままに保つことだ。Boydenのチームの計算によると、タンパク質の相対的な位置は1~4%しか歪まないという。

マウスの脳切片(左)に吸水性の高いアクリル酸塩を加えると、全ての方向に約5倍に膨張させることができた(右。比較しやすいように倍率を小さくしてある)。解剖学的構造は膨張の前後で基本的に変化していないことが分かる。

Boyden, E., Chen, F. & Tillberg, P./MIT/Courtesy of National Institutes of Health

Boydenは、膨張顕微鏡法は他の超解像顕微鏡法に負けない技術だと主張する。彼らは、膨張させたマウスの脳組織を使った実験において、シナプス前部と後部に位置する2個のタンパク質の間の距離を測定したところ、その結果は超解像顕微鏡法での測定値(参考文献1)とほぼ同じであったという。

三次元の複雑な組織の画像化であれば、膨張顕微鏡法の方がより良好な結果が得られるかもしれないとBoydenは言う。彼はシンポジウムで、マウスの脳の海馬を0.5mmの厚切りにしたものの画像を、隣り合うニューロン同士の結合が分かるスケールで示した。そして、同じ画像を拡大して、神経伝達物質が放出されるシナプスボタンと呼ばれる部位の微細な構造も明らかにしてみせた。Boydenのチームは、ショウジョウバエやゼブラフィッシュの脳にも膨張顕微鏡法を用いており、彼らと共同研究を行っているグループは、ヒトの脳の研究にこの手法を用いている。

限界のその先へ

カリフォルニア工科大学(米国パサデナ)の神経科学者Viviana Gradinaruは、Boydenの手法は、科学者が生物組織を変化させることでハードウエアの限界を乗り越えた例の1つだと評価する。2013年、Gradinaruとスタンフォード大学(米国カリフォルニア州)のKarl Deisserothが率いるチームは、丸ごとの脳組織から脂肪や他の分子を除去して透明にし、厚い切片を光学顕微鏡で観察できるようにする手法について報告した(参考文献2 - Natureダイジェスト 2013年7月号8ページ「脳を透明化する革新的技術!」参照)。2014年には、Gradinaruのチームが、マウスの脳以外の組織や全身にこの手法を応用した(参考文献3)。彼女はBoydenのアプローチについて、「素晴らしいと思います」と言う。

一方、シドニー大学(オーストラリア)の顕微鏡法の専門家Guy Coxは、「確かに巧妙な手法ですが、どれほどの実用性があるのかまだ分かりません」と慎重だ。彼は、「有効な活用先があるとしたら、既存の超解像顕微鏡法と一緒に用いて、細胞全体ではなく小さめの巨大分子複合体について、限界のもう少し先を目指すくらいではないでしょうか」と話す。

2014年にノーベル化学賞を共同受賞したマックス・プランク生物物理化学研究所(ドイツ・ゲッチンゲン)の所長を務めるStefan Hellは、Boydenの手法は興味深く、もっと先に進めてみる価値があると言う。彼によると、1990年代初頭にロストック大学(ドイツ)の研究者たちが同様のアイデアを提案していたという。「Boydenらは、実際に使える解決法を見つけたようですね」とHell。

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 4 | doi : 10.1038/ndigest.2015.150412

原文: Nature (2015-01-15) | doi: 10.1038/nature.2015.16667 | Blown-up brains reveal nanoscale details

Ewen Callaway

参考文献:
  1. Dani, A., Huang, B., Bergan, J., Dulac, C. & Zhuang, X. Neuron68, 843-856(2010).
  2. Chung, K. et al. Nature497, 332-337(2013).
  3. Yang, B. et al. Cell158, 945-958(2014).

【関連記事】

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 9 | doi : 10.1038/ndigest.2015.150912

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 9 | doi : 10.1038/ndigest.2015.150906

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