羨望を集める日本の幹細胞臨床研究

iPS細胞から作成された網膜の移植手術が、世界に先立って日本で行われた。

iPS細胞から作成された網膜の移植手術が、世界に先立って日本で行われた。他の国々でも、研究者たちがiPS細胞治療の臨床研究へのゴーサインを今か今かと待ちわびている。

iPS細胞を使った世界初の臨床研究を率いた高橋政代氏。

JIJI PRESS/AFP/GETTY

「なんてすごい、なんて素晴らしい!もう、興奮が収まりません。私はずっとこの時を待っていたのです」と、スクリプス研究所(米国カリフォルニア州ラホヤ)の幹細胞生物学者Jeanne Loringは言う。2014年9月12日、視力に障害のある日本の女性患者が、世界で初めて、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った治療を受けた。このニュースを手放しで喜んだ世界の研究者の数はそれほど多くないが、Loring はこれを心から歓迎した者の1人だ。

この臨床研究には、多くの人が期待を寄せている。この治療法が安全だと証明されれば、他の国々の規制機関のiPS細胞治療臨床研究に対する姿勢も和らぐかもしれない。また、パーキンソン病や糖尿病など、他の病気に対する治療の道も開かれる可能性がある。日本にとっては、「iPS細胞研究の先頭を行く国」という確固たる地位を築けるかもしれない。

2006年に、山中伸弥(現 京都大学iPS細胞研究所所長)が世界に先駆けて樹立したiPS細胞は、成人の体細胞に初期化因子(OSKMと呼ばれるOct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの遺伝子)を導入してその細胞を再プログラム化し、胚様状態に戻すことによって作成される。そうしてできたiPS細胞は、胚性幹細胞(ES細胞)と同様に、ほとんどの組織の細胞に変わることができる。

その上、患者自身の組織から得られるiPS細胞は、胚から作られるES細胞の問題点と安全性への懸念のいくつかを回避できると期待される。山中はこの研究により2012年にノーベル賞を授与された。

今、機は熟し、世界中の研究チームがiPS細胞を使った治療法の臨床研究の実施を待ち望んでいる。例えば、iPS細胞を用いてパーキンソン病治療用のドーパミン産生ニューロンを作成しているLoringは、米国食品医薬品局(FDA)から認可が下りればすぐに臨床研究を始めるつもりだと言う。

だが、iPS細胞から作られた組織にも、人工的に多能性がもたらされた幹細胞由来であるが故の懸念がある。そのためどの国でも臨床研究の承認に歯止めがかかっていた。体の免疫系が移植組織を攻撃するかもしれないし、多能性を持ち続けている細胞が移植組織に含まれていてがん化する可能性もあるからだ。Loringは、同様の懸念があるES細胞に基づく治療の臨床研究では、こういうことは起こっていないと指摘する※。

ゴーサイン

そうした中、2013年7月に、日本の規制機関は神戸の理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)の眼科医、高橋政代が率いる研究チームに対し、iPS細胞の臨床パイロット研究に使う細胞の採取を許可した。

高橋のチームはまず、世界で最初にこの治療を受ける患者から皮膚細胞を採取した。この患者は70代の女性で、浸出型加齢黄斑変性と呼ばれる疾患によって網膜が損傷していた。次に、その皮膚細胞を再プログラム化してiPS細胞に変え、未分化状態のiPS細胞から網膜組織を作成した。9月8日、高橋はそれらの細胞が遺伝学的に安定していて安全であるという証拠を提出した。これは細胞を目に移植するための前提条件だった。手術は4日後に行われ、術後、患者に重大な副作用は見られないと理研は報告した。

今回の治療は、傷んだ網膜組織の再生を促し、視機能を維持・回復させることが目的であるため、この女性患者の視力の改善は望めない可能性が高い。しかし、世界中の研究者たちは、iPS細胞によって期待どおり網膜のさらなる悪化を食い止められるのか、そして何らかの副作用が起こることがないかどうかを見守っている。この患者が深刻な結果を経験するなら、iPS細胞の研究は数年間の後退を余儀なくされるだろう。

実際、遺伝子治療の臨床研究では、1999年に起こった最初の死亡例(ゲルシンガー事件;改変遺伝子を使ったある肝臓疾患の遺伝子治療が原因で、患者が亡くなった)を発端に、金銭的な利益相反の問題が次々と明るみに出たため、この分野全体が停滞することになった。「あのことを考えるとよく眠れません」とLoringは認める。

しかし、高橋の臨床研究が成功すれば、FDAや欧州医薬品庁など、他の規制機関にも説得力のあるシグナルを送ることになるだろう。「政代が、これらの細胞を患者に使用しても安全だと証明できれば、他の国々でもこの新型万能細胞に対する不安の一部が消えることでしょう」と、国立眼科研究所(米国メリーランド州ベセスダ)の発生分子生物学者Kapil Bhartiは言う。

Bhartiは、米国立衛生研究所(NIH;メリーランド州ベセスダ)で、黄斑変性に対する高橋と似たアプローチを使用したiPS細胞治療法を開発する研究プロジェクトのリーダーを務めており、臨床研究を始めるための申請を2017年にFDAに出したいと考えている。

他の研究者たちは彼ほど辛抱強くない。Bhartiの臨床研究をバックアップするNIH再生医療センターの長を最近まで務め、現在はニューヨーク幹細胞財団に所属する幹細胞生物学者Mahendra Raoは、同様の臨床研究を行いたいと考えている日本国外の企業にとって、承認手続きの進行は遅過ぎると述べる。

そうした企業の1つで、彼が設立したQセラピューテクス社(Q Therapeutics;米国ユタ州ソルトレークシティー)は、神経変性疾患のための細胞ベースの治療法を開発中だ。「日本では素早く前に進むことができるので、彼らは少々やっかんでいますよ」と、彼は言う。

幹細胞研究で優位に立つことを切望している日本の規制機関は、高橋の研究を承認して以来、iPS細胞に基づく治療の臨床研究をより容易にできるよう規則を改定した。しかし、日本のこのシステムは一方で物議を醸している。回復の見込みのない患者に効果のない治療法を押しつけるという結果につながりかねないという批判の声もあるのだ。

今回の手術は、幹細胞スキャンダルとそれにまつわる悲劇にみまわれた理研と日本にとって明るいニュースである。「彼らにとって、いくばくかの威信の回復につながったはずです」とLoringは言う。

理研CDBの研究者らによりNatureに報告された新しい幹細胞作成法に関する2編の論文は、論文中にいくつかの致命的な誤りがあることを理由に7月に撤回され、CDBは現在、規模を半分に縮小された。一方で理研は、高橋の手法をはじめとする最先端の治療法を開発するために30億円を投じて2016年に神戸アイセンターを開設することを計画している。

そして、国の新しい法律の下で、数人の日本人研究者によるiPS細胞の臨床研究が間もなく始まることになっている。その中には、パーキンソン病の臨床研究を計画している、高橋の夫で京都大学の高橋淳も含まれている。

諸外国の多くの研究者が、高橋政代の臨床研究が、自分たちの研究を臨床で試す時期を早めてくれることを望んでいる。

※編集部註: 世界で最初にES細胞を使った治療が行われたのは2010年で、米国ジェロン社が骨髄損傷患者にES細胞由来のオリゴデンドロサイト前駆細胞を移植した。なお、同社は2011年にコストの問題を理由に臨床試験を中止した。その後、2011年には米国のアドバンスト・セル・テクノロジー社がES細胞由来の網膜色素上皮細胞を黄斑変性患者に移植し、その結果は2012年Lancet誌に報告された。

Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 11 | doi : 10.1038/ndigest.2014.141103

原文: Nature (2014-09-18) | doi: 10.1038/513287a | Japan stem-cell trial stirs envy

Sara Reardon & David Cyranoski

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