bokuhiroshikawa

「守る」ことは崇高だ。しかし、思考停止の状態で「守っ」たり、反対したりすることは、最終的には誰のプライドも守らない。
裁判所の判決文である以上、たとえ気に入らなかったとしてもありのままに伝えてこそ、記者として恥ずかしくないのではないですか。
「学問的表現は正しいものだけでなく、間違ったものも保護しなければならない」と結論づけた。
「異なる」声に対する暴力的な抑圧と、それによって引き起こされた言葉に言い表せない苦しみの経験はもう私だけで充分です。
私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し説明したすべての反論資料を見ておきながら、見ていないかのように厳罰に処してほしいと言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。もちろんその背後にあるものは、元慰安婦の方々ではなく周辺の人々である。
法廷でのやりとりは本の趣旨を狭める行為だった。もちろんそれは私が始めたことではない。
誰もが勝手に想像し知悉しているかのように思い込んでいる「慰安婦ハルモニ」が、実は決して一様ではないことを、世の中に訴えたかったゆえのことではなかったろうか。
検察が提出した資料の中には、国連報告書をはじめとする過去の資料もあった。
話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。
告発自体もそうだが、不正確さと、それに伴う消耗を、私は2016年現在の大韓民国を象徴するもう一つの現象であると思う。
私は元慰安婦に会いたいと頼んだ。そして市内のあるホテルで元慰安婦の方たちに会うことができた。その出会いは私にとっては緊張に満ちた体験だった。
『帝国の慰安婦』はもともとは日本に向けて書かれたものである。当然、日本の責任を問うための本である。同時に、業者や村の人々、さらに親など韓国の中の責任を問うことを避けるつもりはなかった。
この裁判の最大のアイロニーは、検事も弁護士も、学者若しくは既存の報告書の意見を「代弁」している点にある。
この告訴と起訴は、慰安婦問題をめぐる知識人(運動家を含む)同士の考え方の違いが作り出したものと私は考えている。
2015年12月28日の慰安婦合意は、安倍・朴両者が、それまでの主張から一定の譲歩をしたうえで歩み寄った勇気ある合意であり、関係者を驚かせるものがあった。
歴史について無知なことが明らかな検事や裁判官の判断によって、日本の学生が読める本を韓国の学生が読めなくなり、同等な立場で議論できなくなるかもしれないと考えると、私は我慢できない。
対立中の問題を解決するには相手側の主張にもきちんと耳を傾けなければなりません。しかしこの20年余り、支援団体はこの問題に否定的な人たちの言葉はほとんど聞こうとしてきませんでした。
重要なことは、女性が国家の利益のために、故郷から遠く離れた場所に移動させられ、苦痛の中で身体を傷つけられたという事実だけです。