bokuhiroshikawa

「守る」ことは崇高だ。しかし、思考停止の状態で「守っ」たり、反対したりすることは、最終的には誰のプライドも守らない。
裁判所の判決文である以上、たとえ気に入らなかったとしてもありのままに伝えてこそ、記者として恥ずかしくないのではないですか。
「学問的表現は正しいものだけでなく、間違ったものも保護しなければならない」と結論づけた。
「異なる」声に対する暴力的な抑圧と、それによって引き起こされた言葉に言い表せない苦しみの経験はもう私だけで充分です。
私が絶望するのは、求刑そのものではない。私が提出し説明したすべての反論資料を見ておきながら、見ていないかのように厳罰に処してほしいと言ってしまえる検事の良心の欠如、あるいは硬直に対してである。もちろんその背後にあるものは、元慰安婦の方々ではなく周辺の人々である。
法廷でのやりとりは本の趣旨を狭める行為だった。もちろんそれは私が始めたことではない。
誰もが勝手に想像し知悉しているかのように思い込んでいる「慰安婦ハルモニ」が、実は決して一様ではないことを、世の中に訴えたかったゆえのことではなかったろうか。
検察が提出した資料の中には、国連報告書をはじめとする過去の資料もあった。
話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。
告発自体もそうだが、不正確さと、それに伴う消耗を、私は2016年現在の大韓民国を象徴するもう一つの現象であると思う。