「祇園祭」を深く楽しむための誘い。

「祇園は、元からインターナショナルである。外国人を参加させない理由がどこにも見当たらない」

京都。7月に入るとこの街のあちこちで祇園囃子が響き渡る。コンチキチンの音色を聴き、「7月になったな」と「祇園祭の時期が来たな」との感じる街の人は少なくない。一般的に祇園祭として注目されるのは、宵山や山鉾巡行ぐらいだが、実際の所、7月一カ月にわたって京都のどこかで祇園祭にまつわるなんらかの行事が行われている。この間ずっとこの涼しげなコンチキチンの音色がこの街に住み行き来する人々の耳と心を癒す。

祇園祭に話を戻す。

祇園祭は実は、インターナショナルである。日本三大祭と称される祇園祭だが、毎年、大勢の観光客がこの街を訪れ、海外からの観光客も年々増える一方である。だけど祇園祭を見に訪れる海外の観光客が多いからインターナショナルと言っているわけではない。最近、山鉾の曳き手も外国人が増えた。だけどそんな上辺だけのインターナショナルを言いたいわけでもない。

祇園祭は、インターナショナルであるというには、もっと深い理由がある。誰もがそのことを知れば、祇園祭の楽しみ方にもっと深みと面白みが出てくるに違いない。

まず祇園祭の名前の由来から考えていきたい。祇園は、祇園さん、別名八坂神社からとっている。ここに祀られているのは素盞嗚尊(スサノオノミコト)や牛頭天王であるが、祇園祭の祭神もこちらの神々である。正真正銘の日本産の神として思われている素盞嗚尊は、実は日本列島以外の諸説と結びついている。

「古事記」だと、高天原を追い出されたスサノが、落ち着いたという根之堅洲国や「日本書紀」でいうスサノが一旦降りたという「神羅国の曽尸茂梨」と朝鮮半島などを切り離すことは難しい。朝鮮半島にも同様な信仰があるのも興味深い。

つまり当然ながら、神には本来国籍などなく、日本、琉球王国や朝鮮半島を含めたこの一帯で広く信仰された神であったという見方ができる。素盞嗚尊と牛頭天王は同一神格との解釈もあるが、もう一説には、インドで釈迦が供養した祇園林にある精舎の守り神であるとも言われる。何れにせよ、祇園という名前そのもの含め、祀る神様もインターナショナルであるということになる。

祇園祭の最大の見所は、山鉾そのものである。

山鉾には物語の一番面が再現されていることが多い。山鉾合わせて33基あるが、実はその内の10、つまり約3分の1は、中国の伝承や説話を受け継いだものである。インターナショナルである。

山鉾の着飾はあまりにも美しい。山鉾の飾りつけは、大きく前掛け、胴掛け、見送りと、水引である。これらはタペストリーで、ここにもインターナショナルがある。実は中国製のタペストリーは18枚、中近東製は7枚、ヨーロッパ製4枚、その他に、インド、琉球王国、ベルギーや朝鮮製もある。それらに描かれている絵柄も神道や仏教ではなく、むしろ他の宗教の香りが強い。

ついでに言えば祇園祭は、インターナショナルだけでもない。祇園祭は、京の商人が中心になってつくり上げた祭りであるが、祭りにとってはなくてならない笛など鳴り物は、商人がもっておらず、士農工商や穢多非人が当たり前だった当時、河原者と呼ばれた被差別民に笛を教えてもらい取り入れている。祇園祭は、あらゆる垣根を超え、国内外の粋を豊かに集め束ねた日本人の心意気の結晶でもある。

祇園祭という名の祭りは、実は京都だけで行われているわけではない。日本あちこちの通称も含め何々祇園と呼ばれているものは、私が把握しただけでも実に79もある。

数年前に、ある地方で、講演に呼ばれていった際に受けた質問を思い出す。「当地方でも祇園祭は行われているが、外国人を曳きて手として参加させるかどうかの議論がある。どうすれば良いのでしょうか」であった。

答える言うまでもない。

「祇園は、元からインターナショナルである。外国人を参加させない理由がどこにも見当たらない。」

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