日本に「外国人」いらない。

漢字と片仮名と平仮名と日本のように3種類もの言葉が同時に使われている国は珍しい。

(写真:USDAgov)

漢字と片仮名と平仮名と日本のように3種類もの言葉が同時に使われている国は珍しい。この国には言葉を生み出す豊かな土台がある。日本語は、語彙も豊富で、今日も進化し続けている。日本オリジナルも含め、中国から伝わった漢字を駆使した短くてインパクトのある言葉もたくさん使っている。言葉によっては、代用が見つからないほど板についている日本語も多い。間違いなく「外国人」(がいこくじん)はそんな言葉であるに違いない。代用が見つからないほど板についている。

そもそも「外人」(がいじん)や「外国人」という言葉は、開国期に「異人」や「異国人」 に代わって公文書を中心に使われはじめ、文章語として徐々に定着し、明治時代を通じて庶民層にも広がっていったものである。江戸期では「西欧道中膝栗毛』(1870年 )、福沢諭吉「文明論之概論 』(1875年。1章1節)や、徳富蘆花『思い出の記』(1900年。7章12節)などにも確認できる。日本で使われるようになってからの歴史は長い。しかし言葉としての「外国人」や「外人」が持つ意味はどの時も同じではない。

かつての日本において「外人」や「外国人」という言葉には敬意があった。今はまるで違う。敬意があって使っていた「外国人」がそうではなくなったのはいつからだろうか。戦争が節目になったのか、終戦が節目になったのか、経済大国になったのが節目となったのか、経済が不調になったのが節目になったのか、それともその全てなのか。違うことだけははっきりしている。現在における「外国人」は差別用語としての意味合いが強い。

近年になり「外人」が放送禁止用語になった。「外人」は、「外国人」の略語であるとの主張はあったが、語源も、現代語における使用法も「外国人」と異なる点、「外国人」よりも否定的な意味で使われることが多い点、さらには人種を指す意味で使われることが多い点などが考慮され、差別用語として位置づけられるようになった。それでも今日でもメディアはもちろん、ましてはこの国の日常の会話の中では「外人」は良く登場している。「外人」は禁止になっている以上、使わないことがこの国の各々に課せられた義務である。

今回、話題にしたいのは「外人」ではない。「外国人」の方である。結論から言うと「外人」同様「外国人」も日本に必要ない、ということである。第一、現在日本において「外国人」と「外人」の使い方に関して違いは確認できない。同義である。その点「外人」はダメで「外国人」は大丈夫とはならない。そもそも論、日本社会において「外国人」と「日本人」の明確な区別は出来ない。「外国人」への執着は、外れていくタガを無理やりつなげようとしている無意味な努力でしかない。ほとんどの国(特に先進国)においてこの手の言葉は存在せず、日本からもいずれはなくなる運命にある。仮に他の国に「外国人」があるにしても、そのことが日本にあって良い理由にはならない。

「外国人」は、日本社会全体の幸せを妨げている悪の枢軸であり、1日も早く「外国人」を無くす必要がある。「外国人」はこの社会において「百害あって一利なし」の言葉の代表格である。

スリランカ生まれ、日本国籍取得10年、日本国籍の妻と結婚、2児の父、在日28年の筆者のここ2週間の出来事を紹介したい。

下の子と父の参観日に出かけた。移動中、久しぶりに手をつないでもらって嬉しかった。道中、母に自転車に乗せられた子どもの同校生が我々を追い越した。2,3メートル離れた所で、その子どもに大声で「外国人や!」と言われた。彼の母にははっきり聞こえているのだが、知らん振りして自転車を漕いで去って行った。その言葉を聞いた瞬間、我が子はパッと私の手を離した。子どもの笑顔が消え、表情は曇り、それから行きも帰りも手を繋いでくれることはなかった。

その数日後に、上の子どもの担任から会いたいと電話があった。どんな内容か会うまでは心配だった。家にやって来た教師は「子どもから何か聞いていませんか?」と尋ねられた。「聞いていない」。その日の昼、子どもは、同級生に囲まれて「外国人やろう!?」と言われていたようだった。それに気付いた担任教師が息子を呼び「どんな気持ちだった?」と聞いたらしい。「悲しかった」と答えたそうだった。下の子の登校中に出会った母と違い「外国人」は人を傷つけると気づいた教員に敬意を表した。

そのあくる日、妻と日本人友人と3人で大好きな蕎麦を食べに専門店に行った。3人で雑談をしながらメニューを待った。すると店員は、何かを確認することもなく妻と友人の前には日本語のメニューを私の前には英語のメニューを不愛想に置いて行った。パッと見で外国人風なら英語のメニューを出せとインプットされているに違いいない。しかしそれは「おもてなし」とは程遠い「あほの一つの覚えの日本人」の浅はかで、侮辱な行為に過ぎない。その日は、結局は大好きな蕎麦を食するのを我慢し、日本語のメニューにしか書いてなかった卵かけご飯を蕎麦専門店で頼むことにした。運ばれてきた卵は、黄身と白身が分けられた妙な出され方だったので、 店員に食べ方を尋ねた。私が日本語で聞いているのに、私の顔を一度も見ることなく、店員は、妻に向かって長々と食べ方の説明を続けた。おかげで幽霊になる貴重な経験が出来た。

さらに数日後のことである。信号を待っているとこっちに向かって微笑んでいる一人の男性と目が合った。もちろん微笑み返した。知り合いでもないのでそれ以上は関わらず、信号機に目をやっていた。しかし横から視線を感じる。気になりそっちを見ると先ほどの男性がこちらを見ていた。しかも口元が動いている。道でも尋ねているのかと思ったら、そうではなかった。観光客と決めつけられていた。彼が口に出していたのは「ウェルカム トゥ ジャパン」だった。こうなると来日30年近く経っても未だに歓迎してくれているとは有り難いと思い笑うしかない。彼には「サンキューベリーマッチ」とコテコテの日本語訛りで感謝の意を伝えた。

わずか2週間に身内が経験したことをここで恥を忍んで紹介した。しかしこれは決して個人的なことだとは考えていない。日本の社会全体の大問題である。古くて新しい問題でもある。筆者のようにこのような状況を遊びに変えられても、出来ない人、特に大勢の子ども達がこの国にいることを絶対に無視してはならない。私たちは「外国人」を続ける必要も次世代に引き継がせる必要ももちろんない。その気になれば、私たちの代で「外国人」を葬り去り、卒業することは出来るし、しなければならない。

日本に住む外国にルーツのある人間は、外食に出かける毎回、毎回、周りの人間を教育している暇などはない。多数派日本人は、いい加減に自助努力の中で成長するしかない。さらには、「外国人や!」と叫んでも知らん振りする大人には、自分の無知によって次世代の日本人の国際性を鈍らせて、悪しき文化を引き継がせているということを自覚する必要がある。

「外国人」は人を傷つける言葉ならば、当然使ってはいけない。人を見て「九州人や」とか「山口人や」とは大声で言われることはない。「外国人」なら良いはずはない。しかも日本に産み落とされ、国籍までも日本人なのに、少し特徴のある人はみな「外国人」と指さされて良いはずもなければ、人に聞かれて、父や母のルーツまで説明する必要などどこにもない。

親父が九州の出身で母は北海道出身だということを話す間柄になって初めて、外国にルーツある人間もその詳細を語って良くなる。その段階に至らない限り、外見が少し違うだけで個人情報の強制を求めてはいけない。もしも、多数派であることに胡坐をかいで、「外国人」は少数者であるという意味だけで我慢しろというなら論理的ではなく、その言動は「暴力行為」であり「侮辱行為」であると言わざるを得ない。仮に日本の多数派から「我慢しろ」または「出て行け」とコメントがあれば、それはこの国の多数派の成長することに対する怠慢であり、自らの未熟と無知を世界に向けて露呈していることでしかない。

しかし「外国人」の代わりとなる言葉を考える必要が出てくる。「外国人観光客」の代わりに例えば「海外(国外)からやってくる観光客」、「外国人」の代わりに「外国にルーツのある」などに置き換えよう。その説明は長くなる。長くなればなるほど良い。長い説明を口に出している間が、多数派日本人にとって、この国の人を「日本人」対「外国人」を安易に分けられないことに気付き、考える時間になる。同時にこの面倒な時間が人を見て「外国人や!」などと簡単に吐き捨てるようなことを止める各々にとっての良い訓練時間にもなると期待している。

「外国人」は日本の社会にある、最も無神経で最も人を傷つける言葉の一つである。国際社会における日本人の後進性を曝け出していることを恥ずべき言葉でもある。さようなら「外国人」。日本にはもう「外国人」いらない。

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