日本には「共生」という言葉がある。中国の教え子に聞くと自国では使ったことがないと言う。どうやら日本でのこの言葉に対する親近感は特別のようである。活字の中でも頻繁に登場し、人々も当たり前のように口にする。共に生きることは実にすばらしい考え方である以上、この言葉が日本社会に確実に普及していることがたいへん喜ばしく思う。何を隠そうこんな私も「共生」を好んで使っている。使ってはいるが、実はこの言葉をいつも疑っている。
私たちはこの言葉に触れるだけで、共生していると安心してはいないだろうか。しかし違う同士がともに生きることほど難しいことはない。共生していると思ってはいても、実際には違う者同士が交わってなく、片方の違いが排斥、排除、無視、シカトされていることも良くある。空間を同じくしていてもそこには目に見えない棲み分けが存在していることもよくある。片方の都合に同化させられ生きている組み合わせもあれば、言わずして自然界と同じ弱肉強食と近い景色も人間社会で見かける。自然界を見ると共生のカタチも様々で、相利共生もあるが、どちらかという片利共生が多いことが解る。
人間は他の動物と同じではない。深く考えることも、未来に思いを馳せることも、自らを高めることも出来る。人間だけが平和と発展の持続可能性について考える能力が備わっている。その能力を発揮し人生を謳歌することは人間として生まれて手に入れた特権である。
「共生」と聞くだけで実際に存在していると安易に思い込んではならない。「共生」を大いに疑う必要がある。世の中にある「共生」は、基本的に、同化か、棲み分けか、排斥、排除、無視、シカトでしかない。それなら持続可能な発展も平和も期待できない。世の中に存在している「問題」は絶えない。殺人、いじめ、虐待、環境問題、倒産、離婚、人権侵害などなど。実は、これら全ての問題は「違い」に対する間違った接し方の結果であり、学習せず修正を怠り、間違いを繰り返しているため問題は世の中から消えはしない。
ただ単に生きるだけでは良くない。そこには人間だけが扱うことの出来る物差しを活用してもらいたい。違う同士が交わることが大事である。それはいがみ合ってではなく、良質のものである必要がある。そして両者がただ共に生きるだけではなく、必要なのは、共に楽しむ「共楽(きょうらく)」がそこにあるか、共に学ぶ「共学(きょうがく)」がそこにあるか、共に育つ「共育(きょういく)」がそこにあるか、共に生き活かされる「共活(きょうかつ)」がそこにあるか、そして片方だけが笑っている世の中であるからこそ、最も大事なのは、共に笑っている「共笑(ともえ)」がそこにあるかを絶えず意識し、確認し、努力し続けることである。共笑は言わずして結果ではなく絶えず続けなければならない人間としての成長過程である。
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