突然のデマネタイゼーションで国中が混乱
11月8日、世界では米大統領選の結果に注目が集まるなか、インド政府が高額紙幣のデマネタイゼーション(廃貨)という大胆な政策に踏み切った。
8日の夜8時頃(現地時間)、モディ首相が高額紙幣の切り替えを発表し、翌日(発表4時間後)から500ルピー(約860円)札と1,000ルピー(約1700円)札の使用を禁止するとともに、その代わりとなる新500ルピー札と新2,000ルピー札の発行を開始した。
旧500ルピー札と旧1000ルピー札は貨幣の86%を占める20.5兆ルピーあったとされる。
目的はGDPの約2割を占めるとされるブラックマネー(偽造紙幣や賄賂、脱税など)の対策だが、その効果を最大限に高めるために何の前触れもなく実施したため、新紙幣の流通が遅れて国中が大混乱に陥った。
テレビの報道で国民が現金を確保しようと銀行やATMの前に長い行列を作る映像を目にした人も多いだろう。
インドではクレジットカードや電子マネーなど電子決済は増えてきているとはいえ、依然として現金決済が主流であり、現金決済比率は78%と他国に比べて見ても高い(図表1)。
従って、決済インフラが整っておらず、現金取引が多い中小零細企業や農業、不動産、バイクなどを中心に経済が打撃を受けている。
当局は農家や病院、鉄道、ガソリンスタンド、観光などに旧紙幣の使用を許可する例外措置を実施したものの、焼け石に水の状態であり、業者が旧紙幣の受取りを拒否する問題も起きている。
短期的には消費の落ち込みが懸念
今回の高額紙幣の廃止は非常に大きな痛みを伴う改革であることは間違いないだろう。
まず需要側の経済指標としては、11月の自動車販売台数は四輪車が前年同月比0.6%減、二輪車・三輪車が同6.5%減となり、それまでの二桁増から急落した(図表2)。
本来11月は婚礼や収穫、祭事、旅行シーズンで需要が高まる時期であることも消費の大幅な落ち込みに繋がっているとみられ、ムンバイ証券取引所に上場する消費財関連メーカーの時価総額は1ヵ月半の間で10%ほど減少している。
政府は新紙幣の発行を急いでいるが、実施後1ヵ月で新たに流通した金額は使用不可能になった旧紙幣の4分の1程度に過ぎない。
つまり、依然として現金不足の状況が続いており、消費の落ち込みは新紙幣が行き渡る来年2月頃まで続くとみられている。
その後、消費はペントアップデマンドの顕在化で高い伸びを示し、徐々に本来の水準に落ち着いていくだろうが、地下経済対策の影響で不動産など高額取引は引き続き弱含むだろう。
また生産側の指標として11月の購買担当者指数(PMI)を見ると、製造業は52.3ポイントと前月から2.1ポイント低下して悪影響は軽微なものとなる一方、非製造業は46.7ポイントと前月から7.8ポイント低下し、好不況の節目となる50を下回った(図表3)。
現金取引が主流の中小零細企業や農業、建設業などが仕入れに窮し、また日雇い労働者などに対して現金で賃金が支払えなくなっている。
特に農家が種を買えなくなったことから乾季作の作付(10~12月頃)に支障が出ている。収穫期となる3~5月には農作物の収穫量が大きく落ち込む可能性がある。
なお、インフレ率は現金需要の高まりに加え、3年ぶりに順調な雨量が得られた雨季作物の収穫が本格化したこともあって大幅に落ち込むと思われたが、11月の消費者物価指数は前年同月比3.6%増と、前月から0.6%ポイントの低下に止まった(図表4)。
腐りやすい生鮮食品を中心に投げ売りする動きもあったようだが、比較的落ち着いた結果だったと言える。
しかし、先行きは農業生産の落ち込みを背景とする食料価格の高騰により、消費者物価上昇率が急上昇し、消費の重石となる可能性もあるだろう。
紙幣刷新のメリットは長期に渡って続く
来年以降は紙幣刷新によるメリットが期待できる。
一つは、本来の目的であるブラックマネー対策だ。政府は旧紙幣の預金口座への入金に対する監視の目を光らせている。
不正所得が捕捉されることで一時的に税収が増加し、インフラ整備事業や財政再建への追い風となると見込まれる。
長期的にも犯罪・テロの抑制が社会の安定化に、また汚職是正が不公平感の解消やビジネス環境の改善にも繋がるものとみられる。
もう一つのメリットは現金文化からの脱却である。使用不能となった旧紙幣の預け入れにより、現在商業銀行では預金が急増した(図表5)。
これは不正蓄財のみならず、これまで金融サービスを利用しなかった層(国民の預金比率は約5割)のタンス預金が銀行に流れ込んだためだ。
もっとも新たに流入した資金が新紙幣で引き出しされれば預金の減少となるが、全額引き出されるとは考えにくく、ネットで見れば預金は増加すると思われる。
インドの商業銀行は不良債権処理に窮しており、昨年から続く中央銀行の金融緩和が貸出金利に十分に波及してこなかったが、今回の預金の急増を受けて商業銀行は資金運用の3分の2を占める貸出にも徐々に積極的になるとみられ、冷え込んだ民間投資の追い風になることが期待される。
また現金不足が電子決済の普及を後押しし、キャッシュレス社会の到来が一層早まるともみられている。
地場の電子決済サービス大手Paytmでは紙幣刷新から1ヵ月余りの間に新規利用者数が2千万人増加(利用者合計1億7千万人)した。
電子マネーやオンラインバンキングなどの電子決済は慣れない人にとってはハードルがあるものの、今回のように半強制的にでも人々がその利便性に気付くことで電子決済が浸透していくだろう。
今後は決済インフラの投資拡大も見込まれ、長期的に生産性の向上に寄与していくとみられる。
以上のとおり、今回の紙幣刷新による経済的影響は、短期的には景気の下振れに繋がるものの、その後は長期に渡ってプラスの影響が上回ると考えられる。
国民の反応は良好、政治的には成功か
紙幣刷新の手法を経済的な面だけで考えると、今回のように景気の下振れを伴ってまでブラックマネーの対策を主眼に置いて唐突に実施するよりも、計画的に廃貨を進めることで景気の下振れをなくしつつ、メリットを現金文化の脱却に絞って享受していった方が良かったように思える。
恒常的にインフレ率の高いインドにおいて不正資金を現金のまま寝かせておく必要は乏しく、大半が既にマネーロンダリングで不動産や宝飾品などに換えられているほか、保有する旧紙幣も仲介人を使って新紙幣に交換する動きもあり、本来の地下経済対策の効果は限定的ではないだろうか。
このように考えれば国民の不満は高まりそうだが、実際には今回の紙幣刷新に対する国民の評価は高い。
支持率が80%を超えるモディ政権に対する国民の信頼が厚いこともあるが、何より自身の経済的困窮よりも不正所得で潤ってきた悪人に大打撃を与えたという痛快さが上回ったためであろう。
現在のところ唐突の紙幣刷新の判断は政治的に成功していると言える。
来春にはウッタルプラデシュ州(5月)やパンジャブ州(3月)など5州で州議会選挙が実施される。与党が少数派である連邦議会の上院の議席数を増やす上で負けられない選挙である。
今回の突然の紙幣刷新が野党の資金源を封じ込めたとも指摘されており、このまま高い支持率が続けば与党が勝利する可能性は高いだろう。
ねじれ議会を解消してモディ改革を加速できれば、2019年の総選挙で勝利し、長期政権が見えてくる。
しかし、一ヵ月程度の現金不足に国民感情が耐えたとしても、現在広がっている経済への悪影響が認識されるなかで支持率が低下する可能性もある。紙幣刷新に対する国民感情がどう変化するかは注目すべきポイントだ。
(*1) 12月8日、中央銀行は実施から1カ月で旧紙幣を12.4兆ルピー回収する一方、新たに4.6兆ルピー相当の紙幣を流通させたと発表している。
【関連レポート】
(2016年12月30日「基礎研レター」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
経済研究部 研究員