明治の怪ジャーナリスト黒岩涙香の翻案小説『生命保険』を読んで-生命保険研究者の「生命保険」読書録:研究員の眼

明治時代の有名ジャーナリストにして有名翻案小説家、黒岩涙香の短編翻案小説『生命保険』を読んだ。

明治時代の有名ジャーナリストにして有名翻案小説家、黒岩涙香(るいこう)の短編翻案小説『生命保険』を読んだ。

彼の作品群の中に『生命保険』という、私の職業魂をくすぐるものがあることは知っていたが、今般、近畿大学教授の稲葉浩幸氏が2006年に発表された論文『わが国生命保険業の黎明期と小説』(*1)を読む機会があって、さらに読みたいとの欲求が高まった。

図書館から同作が収録されている『明治探偵冒険小説集1黒岩涙香集(ちくま文庫)』と『黒岩涙香探偵小説集Ⅰ(論創社 論創ミステリ叢書18』を借りて読んでみた。

黒岩涙香について

まずは、『明治探偵冒険小説集1黒岩涙香集(ちくま文庫)』における伊藤秀雄さんの解説、『黒岩涙香探偵小説集Ⅰ(論創社論創ミステリ叢書18』における小森健太郎さんの解題、風間賢二著『怪奇幻想ミステリーはお好き?その誕生から日本における受容まで』、Wikipedia『黒岩涙香』(*2)等を参考に、黒岩涙香の人となりを見ていく。

黒岩涙香(1862年【文久2年】-1920年【大正9年】)は、新聞、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した人、われわれの年代には懐かしさを感じさせる小説『巌窟王』を翻訳した人と言えば、分かりやすいだろう。

『萬朝報』では、時の権力者のスキャンダルやゴシップを執拗に追及するスタンスを貫いた。人気連載『弊風一斑蓄妾の実例』では、有名人の愛人関係を、愛人の実名・年齢やその父親の実名・職業まで暴露するという徹底ぶりだったという。

このような報道姿勢から、本名の「黒岩周六」をもじって「マムシの周六」と恐れられた。また『萬朝報』が三面にスキャンダラスな社会記事を掲載したことが、「三面記事」という言葉の語源になったという。

このような反骨かつ大衆派のジャーナリスト黒岩涙香はまた、長短百編に及ぶ西洋の小説を独自の翻案というスタイルで翻訳した人でもある。

涙香が翻案・執筆する連載小説が人気を博したことがまた新聞の売り上げ増に貢献した。というよりも涙香の小説執筆は新聞の売り上げ増を図るための方便であった。

『萬朝報』明治26年5月11日号に涙香は『探偵譚について』と題して、「余はしばしば探偵談を訳したることあり然れども文学のためにせずして新聞紙のためにしたり・・・小説に非ず続き物なり、文学に非ず報道なり」と書いている。

涙香の翻訳・執筆スタイルは翻案。原文に忠実な翻訳と違って、翻案では逐語訳に縛られず、読みやすい文体で日本流の文章が書かれる。

涙香は翻案にあたっては、原書を読んで筋を理解したうえで一から文章を創作していた、原書を一度読んだら、あとは二度とページを開かず、記憶にまかせて執筆するのだと言い切っていた、ということだ。

たとえば代表作の『巌窟王』はアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を翻案したものであるが、そもそも表題が冤罪により地下牢に幽閉された男が悪者に復讐するという筋書きを端的にイメージさせる『巌窟王』へと変更されている上、主人公エドモン・ダンテスが団友太郎に、悪役ダングラールが段倉にと、登場人物の名前も日本名に変えられている。

その一方で、外国の地名がそのまま使われている。文章は歯切れのいい日本語で執筆され、好評を博したという。

もう一つの代表作『嘻(ああ)無情』は、原作であるヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル(哀れな人びと)』という表題をあまりいじっていないように見えるが、より扇情的で日本人の記憶に長く残ることとなる名表題を生み出している。

なお、以上2作は、筋書きや設定は原作に忠実であるが、涙香の数ある翻案小説の中には、その雰囲気のみをいただいておいて後は翻案者の自由に、結末だって変更するよ、といったものもある。

涙香は青年時代に英語の勉強のために輸入された英語の小説を読み漁ったという。新聞に記事を書くようになってからも常に西洋の新聞小説へのアンテナを張り巡らせていたようで、それらの中から、おもしろいと思ったものを翻案という形で日本に紹介していった。

著作権という概念はまだ希薄であった時代、翻案の素になった原作がどれであるのか、誰の作品であるのかが分からないものも多い。

短編翻案小説「生命保険」の概要

以上のように涙香の経歴等をまとめていて驚かされるのは、業績を成し遂げたときの年齢の若さである。

明治期の有名人に共通することではあるが、『萬朝報』を創刊した1892年11月は涙香が30歳の時、翻案小説の執筆を開始したのは、1888年(明治21年)1月、25歳にして自由党の大衆紙『絵入自由新聞』の主筆であった時である。

夕刊紙『今日新聞』に「法廷の美人」を掲載したところ、これが受けて涙香はたちまち売れっ子となり、以後、翻案小説を次々と発表していくことになる。

『今日新聞』は同1888年、朝刊紙『みやこ新聞』に衣替えし、翌1889年からは『都新聞』へと名を変えるのだが、涙香は同新聞に主筆として招かれ、記事を執筆する傍ら、翻案小説を連載していく。

『都新聞』への翻案小説の執筆は、涙香が1892年に同社社長と衝突して退社し、『萬朝報』を創刊するまで続いた。今回取り上げる『生命保険』は『都新聞』時代の1890年、涙香27歳の時に連載された作品の1つである。

涙香は、長編の連載が終わると、短期間、短編小説を連載して、新しい月の初めから次の長編小説の連載をスタートするというようなスケジュール調整を行った。『生命保険』もそのような、つなぎの1作として、1890年初頭に連載された短編小説である。同年7月には、涙香の短編小説を集め刊行された『涙香集』に収蔵された。

「長編と長編の間に挟まれた作品ではあるが、かといって軽いだけの作ではない。前もって用意しておいたものであった。仲のよい若い男女が奇妙な殺人事件に巻き込まれるといった過程にサスペンスがあり、保険の犯罪に関心を示した佳編だから、昭和2年、新青年『夏期増刊探偵小説傑作集』中に再掲されている。(『明治探偵冒険小説集1黒岩涙香集(ちくま文庫)』における伊藤秀雄さんの解説より)」、「『涙香集』に収録された作品の中では、もっとも探偵小説味が濃厚で、涙香が翻案した短編の中でも名品の一つに数えられる。・・・そのサスペンス感は、涙香作品の中でも上質の出来ばえだ。原作は、中編のミステリー小説だろうか。(『黒岩涙香探偵小説集Ⅰ(論創社論創ミステリ叢書18』における小森健太郎さんの解題より)」と、評判は上々である。

私がこの作品でもっとも興味を感じるのはその発表時期である。わが国初の近代的な生保会社である明治生命が開業したのは1881年のことである。その7年後の1888年に帝国生命(現在の朝日生命)が、さらに1年後の1889年に日本生命と大日本生命(後、包括移転により消滅)が事業を開始した。

涙香が『都新聞』に『生命保険』を発表したのは1890年、明治生命の開業から10年も経っていない。

このような時期に『生命保険』を提示された人々は生命保険の何たるかを分かっていたのだろうか。まずは、いわゆるネタバレになることをお許しいただいて同作のあらすじから見ていこう。

【あらすじ】

主人公、枯田夏子は、父、枯田健造の再婚相手である継母との関係が上手くいかず、家を出、お金持ちの屋敷に住み込み2人の子どもの家庭教師兼子守として働いていた(←「ジェイン・エア」的な英国文学っぽい味わい)。

ある日、継母から父親死亡の連絡を受け、急ぎ死亡地のウイロー村に向かうが、既に父の死骸は棺桶に入れられ対面できない。晩餐で機嫌よく酒を飲んでいた父は突然倒れ死んでしまったという。

(資料)国立国会図書館デジタルコネクション『涙香集』より http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888672/1

葬式が終わり家に戻ると、継母は、健造の生命保険金一万ポンドのうち、千ポンドを夏子に分けるという遺言があると告げる。その夜、夏子は、死んだ父・健造が自分を見ているという異様な体験をするが、勤めにもどる。夏子は受け取った保険金千ポンドを雇い主に預ける。

数ヶ月後、夏子は、主人が子供の肖像画を描かせるために招いた画家・堀川碧水と親しい仲となるが、碧水が行方を探している碧水の叔父・堀川堀江が消息不明になった日に停車場で出会い家に招いた友人が父・健造であったという事実が発覚する。

夏子の照会に、継母は、建造が亡くなった時、確かに堀川堀江が側にいたが、堀江は夜遅くの電車に乗るため立ち去ったと答える。

碧水は、堀江と建造の写真を検死者の医者に見せ、死んだのが堀江で、側にいたのが健造であるという事実をつきとめる。

事実を聞かされた夏子が、ロンドンに継母を訪ねると、継母は既に姿をくらましており、継母の兄を名乗りながら病気となって取り残されていた父・健造を見つける。健造は、堀江の死体を自分だと偽って保険金を手に入れたこと、継母がお金を持ち去ったことを告白し、3日後に亡くなる。

夏子はその事実を碧水に打ち明け、生保会社にも伝える。夏子と碧水は結婚する。

生保会社は、たまたま堀江が碧水を受取人とする自社の1万ポンドの生命保険に加入していたこと、堀江も建造も死んでしまったことから、2人分の保険金を支払うことになっていたのは変わらないとして、支払い時期の相違分の利息のやりとりだけをして、問題はなかったことと取り扱う。

夏子が先に受け取っていた千ポンドは雇い主が自分のお金とともにある事業に投資したところ、大成功して三万ポンドになる(「人間の絆」に出てきそうなシチュエーション)。

こうして夏子と碧水の夫婦は、あわせて4万ボンドの大金を獲得する。

一方、9千ポンドのお金を持って姿をくらましていた継母は、3年後、再婚相手の紳士を毒殺しようとしたとして逮捕され、裁判が始まる前に病死する。

人々は、堀江が健造の家で急死したのも、継母が毒を盛ったに違いないと噂する。

以上がこの小説のあらすじである。

印象としては、まじめに質素に生きる夏子が生命保険のおかげで幸せになるという、さわやかな読後感を感じる。

トリックは、後生の人間からすれば単純なものであるが、発表当時の人々にとっては斬新なものであったのだろう。しかし、この小説が、後世の数ある保険犯罪ものの起源ともいうべき、遺体の取り違えを利用した保険金詐欺事件、継母による保険金殺人事件を題材とした小説であるという点は、見逃されがちである。

健造が病気になったのも継母が毒を飲ませた結果かもしれない。

しかし、黒岩涙香の筆はその方面には進まず、謎解き話で終わってしまう。夏子から真実の連絡を受けた生保会社が、結果オーライ、事なしとして扱うことも奇異である。

このような形になった理由を考えると、翻案小説としての本作の性質と当時の西洋と日本における生命保険の浸透ぶりの違いに行き着くこととなる。

おそらく原作には、保険にまつわる犯罪を取り扱った経済小説としての色合いもあったのではなかろうか。いかんせん日本では、『生命保険』が発表されたのは、最初の生保会社、明治生命の開業からわずか9年しか経っていない時期である。

1890年当時のわが国の生保会社数は4社、数値をとれる現存会社3社の業績を足しあわせた1890年度末の契約件数は2.19万件にすぎない。

わが国の生命保険業は1890年代を迎えてから大きな伸びを見せる。

翻案小説『生命保険』が発表されたのは、ちょうど、こうしたわが国生命保険業が今まさに飛躍しようとしていた時期に当たる。

さすがにこのような時期であれば、涙香の優れた情報収集力と分析力および翻案力をもってしても、保険にまつわる犯罪の何たるかを理解し小説として構成することは困難であったのだろう。

涙香の敏感なアンテナがキャッチするのが早すぎた、大衆向けの読み物とするにはいまだ日本の状況が熟していなかった時代に、投じられた意欲作ということだろう。もし10年後に涙香が翻案していたら、本作はまた違った輝きを放つことになっただろうと思われる。

それにしても、インターネットもテレビもラジオもない時代に、弱冠20代の若者が、西欧の新聞小説から時代の動きを読み取り、日本人に伝えようとした中に、生命保険という当時の最先端事業があったこと、その情報収集能力の卓越さには恐れ入るのみである。

また大衆紙の連載小説欄に『生命保険』の表題が載ったことは、事業開始間がない生保会社にとっては、大きな宣伝効果を持つ支援となったのではなかろうかとも思うのである。

名前を読み上げてみれば「黒い悪い子」となるなんて、黒岩涙香、実にしゃれた人である。

(*1) 『わが国生命保険業の黎明期と小説』生駒経済論叢 第4巻第2号 2006年12月

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(2017年7月27日「研究員の眼」より転載)

株式会社ニッセイ基礎研究所

保険研究部 主任研究員

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