ランキングでダンシング――浦島花子が見た日本

新しい生活を立ち上げるのは楽しいものである。40年ちょっとの人生で10回以上引越しをしているためか、私には物に対する愛着心はさほどなく、引越しの度に片付いていくことになんだか喜びさえ感じるタイプかもしれない。

新しい生活を立ち上げるのは楽しいものである。40年ちょっとの人生で10回以上引越しをしているためか、私には物に対する愛着心はさほどなく、引越しの度に片付いていくことになんだか喜びさえ感じるタイプかもしれない。

もちろん昔から捨てられない物もある。写真や記念品、大学時代の作品や子供が赤ちゃんの頃の思い出の品など、引越した後も箱に入ったまま日の目をみることなく、次の転地へ運ばれるだけのものも結構あるものだ。

そんな箱は新居に着くなり押し入れの奥にさっさとしまい込んで、新しい空間を今回はどのようにセットするかでしばらくはワクワクする。家族みんなが自分らしく生活できるように空間作りをすべきであることは、私の理性と頭の片隅にもあるものの、結局は私の独断と財布の中身によりインテリアは揃っていく。

私たち家族は去年の夏、アメリカから日本に引っ越す時にほとんどの家具を売るか譲るか捨てるかした。部屋の大きさが何畳と言われても感覚がつかめずにいたため、家具は部屋を見てからと箱だけで引っ越してきたものの、やはりどこで生活を始めるにも最低限の家具は必要だ。特に床に座ってあぐらを描けないアメリカ人夫にとっては、ダイニングセットが届くまでのダンボールテーブルにアメリカから持ってきた背の高いスツールでは、あまりの段差でご飯を食べるのも一苦労だった。

初めて住む街で一早く家具を買おうと思ったら、ネットショッピングが便利である。少なくとも私はそう思っていた。家にいて買い物ができ送料が無料であれば一石二鳥だと、新居に入る一週間前からショッピングサイトとにらめっこ。様々なサイトで自分の理想と予算に合うものを探すのだが、これが思っていたほど簡単ではない。とにかく品数が多いのだ。

ブランドなどのこだわりがあればネット検索も楽になるのだろうが、素材や環境への配慮重視に走りたがる私には、様々な思いが四方八方に散乱する中で何千とある家具の写真を見ることは気が狂いそうになる作業だった。ある程度厳選された物だけが置いてあり、実際に触れてこれと思うものと出会える家具屋の魅力は、ネット上にはみじんもない。

ネットショッピングが面倒だと思った理由はもう一つあった。それはランキングだ。流行とか他人の趣味など私にとってはどうでもよい。私は自分の欲しいもの探しをしたいだけなのに、どのショッピングサイトでも必ずと言っていいほど、売れ行きランキングのページを通らなければ次へ進めない。

このマーケティングは、今まで人を画一化していきた教育によって生み出された人々のために特に発展してきたのではないかと、これまた「Sex And The City」のシニカルなメリンダが私の中で顔を出す。日本人はどこまでお膳立てしてもらわなければ気が済まないのだろうか?いやそれとも、マジョリティーを作り出すことによって、そこに安心感を求める人達から金儲けをしようというだけの話だろうか。

帰国するたびに流行が変わる日本社会には、今まで幾度となく驚いてきた。日本人は流行によっていつの時代も踊らされている。そんな言い方自体が「上から目線」で「画一化している」であることはわかっているが、「流行=自分の好きな物事」と錯覚してしまいがちな人が多いのは、日本の現代文化の中では事実ではないだろうか。人それぞれが硬い信念でもって自分はこうだと貫ける社会だったら、またはそれを促進する教育がなされていたら、これ程流行やランク付けに踊らされる社会は築けないはずだ。

「アメリカでこんなもの(事)が流行ってるんでしょう」とよく何かにつけて質問されることがある。その度に私の頭の中には?マークが浮かぶ。確かに日本のマスコミがアメリカに派遣している限られたメディア人達や、海外の通信局から流されているものをさらに厳選して日本社会に届けられている情報をベースにハリウッド映画を見ていたら、アメリカ社会でも「流行り」があるように見えるし、「これがアメリカ」という画一化されたイメージを持つのも当然だ。

結局のところ日本に入ってくるアメリカの情報は、政治・経済・ハリウッドのみといっても過言ではないし、そんな中では一般的なミドルクラスのアメリカ人の生活はなかなか見えてこない。「アメリカに憧れて行ってはみたが・・・」、「アメリカでホームステイして初めてわかった・・・」など、この・・・の部分は、もしアメリカに行ったことのある人がこれを読んでいたら、それぞれの体験で埋めていただきたい。きっと十人十色の「アメリカ」が見えるはずだ。

広大なアメリカ大陸の一部だけを見て、「これがアメリカだ」と断言できないが故に、「アメリカの流行り」という言葉自体に違和感を感じるのは私だけではないだろう。

日本の国土はアメリカ大陸のほんの一部であるカリフォルニア州より小さい。日本より少し大きいカリフォルニア州にアメリカの全人口の約半分がいることを想像してみて欲しい。日本はそれくらい高密度な国なのだ。そんな面積や人口密度の違いからしても、情報の流れ方、受け取り方が、日本とアメリカでは随分違うことは確かである。

ランク付商法も単に今の日本の流行かもしれないし、私のように何が売れていようがどうでもよい人も五万といる。自分の好みにあったものがたまたまランキングの上位にあるということだって、私に経験がないだけで、他の人にとっては十分あり得ることだろう。

ただ、ランキングや流行に踊らされやすいと、自分や子供の事をもランク付し、周りと同化することだけで安心感を得るようになりがちではないだろうか。大きなお世話かもしれないが、様々な場面でのランク付によって「みんなが持っているから買う」とか「みんなが着てるから着る」とか「みんながやってるからやる」とか「みんなが受験するから自分もする」とか「みんなが入れる人に投票する」とか、はっきりとした個人の目標なく、とにかく「みんな」によって「自分」というアイデンティティーを確立してしまうのはどうかと思う。

格差社会にしても、いじめにしても、ヘイトスピーチにしても、「みんな」が主語であるライフスタイルが根源にある問題ではないだろうか。そして、そんな「国民性」を上手く利用している人たちがいて、世間体を気にして流行について行くことに忙しく自分で考えることを忘れてしまった人々を有効利用し、使い捨てされる人が増え、使い捨てされた被害者が自分の置かれている状況への不満を弱者へ向けるという悪循環が存在する。

それは、日本社会だけの話ではなく、アメリカ社会にも存在し、きっと他の国々でもある問題だろう。そして多くの被害者たちは問題の根源から目を逸らし、自分を使い捨てする人に向かって抗議するのではなく、自分より弱者へ向けて不満を現わし暴力の加害者へとなっていくことも珍しくない。

ランキングや流行に踊らされ、自分の価値をもランク付けしてしまうことは恐ろしい。社会の操り人形になるかならないか、それは個人の選択や責任の問題だと思っている人は是非、個人選択と責任の意識ある人の育成に携わってほしい。社会の悪循環の被害者にも加害者にもならないためには、そんな自分の意思をしっかり持った人達がもっと必要なのだから。

10位 フランクフルト(ドイツ)

世界の都市総合力ランキング

No. 10: Australia

World's Happiest Countries 2013