食べることは生きることーー浦島花子が見た日本

どんな状況であっても食べずには生きられない。単に食べるだけではない。世界中で絶賛される程の日本食が自分の食文化であること自体、日本人としての誇りに値する。

海外生活をする中で一番恋しくなるのはやはり「食」ではないだろうか。

「食べる」ために、昔むかしの人々はコミュニティーを築いた。どの国の歴史や文化を辿っても、根底には「食べる」ことへの思いがある。「食べる」ことには、日々の食事以上の深い意味があるのだ。日本食のありがたさをアメリカで思い知り、帰国してからはアメリカ食が恋しくなっている私は、今まさにそう感じている。

私が学生時代を過ごした90年代初期のシカゴには、すでにジャパニーズレストランが沢山あったが、経営者が日本人や日系人でない「なんちゃってジャパニーズレストラン」が多かったのが印象的だ。ここ10数年間の日本食の普及に伴い、ラテン料理と日本食のフュージョンなど、アメリカでは日本食も形を変えながら進化している。日本人からすれば、これは和食ではないと言われるような料理は、まるで人生半分以上を海外で暮らしてしまった浦島花子のようである。

多くのアメリカ人にとって日本食といえば、寿司、てんぷら、照り焼きである。お洒落なインテリアで寿司を食す場も増えてはいるものの、多くのジャパニーズレストランの内装は、昔からのステレオタイプされた日本のイメージがつきまとっている。富士山に波サブーンという浮世絵の中の日本のイメージは、海外ではまだまだ健在なのだ。

もちろん昔からアメリカのジャパニーズレストランのメニューには、Udon、Donburi、Edamameなども載っていたが、当然「日本の味」に出会えることはなかった。もともとそんなものを期待して海外に出て行く人はいないが、やはりどんなにその土地の物事に慣れ親しんでも、食のこととなると「食べて育った」経験が一番物を言う。それぞれの国により、文化により、また家庭により、コンフォートフードが存在し、それが自分のアイデンティティーにも繋がっているからだ。

コンフォートフード、それは食べてホッとするもの。「おふくろの味」である。幸い私には「おやじの味」もある。父が夕飯を作る光景が普通だった実家では、圧力鍋に材料を詰め込んでできる料理が多かったが、私にとっては父の肉じゃがやシチューがコンフォートフードなのだ。

日本文化とアメリカ文化が同居する我が家の食卓は、和洋折衷という言葉になんとなく漂う上品さはゼロである。パンケーキのサイドに白目をむいたシシャモと枝豆が登場したり、朝から甘いドーナツも味噌汁と一緒に普通に並び、ラテンの国から来たマテ茶で流し込まれていく。

わが子が大人になって思うコンフォートフードとは、きっと日本のルールに逆らった和食か、またはただ単にフレンチフライとピザかもしれない。何を食べて育つかで、その人のアイデンティティーも育っていく。「食育」とは単純にそういうことでもあるのだろう。

学校給食はちょっと苦手だ。私の周りにいる外国人ママの中には、同じように給食システムが苦手な人もいる。その理由は大きく分けて3つある。

  1. 見たこともないものを食べさせられる。
  2. 放射能汚染で食の安全が心配。
  3. ほぼ強制的。

毎朝早起きして弁当を作ることを考えたら給食はありがたい。ただ食文化の違いで見たこともないものを食べろと言われたら、誰でも戸惑うはずだ。給食によっていろいろなものを食べられるようになるのはいいことだが、「もしもアレルギー反応が出たら」という不安は、親として隠し切れないという事実もある。

海外から見た日本は全体が放射能汚染されているというイメージが強い。「国産」という表示だけで生産地がわからないものは避けたいが、日本語が読めない外国人にそんなチョイスはない。給食で使われる食材の放射線度はチェックし公開されているとはいえ、世界基準をはるかに上回る日本政府の定めた「安全基準」では、安心できない親は日本人外国人問わず多いだろう。

給食が強制的に感じるのは外国につながる親だけではないはずだ。私が帰国して幾度か聞いて気になるのは「給食は教育の一環ですから」という学校側の言葉。これは原発大惨事以前から言われていたのかはわからないが、給食の放射能汚染を恐れて弁当を持たせたいという親へ向けられているように聞こえるのは、私の思い違いだけであって欲しい。どちらにせよ、給食の強制などはできないはずだと思うのも、権利主張の国アメリカでの生活が長すぎたからなのか。

汚染から逃れるため東北からだけでなく関東からも西へと、または海外へと移住する人がいる。家族を守るための勇気と努力は並大抵のことではなく、お陰で家族が離ればなれで生活することを余儀なくされている人もいる。そしてマジョリティーの人々は、経済的にも精神的にも移住するという選択枠がないのが現実だ。だからといって、愛する子供達を汚染から守りたいと思っていない訳ではない。避難してもしなくても、何かしらジレンマはつきまとう。

先日の大飯原発の再起動を認めなかった福井地裁の樋口英明裁判長の判決文を読んだ人も多いだろう。その中で私にとって印象的だった部分を抜粋する。

「たとえ本件原発の運営停止によって、多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土と、そこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると、当裁判所は考えている。」

同様に、「この豊かな国土に根を下ろして培われてきた日本の食文化」も国富だ。いまや世界遺産にまで登録された。登録されたからには、味や見た目だけではなく安全をも守る義務がある。放射能の基準を上げて「安全基準」の幅を広げるのではなく、被害にあった農家を国がきちんと保証し、生産者と消費者を守るための対策を積極的に行うことこそが、「国民のみなさま」と口にする政治家たちがすることではないだろうか。

どんな状況であっても食べずには生きられない。単に食べるだけではない。世界中で絶賛される程の日本食が自分の食文化であること自体、日本人としての誇りに値する。その素晴らしい食文化を守るためにも、原発については慎重に検討してもらわなければ。次世代のコンフォートフードが汚染された世界遺産とならないために。

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