八田氏国賠訴訟、「控訴違法」で窮地に追い込まれた国・検察

八田氏の事件では、検察官控訴を慎重に判断する検察内部における慣例も、平成24年最高裁判例による制約も、完全に無視された。

美濃加茂市長事件では、現職市長を起訴した収賄事件で一審無罪判決を受け、組織の面子だけにこだわって無謀な控訴をした検察は、控訴審での立証が破たんし、現職市長の潔白が一層明白になるという、「泥沼」に追い込まれている【検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審】。その一方で、検察の「不当な控訴」をめぐるもう一つの裁判が佳境に入りつつある。

それまでは有罪率100%だった東京国税局が告発し、東京地検特捜部が起訴した脱税事件で、一審無罪判決、検察官控訴棄却で無罪確定という全面勝利を勝ち取った八田隆氏(【勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか】)は、2014年5月16日、国税局の告発、検察の起訴、控訴が違法だったとして、国に損害賠償を請求する訴訟を提起した(【八田隆氏が国家賠償請求訴訟で挑む「検察への『倍返し』」】)。

この訴訟では、八田氏の弁護人として八田氏の刑事裁判で検察と戦った小松正和弁護士、喜田村洋一弁護士に、元裁判官の森炎弁護士と元検察官の私(対談本【虚構の法治国家】(講談社の共著者))が加わって結成した原告代理人弁護団は、告発・起訴・控訴それぞれが違法であったことを主張し、被告の国側と戦ってきた。(八田氏は、それを「ドリーム・チーム」と称している。【#検察なう(393)「国家賠償訴訟に関して(2)~代理人ドリーム・チーム結成!」】

美濃加茂市長事件で、主任弁護人として、検察の不当極まりない控訴を受けて立ち、戦っている最中の私は、八田氏の国賠訴訟でも、検察の控訴の違法性(控訴違法)の主張を主に担当している。「無罪判決に対する検察の控訴」をめぐる戦いを、まさに同時並行で進めてきた。

美濃加茂市長事件では、贈賄供述者の控訴審での職権証人尋問という異例の展開に、検察は「証人テスト」も封じられて手も足も出せない状況にある。(この検察の惨状については、既に【前掲ブログ】で詳述。)

八田氏国賠訴訟での「控訴違法」をめぐる争いでも、検察の意向に沿って行われていると思える被告・国側の対応が混乱・迷走を続けており、原告が求めている控訴検察官の証人尋問をめぐって、国側は窮地に追い込まれている。

米国では、一審で無罪判決を受けた被告人に対して、検察官が控訴を行うことは、「二重の危険の禁止の法理」に反するとして、許されていない。我が国でも、学説では、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。

また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。」と定める憲法39条の規定が、米国の「二重の危険の禁止の法理」に由来するものだとして、無罪判決に対する検察官控訴は憲法に違反するとの見解が有力に主張されてきたが、最高裁判例では合憲とされ、実務上は、容認されてきた。

しかし、違憲ではないとしても、野放図に認められるべきではないのは当然だ。

三審制の下で、被告人の側が、有罪判決を不服として上級審による救済を求めることが認められるのは当然だが、検察官が、一審の無罪判決を覆そうとして控訴することは、いかなる場合にも許されるというものではない。少なくとも、検察の実務においても、検察官側からの控訴は、検察内部での慎重な検討を経て、控訴審で新たな証拠を請求し、採用される可能性がある場合など、一審無罪判決が覆せる十分な見通しがある場合でなければならないと考えられてきた。

そして、裁判員制度の導入に伴って、控訴審のあり方の見直しなどが議論され、控訴審では第1審の判断を尊重すべきという主張が行われたことを受け、平成24年2月13日の最高裁判決で「控訴審が第1審判決に事実誤認があるというためには,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要であるというべきである。」とされた。

これによって、無罪判決に対する検察官の控訴も、さらに制約を受けることになった。

控訴審が一審の無罪判決を覆すことができるのは、「一審判決に事実誤認がある」と判断した場合だ。最高裁で、その「事実誤認」について、「論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要」との判断が示されたため、検察官が「事実誤認」を理由に一審無罪の破棄を求めて控訴するためには、一審判決が「論理則、経験則に反していること」を具体的に主張できることが必要になったのである。

ところが、八田氏の脱税事件では、検察官控訴を慎重に判断する検察内部における慣例も、平成24年最高裁判例による制約も、完全に無視された。

この事件の控訴審では、検察官は、一応「新証拠の請求」を行っているが、すべて一審段階で存在していた証拠である。控訴審で請求する証拠については、「一審で請求しなかったことについてやむを得ない事由」があることが必要であるが、この制約の下で、新証拠が採用される可能性は全くなかった。

また、検察官の控訴趣意書での主張は、言葉の上では、「一審無罪判決の論理則、経験則違背」を主張しているように見えるが、その中身は、ほとんど一審での主張の繰り返しで、「論理則、経験則に照らして不合理であることを具体的に示すこと」など全くできていない。

実際に、控訴審では、第一回期日で、検察官の証拠請求はすべて却下され、ただちに結審、控訴棄却の判決が言い渡された。検察官の控訴は「問答無用」で斬り捨てられたに等しい。

この事件については、そもそも国税局が告発したことも、その告発事件を検察官が起訴したことも、全くデタラメだが、何と言っても最も明白に違法なのは、一審で無罪判決が出た後に、それを覆す見込みが全くないのに、検察官が無理やり控訴したことだ。

控訴違法に関する原告側の主張に対して、被告・国側は、凡そ的外れな主張を繰り返してきた。

上記の「平成24年最高裁判決」については、

刑事事件における控訴審の審査の在り方を示したものであり、検察官による控訴申立ての判断基準や要件を示したものでもなければ、検察官による控訴申立ての国賠法上の違法性判断基準を示したものでもない

などと述べ、

検察官は、第一審の事実認定が不合理であることを『具体的に』示すことができない場合に控訴申立てをしても国賠法上違法ではない

とまで言い切ったのである。これはすなわち、控訴審での主張や立証と関係なく、検察官が、「あいつは有罪だ」と思っていれば控訴していい、という主張だ。

しかし、一審無罪判決に対して検察官が控訴するとすれば、無罪という結論を導いた事実認定が間違っている(事実誤認)と主張して、控訴審で、その主張を認めてもらい、無罪判決を覆すことが目的のはずだ。

国側の主張は、検察官は、公訴権(刑事事件を起訴する権限)を自由に行使できるのと同様に、無罪判決に対する控訴も、したいと思えば自由に行うことができ、控訴がどのような結果に終わっても一切責任を問われないという、まさに「検察の独善」そのものだといえよう。

大阪地検特捜部の村木厚子氏の冤罪事件や証拠改ざん事件で厳しい社会の批判を浴び、「検察の理念」を定めるなど、抜本的な改革を迫られた検察組織である。「有罪」だと判断し「正義」だと思えば、無罪判決に対する控訴でも何でもやることができる、という考え方が、国民に許容されないのは当然であろう。

平成24年の最高裁判決以降、無罪判決に対する検察官の控訴の違法性が争われた事例での裁判例はまだ出ていない。八田氏の国賠訴訟は、その点についての貴重な先例になる可能性がある。

この点に関して重要なことは、検察官の権限と責任に関する法的枠組みが、検察という組織と一般の行政庁とでは大きく異なるということだ。

一般に、官公庁では、その長である大臣が有する権限を各部局が分掌するという形で権限が配分されているが、検察庁では、検事総長、検事長、検事正などの職にあるからといって、刑訴法上、特別の権限があるわけではない。勾留請求、起訴、上訴など刑訴法上の権限は、全て「検察官」個人に与えられている。

検察庁法1条は、「検察庁」と「検察官」の関係について、「検察庁は検察官の行う事務を統括するところとする」としている。これは、個々の検察官は独立して検察事務を行う「独任制の官庁」であり、そのような個々の検察官の事務を統括するのが組織としての「検察庁」だという趣旨だ。

検察庁内部では、上司は各検察官に対して、各検察官の事務の引取移転権(部下が担当している事件に関する事務を自ら引き取って処理したり、他の検察官に担当を替えたりできる権限)を有している。だから、主任検察官と上司との意見が異なる場合は、上司が引取移転権を行使することで、主任検察官とは異なった処分を行うことはあり得るが、部下に自分の意見を強制することはできない。

事件を担当する検察官は、証拠を精査・検討して、権限を行使するかどうかを判断する。その検察官個人の判断については、検察庁内部の決裁システムによって「組織としての承認」を受けた上で、実際の権限を行使することになるが、刑訴法に基づく権限自体は、検察官個人に帰属しているので、権限行使についての責任も、組織ではなく検察官個人に帰属するのである。

控訴するか否かは、検察庁にとって極めて重要な判断であり、地検の内部での検討の後に上級庁の高検との協議を行い、場合によっては最高検との協議も行われる。

そして、事件を起訴した検察官や公判を担当した検察官ではなく、その地方検察庁の検察事務を統括する立場の次席検事が自ら検討した上で控訴を決定し、控訴申立書に署名して控訴を行うのが通例だ。本件では、控訴申立書を書いて、裁判所に対して控訴の手続きをとった当時の東京地検次席検事のI検事が、控訴申立ての責任を負うのであり、過失の有無・違法性も、I検事個人の認識や行為から判断されることになる。

当然、一般的には、控訴の責任を負う立場にある検察官自身が、一審無罪判決の内容や証拠関係を検討した上で、控訴審で無罪判決を覆せる見通しが十分にあると判断して、控訴が行われる。

しかし、本件に関しては、そのような慎重な検討が行われないまま、I検事が控訴申立てを行った可能性がある。

国税当局と検察とはかねてから深い関係にある。

国税が告発相当と判断した事件については、必ず両者で「告発要否勘案協議会」が開かれた上で、告発するかどうかが判断される。その告発要否勘案協議会で検察官の了承を得て国税局が告発した事件については、不起訴にはしないというのが「不文律」である。その告発事件に対して一審無罪判決が出た場合、国税局との関係からは、控訴せずに一審で無罪を確定させることなどできないというのが「検察の立場」であろう。

そうなると、東京地検次席検事として、「検察の立場」を守るべき中心的地位にあるI検事は、判決内容や証拠関係とはかかわりなく、「控訴しかあり得ない」と判断して、一審判決を覆せる見込みが全くないにもかかわらず無謀な控訴を行ったのではないか。

そのように推測するもう一つの根拠は、控訴の違法性の判断基準に関する被告の国側の主張内容だ。

前述したように、被告は、「検察官は、第一審の事実認定が不合理であることを『具体的に』示すことができない場合に控訴申立てをしても国賠法上違法ではない」などという凡そ世の中に受け入れられるはずもない主張を続けている。そのような判断基準を前提にしないと、I検事が行った控訴の違法性を否定することができないからだとしか考えられない。

これらの根拠に基づいて、東京地検次席検事だったI検事の控訴申立てについて、原告は、次のような具体的事実を主張した。

東京地方検察庁検察官(I次席検事)は、本件一審無罪判決が出された時点で、東京国税局が告発し東京地検特捜部が起訴した脱税事件についての一審無罪判決は承服し難いものと考え、控訴することを決断したものであり、判決書を検討することも、証拠関係を直接確認することもせず、第1審判決の事実認定が論理則・経験則に照らして不合理であることを具体的に示すことができるか否か、控訴審において有罪判決を得る見込みがあるか否かなどの検討を行わないまま、本件控訴申立てを行った。

ところが、被告は、この具体的事実について、

原告の主張する判断枠組みは採用し得ない独自の見解であり、これによって控訴申立てが国賠法上違法であるかが判断される余地はない(そのため、上記に対して認否を行う必要を認めないものである。)

などと述べているのである。

原告の「法的枠組みの主張」は、平成24年最高裁判例を踏まえた、十分に根拠のあるもので、「独自の見解」などと言って済ませられるようなものではない。裁判所が採用する可能性がないなどとは到底言えないはずだ。ところが、被告・国は、原告の主張事実に認否をしようとせず、最終的に、裁判長から「被告は原告の事実主張に対して『沈黙』でよいのか」と念押しされて、ようやく「検討する」と言っている始末だ。

認否についても、当然、検察庁側の意向を確認しているものと思われるが、「I検事が判決内容も証拠も検討せずに、控訴申立てを行った」と主張されているのに、それをただちに否定すらできないというのは、この事件での控訴が、いかに不当極まりないものであったのかを端的に示していると言える。

有罪率99.9%という圧倒的に不利な状況の下で、無実を訴え続けて裁判を戦い抜いた者にとって、また潔白を信じて支援してきた者にとって、一審無罪判決は、まさに「待ちわびた春」だ。その「春」を土足で踏みにじる権限が、検察官に与えられていいはずはない。

無罪判決を覆す見通しもないのに、組織の面子維持、結論先送りのために控訴することなど、絶対に許されてはならない。そのような控訴を行った検察官と検察の組織は、当然の控訴棄却という結果に対して、厳しい責任を問われるべきだ。

一審無罪判決を覆す見込みがないのに行われた無謀な控訴について、その権限行使を行った検察官が、判決内容や証拠関係をどれだけ検討し、どの時点で控訴を決断したのか。八田氏の国賠訴訟で真相を明らかにすべき重要なポイントだ。

(2016年4月8日 「郷原信郎が斬る」より転載)

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