全国最年少市長の「潔白を晴らす」

弁護人を受任し、名古屋地検の接見室で藤井氏と接見した際、最後に交わしたのが「頑張って、潔白を晴らしていきましょう。」という言葉だった。
時事通信社

全国最年少の藤井浩人美濃加茂市長が市議時代に業者から30万円を受け取ったとされている事件で、弁護人を受任し、名古屋地検の接見室で藤井氏と接見した際、最後に交わしたのが「頑張って、潔白を晴らしていきましょう。」という言葉だった。

その直後に、名古屋市内で行った記者会見でも、私は、「潔白を晴らしたい」という言葉を何度も口にし、翌日の新聞記事にも、そのまま引用された。

この「潔白を晴らす」という言葉、日本語的には若干おかしい。正しくは、「潔白を明らかにする」か「疑いを晴らす」だろう。

しかし、接見の最後で藤井氏にかけた言葉が「潔白を晴らす」だったことは間違いないし、今も、藤井氏がやるべきこと、そして、私が弁護人として行おうとしていることにぴったり当てはまる言葉は、「潔白を晴らす」なのである。

藤井氏は6月24日に収賄の容疑で警察に逮捕され、検察は26日に勾留請求し、裁判所も勾留を決定した。その疑いを晴らすために一般的に必要なことは、本人が、そして、弁護人の我々が、潔白を「明らかにしていくこと」「証明すること」だ。

警察、検察に犯罪の容疑をかけられ、逮捕までされた人物は、まず犯罪者だと考えて間違いなく、その疑いを晴らすためには、「潔白であること」つまり、本来間違いはないはずの警察や検察の認定が誤っているという「例外的な事例」であることを、本人や弁護人が「証明しなければならい」というのが、世間の一般的な認識であろう。

しかし、私には、接見室で、仕切り板を隔てて座っている若き市長の姿、表情を見て、そして、彼の「私は絶対に現金など受け取っていません。」とはっきり言い切る言葉を聞いて、その疑いを晴らすための「証明」などという大仰なことが求められているとは思えなかった。

警察の何かの見立て違い、誤解が重なり、その誤りを正す警察組織内のシステムが機能せず、そして、そのような警察捜査の暴走の抑制する立場にある検察が本来の役割を果たかったために、若き市長の周りに「収賄の疑い」が、どんよりと雲のように漂っているだけであり、我々がやるべきことは一刻も早くその雲を「晴らしてしまうこと」だ、としか思えなかったのだ。

その瞬間に、私の口から自然に出たのが「潔白を晴らす」という言葉だった。「潔白」は当然のことであり、我々が行うべきことは、その「潔白」を覆い隠そうとしている雲を吹き飛ばし、彼の「潔白」が「晴れわたった空」のように、誰にもはっきりと見えるようにすることだ。そういう私の思いは、「潔白を明らかにする」という「正しい日本語」では表現できなかった。

それから2日、多くの情報提供を受けたこともあり、私の頭の中では、彼の「潔白」はますます明白なものになりつつある。警察捜査が、どうしてこのように誤った方向に向かってしまったのか、検察がなぜ、それを止めることができなかったのか。その経緯と構図も、少しずつわかってきたように思える。

私が由良秀之のペンネームで書いた推理小説「司法記者」、とそれを原作とするWOWOW連続ドラマ「トクソウ」(今年5月11日から5回連続で放映)では、特捜捜査の暴走と、それと癒着し、それを煽っていく司法マスコミの関係を描いている。ここで出てくる検察捜査の暴走のプロセスと、今回の警察捜査の暴走のプロセスには、共通点があるように思える。

一昨日の夜、接見後の記者会見で、我々弁護団が、藤井市長の潔白を確信していると述べ、「有罪視報道」を控えること、客観的・中立的報道を行うことを要請したにもかかわらず、警察情報を、信ぴょう性を確認することもなく垂れ流す県警クラブ中心のマスコミ報道は、まさに推理小説「司法記者」に出てくる司法クラブ中心のマスコミ報道とそっくりである。

藤井市長逮捕に対する政治家の反応も様々だ。

藤井市長の仲間、多くの若き政治家たちが、彼の潔白を信じ、懸命に激励、支援の活動をしている一方で、逮捕の報道を見て、当然に「有罪」だと決めつけ、この時とばかり、藤井市長の政治姿勢まで批判している政治家もいる。

【「若手守旧派」政治家】などというタイトルのブログで、

若さが売り物の新鮮なイメージのその市長さんが、雨水浄化設備の設置をめぐって業者に便宜を図り、見返りに現金30万円の賄賂を受け取りました。

などと書いて有罪と決めつけ、

正直言って、20歳代の実務の経験のない若者に、自治体の経営ができるとは、私は思いません。

有権者の判断とはいえ、何となく釈然としません。「何かを実現するために」政治家になるのではなく、「自己実現のために」政治家になったのでしょう。あるいは「割の良い仕事」としての政治家かも。

などと書いてこき下ろしている、みんなの党衆議院議員の山内康一氏などは、その典型だ。

とりわけ、野党議員には、権力との一定の距離感が必要だ。権力の行使に対して、健全な懐疑心を持つことが必要なはずだ。

警察、検察などの行動を無条件に正しいものとし、権力の攻撃にさらされている政治家に対し、本人は潔白を訴えているのに有罪と決めつけてこきおろすような野党政治家は、いかに立派な主義主張を述べていようと、立派な政策を訴えていようと、誰からも信用されないだろう。こういう時にこそ、政治家の本質が表れるのである。

一度権力行使の対象にされたら、当然晴れるべき疑いも、それを晴らすのは決して容易なことではない。

権力に群がるマスコミ、権力におもねる政治家の中で、藤井市長の「潔白を晴らす」ことに、我々はこれから取り組んでいかなければならない。

(2014年6月27日「郷原信郎が斬る」より転載)

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