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2015年03月07日 17時01分 JST | 更新 2015年03月07日 17時01分 JST

美濃加茂市長無罪判決 ~極めて当然だが決して容易ではない司法判断~

昨年6月24日の逮捕の直後から、藤井市長の潔白を確信して、全力で弁護活動に臨んできた私にとって、待ち望んでいた判決そのものであった。

3月5日午後2時、名古屋地裁で、藤井浩人美濃加茂市長に対して、無罪の判決が言い渡された。

昨年6月24日の逮捕の直後から、藤井市長の潔白を確信して、全力で弁護活動に臨んできた私にとって、待ち望んでいた判決そのものであった。

今回の判決について、この最初のブログでは、判決を私がどのような思いで迎えたのか、そして、言い渡された判決が、日本の刑事司法においてどのような意味を持つものなのかについて述べたいと思う。

まず、判決言渡しの直前の私の率直な心境を述べておきたい。

藤井市長が潔白であり、現金を受け取った事実などなく、警察、検察の逮捕・起訴、そして、公判が全くデタラメなものであることは、昨年6月末の市長逮捕以来、私が、ツイッター、ブログ、インターネット番組等で繰り返し述べてきたとおりである。

しかも、9月中旬から始まった公判において、裁判所の事実解明への積極的な姿勢が示され、検察の捜査・立証の杜撰さが、次々と明らかになっていった。鵜飼裁判長の訴訟指揮の方向性、証人尋問、被告人質問での裁判所の質問事項などからしても、裁判所が無罪の心証であることは疑いの余地がないように思えた。

昨年12月24日の第9回公判期日、弁護人が行った11万字に及ぶ膨大な弁論は、論告での検察の主張を完全に崩壊させることができたと手応えを感じたし、無罪は間違いないとの確証を持ったことは、年末のブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】でも詳細に述べた。(同ブログに、弁論全文を掲載した私の法律事務所HPを引用している)

藤井市長逮捕から結審までの約半年、弁護人としてやれることはすべてやり尽くした。私としては無罪判決を確信し、自信を持って判決言渡しに臨むつもりだった。

しかし、判決が近づくと、私の胸中は次第に穏やかではなくなっていった。

我々弁護人が、公判で立証し、弁論で明らかにしたことを、そのまま裁判所が認めるとすると、検察の面子は丸つぶれであり、このような事件で現職市長を起訴して有罪論告を行ったことについて、組織内外で重大な責任を問われかねない。

これまでの日本の刑事裁判における検察と裁判所の関係、とりわけ、今回のような社会的、政治的に極めて重大な影響を及ぼす事件に対する裁判所の一般的姿勢からして、本当にそのようなことができるのだろうか、結審から判決までの間に、裁判所が変節してしまう可能性はないだろうか、そのような不安が次第に大きくなっていった。

今年1月、私と元裁判官の森炎弁護士との対談本【「虚構の法治国家」(講談社)】が出版された。その中で、森氏は、刑事裁判官の「検察の言いなりになる、というより、積極的に、検察にもたれかかりたいという精神性」「根深い依存意識」を指摘し、その「検察にもたれ込む裁判所」が刑事司法の虚構の構図の中心だと、いみじくも述べている。

同書の最後の4章「美濃加茂市長事件から考える裁判所と検察」のあとの「あとがき」で、「一連の検察不祥事を経て、検察は変わったのか、戦前から長らく検察にもたれかかってきた裁判所の姿勢が、司法制度改革を機にどのように変わるのか。それらを占うためにも、美濃加茂市長事件の今後の展開に注目していただきたい。」と書いて、本を締めくくったが、森炎氏が言うように絶望的とも言える日本の刑事裁判官の一般的な姿勢の中で、名古屋地裁刑事6部だけは特別だと、本当に期待して良いのだろうか。

しかも、マスコミ等を通じて伝わってくる検察側の感触は、「判決には全く心配していない」というものだった。あれだけ、弁論で論告がコテンパンにやられているのに、それでもめげないというのは、裁判所が検察の意に反する判決を出すことはないという確たる見通しでもあるのだろうか。

そういう懸念が、いくら打ち消そうとしても、頭から離れなかった。

藤井市長逮捕から公判が結審するまでの半年間、全精力を傾けて、この弁護に取り組んできただけに、万が一、予想外の判決だった場合には、私にとっても打撃は計り知れない。

判決の数日前に、数年ぶりのひどい風邪を引き、声が出しづらい状態になったのも、そういう複雑な心境が影響していたのかもしれない。

そして迎えた判決言渡し。

「主文、被告人は無罪。」という鵜飼裁判長の言葉を聞いて、感無量だった。

裁判の経過からも、我々弁護人が主張・立証してきたことからも、当然の無罪判決である。しかし、その「当然の無罪判決」を出すことが、裁判所にとって、いかに大変なことか。とりわけ今回の事件のように、検察が組織を挙げて取組み、面子にかけて有罪判決を得ようとしている事件において、いかに困難なことか。現職検事としての23年間を含め、これまで刑事司法に関わってきた私が十分過ぎるぐらいに認識していることだった。

そういう意味で、今回の、鵜飼裁判長以下の名古屋地裁刑事6部によって、藤井市長無罪という公正な判断が示されたことに、心から敬意を表したい。

しかし、この判決の本当の意義は、「無罪」という主文だけではない。その結論を導いた理由に極めて大きな意味がある。

判決では、公訴事実の要旨、当事者の主張、公判供述や供述調書の概要等に続いて、本件の最大の争点である「贈賄供述の信用性」についての検討を行っている。

これについて、まず、

中林の公判供述は、全体として具体的かつ詳細なものと評価でき、一定の裏付けが存在する上、弁護人からの反対尋問にも揺らいでおらず、供述内容に矛盾を含むなど明らかに不合理な内容も見受けられないことは検察官の主張するとおりである。

として、検察官が中林供述を信用できる根拠として主張する点を概ね認めた上で、

中林のような会社経営の経験があり、また、金融機関を相手として数億円の融資詐欺を行うことができる程度の能力を有する者がその気になれば、その内容が真実である場合と、虚偽や誇張等を含む場合であるとにかかわらず、法廷において具体的で詳細な体裁を備えた供述をすることはさほど困難なことではない。加えて、本件では、中林は、平成26年10月1日の第2回公判期日及び同月2日の第3回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたり、検察官との間において相当入念な打ち合わせをしてきたものと考えられる上、隣房者との間で対質の方法により行われた第7回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたっても、検察官との間で6,7回に及ぶ打合せを行っていたというのであるから、公判廷において、客観的資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で不自然かつ不合理な点がない供述となることは自然の成り行きといえる。

と述べて、中林が関係資料に整合するように供述を整えた可能性を指摘した。

これまでの刑事事件では、検察官の立証においては、「具体的かつ詳細」「裏付けがある「一貫している」というような要素が認められれば、「供述は信用できる」と判断されるのが一般的だった。

しかし、今回の判決では、中林の贈賄供述について、そのような一般的な供述の信用性の要素は認められるとした上で、中林と検察官とが「入念な打合せ」をしていることなどから「具体的で詳細な体裁を備えた供述をしている可能性がある」として、「供述の信用性が供述者によって作り出されている疑い」を指摘している。

そして、そのように疑う根拠に関して、判決の最後に、「中林の虚偽供述の動機の可能性に関する当裁判所の判断」という項目を設け、

捜査機関の関心を他の重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、中林自身の刑事事件の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようとすることは十分にあり得るところである。

と述べているのである。

私は、弁論の冒頭の「はじめに」で、本件の贈賄供述の信用性に関して、以下のように述べている

《中林については、融資詐欺等での自己の処罰を軽減するために、被告人への贈賄の事実を作り出し、意図的に虚偽供述をしていることが疑われているのであり、しかも、そのような中林の供述を、捜査機関側も容認し、取調べ、証人テスト等において、中林とともに、供述の信用性を作出している疑いがある。そのことを踏まえ、「中林が意図的に虚偽供述をしているのか、そうではないのか」を判断することが、本件において真相を明らかにする上で不可欠なのである。

検察官が中林の供述の信用性に関して強調する「関係証拠との符合」「供述内容が具体的で自然であること」などの外形的要素は、事後的に作出することが可能なものであり、上記の意味における「中林の供述の信用性」の評価とはほとんど無関係である。そのようなものは、連日長時間にわたる取調べ、証人テストの中において、中林・取調官のいずれが主体的かはともかく、自由自在に作出することが可能なのである。

本件における中林の供述の信用性評価において重要なことは、事後的には作りだせない供述動機、供述経過等から、中林の供述が自らの記憶に基づくものであるか否かを判断することなのである。》

今回の判決は、裁判所が、弁護人が本件での贈賄供述の信用性に関して強く訴えてきたことを正面から受け止め、「意図的な虚偽供述が疑われる場合の信用性」について適切な判断を示したところに、極めて重要な意味があるのである。

それは、検察が設定した刑事事件の判断の枠組みそのものに対して判断するということであり、元裁判官の森炎氏が対談本で言うところの「検察にもたれかかる裁判所」であれば、このような判断は到底行い得なかったはずだ。

これまでの刑事裁判での裁判所の判断は、基本的に、検察官が設定した土俵の上で、検察の判断の枠組みの下で行われてきた。それが、99.9%を超える高い有罪率につながり、無実を訴える被告人にとっては絶望的な状況が続いてきた。今回の判決は、検察の土俵・枠組みの中での判断ではなく、裁判官自身の、そして世の中の常識に沿った判断枠組みの下での、公正な判断を示したものといえる。

その意味で、今回の判決は、「極めて当然だが、決して容易ではない司法判断」だった。

それを行い得る裁判体によって市長の事件が裁かれたことは、市長逮捕以来8か月余、不当な捜査・公判で大きな損失を受けてきた美濃加茂市民、市役所職員など、市長の潔白を信じて支えてきた人達にとって、最大の幸運であった。

そして、それは、日本の刑事司法に一筋の光明をもたらしたものと言えよう。

(2015年3月7日「郷原信郎が斬る」より転載)