子どもたちはどう学び、育つのか? 子どもたちのふるまいや姿勢、行動の選択などをよく見ていくと、「親や社会の鏡だなあ」だと強く感じます。国際的に見て、日本の「教育の水準」や「子どもの学力」は優秀だと言われます。けれども、「創造性」「想像力」「構想力」などのクリエイティブな才覚については、「抑制がきいた状態」のままに封印されているように感じます。これらの力を解き放ち、思い切った挑戦をしようとする時、何が邪魔しているのでしょうか。
「失敗をしないこと」が、現実の社会を生きていく上で重要なことには違いありません。しかし、「失敗をしないこと」があまりに強調される社会は、柔軟性と創造性に欠けて発展や飛躍の道も開けていかないということも同時に意識しておきたいと思います。過去を忠実になぞり、石橋を叩くようにして渡り、新しいことに挑戦しなければ、たしかに「失敗しない」のは当たり前のことです。
長い間、日本の学校や役所、大企業の人事は、「大きな失敗をしていないこと」を重視してきました。十年一日の如く、毎日決まったことを判で押したように繰り返し、手堅くミスをしない実直な仕事ぶりは、確かにいつの時代にも一定の割合で求められるのでしょう。しかしあくまでも「一定の割合」にしかすぎません。言い替えれば、それは社会生活を営む上での必要な基盤には間違いないのですが、あくまで人間形成上の土台であり、すべてではありません。
「失敗しないこと」にこだわるあまり、「未来の成功の芽」を自ら摘んでしまうということがあることを警戒しておくべきです。あくまでも、「失敗をしないこと」は既存のレールの上で速度を保ち、脱線をしないことです。レールが続いている目的地は過去に設定されたものであり、本当にそこに到着する意義があるかどうかは「全体を見た大きな判断」が問われるところです。すなわち、企業や組織の仕事の過程では、後からふり返ってみて、根本的な判断の時期を逸して「目的地の変降」「進行方向の転換」が出来なかったゆえの悲劇が、何度となく起きています。
技術の進化・発展が急で、変化の激しい時代となっています。この先、何十年も同じ型、同じ手法で製造される「定番商品」は、なかなかありません。真面目に、コツコツと作業を積み上げていけば必ず成果と報酬が約束される時代は、過去のものとなりつつあります。10年前には高額商品だった液晶テレビも、グローバルな価格競争が激しくなり値下げが続きました。技術や性能では優れているはずの商品が、「失敗していない」はずなのに売れなくなっていき、企業の力も衰退していく場面は珍しくありません。
「失敗しないこと」の連続線上に、必ずしも成功の門が開くわけではないのです。
これまでの教育が子どもたちに要求しているのは、「失敗しないこと」だったのではないかと思います。「100点満点」とは「間違えなかったこと」の証であり、いくつも誤答があれば、その数だけ減点して採点することも当たり前に行なわれてきました。与えられた問題に対して、正確に、素早く、間違えないことは、子どもの「能力」とさえ言われてきました。
小学生から中学生になる過程で、「自己肯定感」や「自己有用感」が磨滅していくとしたら、なぜなのでしょうか。思い出してみましょう。名前を呼ばれて、先生が採点したテストの答案用紙が手渡された瞬間です。まず、点数を見て、その次に見るのはどこだったでしょうか。多くの人は減点された「誤答」に目をやります。先生に一言、何か言われる場合もあります。自責感情が大きくなってきている時に、帰宅すると親から答案用紙の提出を求められ、小言を浴びます。明治以来の学校の成績評価の仕組みは、「間違い」を排除して、「間違わない」ことを是としています。(「『子どもの幸せ」と『自己肯定感』をつなぐもの』2015年10月20日)
前回記事のこの部分に、読者から多くの反響をいただきました。「思い出した。この通りだった」という人や、「子どもだけでなくて親も変わらなければいけませんね」等の声が届きました。「誤答」に目をやって「しまった、間違えた」と悔しがったり、「こんなパターンでまた間違えたか」と反省したりすることは、当然ながら必要なことです。ただし、「あなたはいつも間違えてばかりいる」「やっぱりダメな子ね」と、子どもの心に烙印を押す行為だけは慎みたいものです。目の前にあるのは、「間違えない=失敗しない力」を試すテストであり、それは「能力の全体ではなく、一部だ」とクールに評価することが大切だと思います。
実際の社会で遭遇する問題は単純ではありません。目の前の大問題だととらえていたことが、ほんの前兆にすぎず、反対に見落としていた変化が予想外の影響を仕事にもたらすことなどよくあることです。不定形なものが不規則に、いくつもが関連しあって動いていく社会の中で、「時代を読む力」や「表面には見えない本質的な力を見抜く観察眼」などのイマジネーションは、単純な反復処理作業の訓練や経験から生まれてくる力ではありません。
意欲に溢れ、想像力に優れ、大胆な行動力を持った人材は、「派手な失敗」や「修復不能の失敗」を時には繰り返します。「失敗は成功の母」と言われるように、失敗のプロセスの中に成功の芽が胚胎し、大きな結果を生む直前にこと切れたプロジェクトも、たくさんの「成功のヒント」を宿しています。それでも、失敗から成功に向かう「プロセス」は複雑であり、評価する視点も多角的で奥行きの深いものでなくてはなりません。
古代から人間は、厳しい自然環境の中を生き抜くのに必要な情報を五感で読み取り、行動してきました。現代の社会でも、了解不能の事態に遭遇した時に、過去の経験や法則に拘泥せずに、「直感」や「ひらめき」に助けられることがあります。「直感」や「ひらめき」は、根拠なき思いつきではなく、過去の知識の集積を煮詰めながら生まれてくる「認識の飛躍」につながります。狩猟も、農耕も、予測通りにはいかない気象条件の影響を受け、偶然の要素も加わり、予測が難しい未来に向けて挑む仕事でした。人間ひとりひとりに人生があるように、日々起きることはまったく違うのが当たり前でした。
世田谷区の区立中学校の生徒を対象にした「ジャズ学校」があります。
世界的ジャズ・トランぺッターの日野皓正氏を校長とした「ドリームジャズバンドワークショップ 」です。今年で11年目になるこの中学生たちで編成するビックバンドは、希望者が4月の連休前にそろいます。4年前に世田谷区長となった初公務が、日野校長を前にして「学園長」(とりあえずそう呼ばれています)として挨拶することでした。以来、毎年見守っていますが、「管楽器の音の出し方もわからない初心者」も含めて、子どもたちは日野校長のもとで活躍するプロの講師陣の指導を受けて、驚くべき集中力でトレーニングを重ねていきます。このバンドを卒業した高校生たちも練習の場にやってきて後輩たちを手助けします。そして、わずか3カ月という短い練習期間を経て、8月に毎年、世田谷パブリックシアター(三軒茶屋)のステージで、500人を超える観客の前で見事なコンサートをやってみせます。
4月の入学式では声も小さくうつむいていた子どもが、演奏中にすくっと立ち上がり、堂々とソロ演奏をします。客席で見ている私は、子どもの演奏と表情の輝きに、涙が頬を伝ってくることもしばしばあります。この4年間、日野さんとも何度も話していますが、「子どもたちの潜在的な力は凄いものがある」ということが証明されています。きっと、これから始まる長い人生の中で、「この体験は自分を見失わない基盤になるだろうなあ」とも思います。世田谷区教育委員会が「才能の芽を育てる体験学習」の企画として始めた事業ですが、子どもたちは、まさに「失敗し続ける」ことで伸びていくのです。
ドリームジャズバンドワークショップは、世田谷区の中学生のみが入学資格を持ち、最近は希望者が多くなり面接等で選考もしているので、限定された特別なプログラムだと言えます。ただ、自己抑制気味だった子どもたちの表情が明るくなり、目に力がこもっていくプロセスを見ると、「失敗しながら走り続ける」ことの素晴らしさを格別に感じます。
これからの時代、けっして規則的で安定感のある毎日が続くとは限りません。世界的な異常気象、また予想したくないことですが世界的な経済失速や戦争の危機と隣り合わせで私たちは生きています。既存のマニュアルは通用しない場面も予想されます。亡くなった国際政治学者である國弘正雄さん(元参議院議員)は、私が親しくさせていただいたひとりですが、「日本人は、このバスに乗り遅れるなと、自ら考えずに群れて雪崩れて誰もが同じ方向にひた走った失敗から学んでいない。心にジャイロコンパスを持て」と常々、話しておられました。声の大きな人にすべて委ねるのではなくて、自立した方位測定を自ら行なえとの勧めでした。
私自身は、中学2年生の時に、当時の標準的な人生に誘導するベルトコンベアーを降りました。詳細は後に書くことにしますが、簡潔に言えば内なる「直観」が自分の進むべき道を示したと言っていいと思います。高校受験に全力をつくすべきか、政治や社会の矛盾について声をあげるべきなのか、悩みに悩み、当時の教師たちとも何十時間と話し合いました。最近、約半世紀ぶりに、文部科学省は「高校生の政治活動」について、これまでの禁止から校外での容認へと見解を変更しました。 18歳選挙権の実施を前にした変更です。
私が中学生だった1970年前後は、まだ高度経済成長が続いていました。「標準的な人生に誘導するベルトコンベアー」の引力が、それだけ強かった時代でもあります。しかし、ベルトコンベアーを降りてしまうと、地図さえない道なき道が続くのです。ふりかえれば、私はひどい失敗続きの10代後半をもがいていたのかもしれません。たったひとつ、五里霧中の模索の中で身につけたことは、「明日のことは自分で考える」という習慣でした。失ったものは多く、得たものは、それだけでしかありません。
子どもたちのやわらかな心に寄り添い、「失敗しないこと」の抑制を解いて、「失敗し続けながら挑むこと」の価値を、どのように具体化していくのがいいのか、読者の皆さんと一緒に考えたいと思います。