5年目の「3・11」を迎えて、脱原発を進め、被災地支援を継続したい

あの東日本大震災から5年が経とうとしています。
Kenji Ando

あの東日本大震災から5年が経とうとしています。

5年という月日は、地震と津波、そして原発事故に遭遇し、大きな影響を受けた被災者の方々にとって、どれだけ重かったことでしょうか。そして、東日本大震災と原発事故は、直接被災した人以外にも多くの人の生き方を揺さぶってきました。私もまた、「3・11」により大きく生き方を変えたひとりです。あの経験があればこそ、自治体の長として働くことを選択したのでした。

東日本大震災も原発事故も「過去形」では語れません。震災と津波の爪痕は深く、大規模な高台移転のための造成工事が続く被災地を訪ねて実感するのは、すべてが「途上」だということです。「復興」という言葉は、いまだに目標であって現実とはなっていません。また、原発事故に関しては、東京電力福島第一原発の廃炉への道筋も見えていないばかりでなく、この国が事故を教訓化して脱原発の道をたどるどころか、事故の記憶をなきものとして「再稼働」になだれこむ状況に直面しています。

「原発再稼働社会」への転落を止めよ--東電旧経営陣強制起訴に思う (『太陽のまちから』2016年2月29日)

東京電力福島第一原発事故を忘却し、40年ルールも骨抜きにして、再稼働や原発輸出にひた走る悪夢のような現実を、このまま認めるわけにはいきません。福島第一原発事故の影響で、なお多くの人々が避難生活を送っています。この5年で、希望を失い自ら生命を絶った人たちの「絶望」は、私たちの社会の未来に向けられたものです。

私は、衆議院議員だった当時に、超党派議連「公共事業チェック議員の会」の事務局長として、「地震と原発」について何度も会合を開催し、当時の原子力安全・保安院に対してヒアリングをしてきました。2007年7月に起きた柏崎刈羽原発の火災は、世界で初めて原発敷地の至近距離で起きた大規模地震が引き金で、今ふりかえれば、「福島第一原発事故」以前になされていた、見失ってはならない自然からの警告でした。

ところが、原子力ムラに支配されていたメディアはこの事故の真相に触れず、原発の「安全性」を宣伝する東京電力の湯水のようなCMと共に、「原発は地震に強い証拠が得られた」と、倒錯した言説を振りまきました。

最悪の事故が起きてしまったと悟ったのは、前回記したように「3・11」の夜から翌日の未明にかけてでした。地震や津波による原発事故の危険性があると主張してきた私にとっても、現実に起きたことはその想像をはるかに上まわる事態でしたが、意外なことでも「想定外」でもありませんでした。そのように認識しながら、重大事故に至るまでに社会的影響力を行使できなかった私自身の政治的非力と、責任を感じました。

経済産業省や電力会社の言うことを繰り返してきた原発推進のエピゴーネンの役割を果たしてきた政治家や文化人の責任はもちろんあります。しかし、事故の危険性を認識していたから「正しかった」と自己正当化することは出来ませんでした。

事故直後の私は、自分に出来ることは何かと問いながら、原発事故の渦中で孤立する福島県南相馬市の救援に動きました。福島第一原発から20キロ圏内が「避難指示区域」、20キロから30キロ圏内が「屋内退避指示区域」となったことで、トラック等の物資運搬が止まり、南相馬市は「陸の孤島となってしまう」と桜井勝延市長が悲痛な訴えをしていたのを覚えている人も多いことでしょう。

3月中旬、杉並区が南相馬市と災害時相互応援協定を締結していることから、私は田中良杉並区長と相談して首相官邸・政府と連絡を取り、杉並区からの「物資搬入」「避難民受入れ」の手伝いをしました。3月下旬、南相馬市から帰ってきた直後に「世田谷区長選挙へ立つべし」という要請を受けることになります。

その後区長に就任してまず取り組んだのは、福島第一原発周辺から避難してきた方々をひとりでも多く受け入れるための「住宅支援」でした。

空き家を「地域コミュニティ」の交差点に(『太陽のまちから』2014年6月17日

私が「空き家活用」に着目したのは3年前。震災・津波の被災者・原発事故の避難者をひとりでも多く受け入れたいと試行錯誤していた時に、「私の家の離れを使ってもらえないでしょうか」と、区民からの申し出を受けたのがきっかけでした。

貸家や貸部屋を被災者・避難者に安く提供する「居ながらボランティア」を呼びかけたところ、100件を超える反響がありました。この時、不動産物件を持っている人たちの中にも、公共的公益的な用途に役立てたいと思っている人が少なくないことを知りました。

そして、一時は400人を超える避難者の方々が、世田谷区内の公共住宅や民間賃貸アパートに「みなし仮設住宅」として入居しました。そのほとんどが、原発事故を理由に故郷を離れた福島県の各自治体の方々でした。現在は260人まで減少していますが、これまでに何度か、区内在住の避難者の皆さんを対象にして、「激励と交流の集い」を開催しています。

次に、こうして区内に集まった避難者の支援にあたっていた世田谷区の女性たちが中心となって、春休みを使って福島県在住の子どもたちを世田谷区内に一時受け入れたいという企画が持ち上がりました。最初は数人の呼びかけでしたが、すぐに反響の輪が広がり、やがて大型バスで福島の親子を迎えるプロジェクトが始まりました。

「原発再稼働、大人が学ぶ姿を子どもに見せたい」(『太陽のまちから』2015年8月25日

「ふくしまっ子リフレッシュin世田谷」という企画が生まれ、「福島の子どもたちとともに 世田谷の会」が誕生し、世田谷区と世田谷区教育委員会も共催することになりました。世田谷区社会福祉協議会、世田谷ボランティア協会も共催しています。

1回目は2012年の春休みでした。親子60人を往復のバスで送迎し、区立の宿泊施設を利用して、内外のプログラムを組みます。それから、2015年の夏までに11回が実施され、参加者の総計は800人を超えています。運営に携わるのは約30人の区民で、毎回多くの学生ボランティアも参加し、総勢100名前後で迎えています。4〜5日という短い期間ではあるけれど、「冒険遊び場 プレーパーク訪問」等のプログラムを楽しみ、また膝をまじえて「2011年3月」をふりかえる機会もあります。

こうした事業を推進しているのは、区民のボランティアであり、継続しているのも熱意です。

今年の春休みも、第13回となる「ふくしまっ子リフレッシュin世田谷」が開催され福島から親子がバスでやってきます。桜の花を見ながら、福島で過ごした5年間の思いに耳を傾けようと思っています。

世田谷区としての取り組みは、被災当時の義援金に続く東日本大震災復興支援金の募金と職員派遣の継続です。東日本大震災復興支援金は、2011年6月に口座を開設し、区と交流関係のある被災自治体を中心にして、幅広く自治体に直接お渡ししていくという趣旨で始まり、募金総額はこの間で、1億2485万2843円(2016年2月12日現在)となっています。

被災地への世田谷区職員派遣も2011年に総勢200名を超える職員を20人ずつのグループに分けて宮城県南三陸町に派遣したことをきっかけに、2012年から継続して同町、2013年から気仙沼市に継続して派遣しています。現在は4名ずつ、計8名が被災地での仕事にあたっています。

被災地にとって「5年の節目」は、何の決着でも解決でもないという事実を受けとめ、長期にわたる支援を継続していきたいと考えています。

【追記 2016/03/10】

「3・11」が近づくにつれて、「原発再稼働」をめぐる大きな司法判断が出てきました。ここに追記することにします。関西電力は高浜原発3号機の再稼働を始めていましたが、3月9日の大津地裁の「運転差し止め仮処分」の決定によって運転停止を余儀なくされます。稼働中の原発を止めるという司法判断は初めてであり、福島第一原発事故という過酷事故を経験した日本で表面化している「再稼働ありき」「老朽原発も再稼働」に向けた流れに真正面から問題提起したものだと受けとめます。

高浜原発、「運転差し止め仮処分」の重い意味

裁判所が安全対策と避難計画を再び問題視

関西電力の高浜原発3、4号機の運転差し止めを求める仮処分申し立てで、大津地方裁判所は3月9日、原発から70キロメートル以内に住む滋賀県の住民の主張を認める決定を出した。

電気系統のトラブルが原因で2月26日の再稼働から3日後に緊急停止した4号機に続いて、関電は裁判所の決定を踏まえて3号機の運転停止にも追い込まれることになった。関電では10日午前10時ごろに3号機の停止作業を開始し、午後8時ごろに停止する予定だとしている。(「週刊東洋経済オンライン」2016年3月10日)

大津地裁での仮処分の運転中止は、福島第一原発事故の真相究明が進んでおらず、「発電」という受益と「甚大な災禍」というリスクを引き替えにするべきでないと指摘しています。政府が「世界一厳しい安全基準」と言い張っても、地球環境の激変や想定外の自然災害が頻発する中で、地震や津波、重大事故での避難経路等についての関西電力の説明に納得しがたいとしています。

<震災5年>原発の「解禁」 福島の原点に立ち戻れ

山本善彦裁判長が重視したのは、東京電力福島第1原発事故を踏まえた過酷事故対策の不十分さだ。「設計思想や外部電源に依拠する緊急時対応、耐震基準策定の問題点がある」と指摘し、津波対策や避難計画にも疑問が残ると断じた。

3、4号機の事故対策が原子力規制委員会の審査に「合格」していることを考えれば、政府が「世界一厳しい」と強調する新規制基準に疑問を呈したとも映る。避難計画の実効性を含めて全国の多くの原発に当てはまる可能性があり、原発回帰の動きに対する司法の警鐘だと肝に銘じるべきだ。政府は原発に依存しない社会へと、速やかにかじを切らねばならない。 (岩手日報論説・2016年3月10日)

私たちは、この5年間をどのように過ごしてきたのでしょうか。「原発再稼働は当然だ」という風潮に対して、福島第一原発事故を教訓化し、原発依存に見切りをつける道をひらく5年目の「3・11」を迎えたいと強く思います。

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