「過密都市・東京での孤独」を超える「暮らしやすさの都市戦略」を

「孤独死ゼロ」をめざすには、コミュニティの外側にいる人たちを、工夫しながら地域的に包摂し、「暮らしやすさ」を向上させる知恵のある取り組みが必要だと考えています。
Shinjuku subcenter. View from the Tokyo Metropolitan Government Building observation room.
Shinjuku subcenter. View from the Tokyo Metropolitan Government Building observation room.
fpdress via Getty Images

「都市の価値」とは何だろうかと考えてみます。「経済活動の拠点」だったり、「情報の集積」をあげる人も、「文化・芸術の発信」を重視する人もいるでしょう。私は、「暮らしやすさ」をあげたいと思います。

2015年11月に、アメリカのオレゴン州ポートランドに出向いて、人々が穏やかな表情で街歩きを楽しみ、知らない人同士で平気で声をかけあうような潤いをもったふるまいを見て、いくつもの発見をし、その思いを強くしました。今や日本でも人気のポートランドですが、約半世紀かけてつくられてきた「暮らしやすさ」は、自然にまかせていたのではなく、約半世紀にわたり継続した市民の「まちづくりの意志」の帰結でした。

ポートランドという魅力、「暮らしやすさ」の都市戦略

1970年代のポートランドでは、年間180日もの大気汚染勧告があり、ウィラメット川も全米で最も汚い川と呼ばれた時期がありました。「車優先社会」からの転換をはかるポートランドが目指したのは「徒歩20分の生活圏」をつくりあげることでした。

東京都知事選挙が行なわれています。「待機児童・高齢社会政策」「災害対策」「オリンピック」が三大課題だとメディアの論調は横並びです。どれも、重要な課題であることは間違いありません。ただ、1360万人の東京をつくっているのは、ひとりひとりの都民です。ひとりひとりの生活現場に立脚した、都庁から見た「行政課題」とは別の視点が大切です。

地下鉄の中でふたりの赤ちゃんと、荷物を背負った若いお母さんが立っているのを見て、中年の母と10代の娘さんふたりが席を譲っていました。ふたりの子を連れた若いお母さんは、最初は遠慮し、何度も礼を言いながら座席に座りました。何気ない日常の一コマですが、心が温かくなりました。

7、8年前の私の失敗ですが、満員電車を降りる時にぼんやりしていて、預金通帳から財布、日程を記した手帳等が入った、無くしてはならない鞄を網棚に置き忘れ、あわてて「忘れ物窓口」に駆け込んだことがありました。急行列車が停車するたびに駅員さんが見に行ってくれるのですが、見つからない。あきらめて帰宅した後に「忘れ物係」から携帯電話に着信がありました。小田急線急行の終点の小田原駅で、お客さんが網棚に残った鞄を改札まで持ってきてくれたそうです。

人々が交通機関の中で助け合い、忘れ物を見れば、忘れた人が困っているだろうと、届ける都市...。これは、十分に「暮らしやすさ」につながります。私も、カードの入った分厚い財布をレストランの床で見つけて店に届けたことがあります。読者の皆さんも、忘れたことも、届けたことも、思い当たる体験のひとつやふたつはあるのではないでしょうか。私には、40年ほど前だったでしょうか。大切な鞄を駅に置き忘れて、ついに出てこなかった失敗もあります。東京でも、「置き引き」がないわけではありません。ただ、殺人・強盗等の重大犯罪や空き巣や盗難等の発生件数は、過去最低を更新しているのが現在の東京です。

「住んでよし、訪れてよし」という言葉があります。観光産業の最先端を歩いてきた方が、これまでのツーリズムへの自戒をこめて、私たちに語りかけてくれた言葉です。

日本の各地方都市では、観光客を誘致するために建設した大型観光施設で地元物産市を開催していますが、そこはあまり人気がなく、「もう一度行きたい」というリピーターはいないそうです。そこに連れてこられた観光客は、ガイドさんに「地元の人が行くマーケットに行きたい」と言うそうです。地元のマーケットは古くて狭いけれど、活気があります。住民と店の人が顔見知りで会話がはずんでいます。

観光客は、地元に住んでいる人たちの「笑顔やふるまい、暮らしの匂い」を満喫しながら、そのひとときを楽しむのだそうです。なるほどなぁ、と思いました。江戸以来の歴史を持つ東京のあちこちに、お店の人と買い物客が声をかけあう商店街やマーケットは散在しています。そんなお店で会話を楽しむことが出来れば、旅も充実します。ポートランドの魅力を引き合いに出すまでもなく、街角コミュニケーションは、都市の「暮らしやすさ」の指標となります。

一方で、東京以外の地方では、どこも駅前商店街が客足の減少に悩んでいます。中には、郊外に出来た大型ショッピングモールに車で吸い込まれて数時間を過ごすというライフスタイルによって、人々の消費行動がすっかり変わってしまったところもあります。バキュームのように人々の消費を吸い続けたショッピングモールは、ネット通販に押されて収益率が伸びずに、ところによっては本部の判断で突然、「撤退」します。いきなり、住民たちは取り残されます。昔からあった商店街には人影は少なく、車で相当走って隣町に行かなければならなくなります。

高度経済成長期に宅地化が進んだ東京では、都心部には大きな空地がなかったことから、大型ショッピングモールはそれほど多くはありません。その分、地域を網の目のようにつなぐ商店街が残っています。今日も、ここで「会話」があります。地域の顔なじみ同士の「立ち話」もあります。江戸時代の情報交換は「井戸端会議」だったと言います。住民同士の相互理解があれば、「困った時はお互いさま」という相互扶助の基盤も強くなります。

一方、東京のどこでも、スーパーマーケットは日常の買い物を支えています。さらに、数多くのコンビニエンスストアは住民の生活圏で、長時間にわたって営業しています。場所によっては、東京でも商店街から客足が遠のき、人影がまばらになっているところも少なくありません。たしかに買い物に便利で気楽ですが、「会話」も「情報交換」もありません。近所の人とばったり会って、挨拶するぐらいでしょうか。そうすると、人によっては誰とも話をしないで暮らしている人たちが相当の人数となってきています。私は、「ひとり暮らしの男性の孤立」に注目しています。

沈黙のまま暮らす 65歳以上男性の6人に1人

国立社会保障・人口問題研究所の「生活と支えあいに関する調査」(2013年7月)で、65歳以上の一人暮らしの人の回答を見て、驚きました。日常生活の中で「電話も含むふだんのあいさつ程度の会話の頻度」が「2週間に1回以下」と回答したのは、男性で16.7%でした。

歩いていて「こんにちは」、店先で「これ、いいね」、電話で「もしもし、元気ですか」程度も「会話」に含むということですから、私はこの調査結果は深刻だと思います。長年、働いてきて高齢となり、家族ともゆえあって離れ、ひとり暮らしをする男性は少なくありません。時には、ご近所同士で気軽に食事をして雑談を交わすような「コミュニティ・カフェ」や「地域食堂」のような場が必要だなと考えるきっかけになりました。会話がなければ、笑うことも少なくなり、表情もあまり動かなくなります。

「俺はひとりがいい。挨拶なんか面倒だし、誰とも話さないのも気楽でいいよ」と考える人もいて、よくわかります。「余計なおせっかいは不要だ」という話になりますが、人間はいつまでも健康で強くはありません。ある日、体調を壊すこともあれば、元気だった人がふさぎこんでしまうこともあります。一緒に食卓を囲んでいれば、「どうしたの?顔色悪いよ」と気づかう言葉をかけられて、「最近、身体の調子が悪くて」と本音を言えるかもしれません。地域で親切に診てくれるクリニックについての情報交換をして、大事に至らない前に治療を始める...。これも「暮らしやすさ」じゃないかと思います。7月初旬の次のニュースには、衝撃を受けました。

高齢者の孤独死 東京23区で初の3000人越え (テレビ朝日、2015年7月8日)

東京23区で孤独死した65歳以上の高齢者の数が去年、初めて3000人を超え、統計を取り始めた13年前の2倍以上に増えたことが分かりました。

東京都監察医務院によりますと、去年、23区内で誰にもみとられずに自宅で死亡した一人暮らしの65歳以上の人は、前の年よりも約230人多い3116人でした。3000人を超えたのは初めてで、毎年、統計を取り始めた2003年の2.1倍です。男性は1973人、女性は1143人でした。

東京23区で毎年、数百人どころか、3000人もの人が誰にも気づかれずに亡くなっているという事実に言葉を失います。家族と離れ、都会のひとり暮らしが長くて、近隣や地域の関係も薄く、亡くなっていることにも気づかれないような負の部分を持っていることも直視しなくてはなりません。「孤独死ゼロ」をめざすには、コミュニティの外側にいる人たちを、工夫しながら地域的に包摂し、「暮らしやすさ」を向上させる知恵のある取り組みが必要だと考えています。

福祉の重要な資源として「公共住宅」があります。日本の福祉は、現金給付が柱となっていて、「住宅支援」があまり語られてこなかったのではないかと思います。少し前、NHKスペシャルで放送された「老人漂流社会」は、身につまされる内容でした。

NHKスペシャル | 老人漂流社会団塊世代 しのび寄る"老後破産" NHKスペシャルの番組公式サイトです。

シリーズ「老人漂流社会」では、年金収入だけでは暮らしていけない"老後破産"の実態が、独居高齢者だけでなく、親子が共倒れする事態にも広がっていることを伝えてきた。取材を進めると、日本の屋台骨を支えてきた「団塊世代」にも、そのリスクが忍び寄っていることが明らかになってきた。

東京でも、「格差と貧困」が進行しています。新自由主義が席巻し、企業の収益の向上こそが都市の発展だとばかりに、労働市場の規制緩和が進んで非正規労働者の所得水準は急激に下がりました。とりわけ、国民年金だけで東京で生活するのは至難の技で、ひとり暮らし高齢者の多くが、身体が動く限り就労しています。それでも、番組が描くように、失業した子が親元に帰ってきたり、また介護により働くことができなくなって、生計は危機的な状態になります。

団塊の世代が75歳になるのが2025年です。あと9年で、巨大都市で政策効果を出すには、もうぎりぎりの時間しか残されていません。何もしなければ、唯一のセーフティネットである生活保護受給がさらに増大し、各自治体財政が悲鳴をあげて受給要件の制限をはじめ、23区の「孤立死」は3000人どころでなくなるかもしれません。

「生存のインフラ」として重要なのは、住宅です。東京の場合は、生活費の中で、賃貸住宅を借りている場合に家賃が高く、所得の相当部分を費やさなければならない「暮らしにくい」現実があります。良質で低廉な家賃の「公共住宅」を供給することで、唯一のセーフティネットである生活保護を受けなくても、年金で暮らしていける社会を構築することも、大事なテーマです。

都市戦略とは、経済的にゆとりもあり、家族と共に幸せだという人たちの生活基盤をしっかりと支えていくとともに、過密都市の競争と排除のスパイラルが生む遠心力によって苦しい思いをしている人たちにも、しっかり目を向けることです。「生存条件の確保のための高齢者政策」として「公共住宅の供給」を開始していくことは、「暮らしやすさの都市戦略」につながるのではないでしょうか。

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