『背信の科学者たち』にみるデジャブ

科学の世界にいれば誰もがその名前を知っている上記の偉大な科学者が、すべてなんらかの「研究不正」、あるいは不正と言わないまでも、科学者としての倫理規範に抵触していた、という事実は、案外知られてはいません。

紀元2世紀:プトレマイオス(天文学)

17世紀初期:ガリレオ(物理学)

17〜18世紀:ニュートン(近代物理学)

18世紀:ベルヌーイ(数学)

19世紀:ドルトン(化学)、メンデル(遺伝学)、ダーウィン(進化学)

20世紀:バート(心理学)、野口英世(細菌学)

科学の世界にいれば誰もがその名前を知っている上記の偉大な科学者が、すべてなんらかの「研究不正」、あるいは不正と言わないまでも、科学者としての倫理規範に抵触していた、という事実は、案外知られてはいません。いわば、研究不正は科学の歴史とともに、どんな分野においても存在したと言えるのですが、その数が増えてきたのは、明らかに科学が国家と結びついてからでしょう。

欧州出張の機上でちょうど読み終えた本書『背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?』(講談社)の原著は、1970年代からの米国における論文不正事件の多発を背景として1982年に発行され、その和訳の初版本は化学同人社から1988年に出帆されました。日本でもいくつかの科学不正事件が生じたことを背景に2006年に講談社からブルーバックスとして再出版されたものの、絶版になっていたのですが、(幸い)STAP細胞事件がきっかけでこの6月に再刊になりました。電子書籍としても読めます。原著者はウィリアム・ブロードと、ニコラス・ウェイド。どちらもプロの科学ライターで、Science、Natureなどの科学記者として、さらにはNew York Timesなどの新聞でミスコンダクト報道に関わってきた方です。科学史や科学技術論にも詳しく、本書はそういう分野の資料としても役立ちます。訳者である牧野賢治氏は、初版発行時には毎日新聞の科学記者をされており、その後、1980年代末から2009年まで東京理科大学で科学地術社会論を教えられたとのこと。

本書「まえがき」には次のようにあります。

これまでの伝統的な科学観によれば、科学とは精密な論理のプロセスであり、客観性こそ科学研究に対する基本的な態度である。科学における主張は、綿密な検証と追試(再実験)によって厳格にチェックされる。こうした自己検証的な科学のシステムによって、あらゆる種類の誤りはすみやかに容赦なく排除される。

筆者らは、このような伝統的な科学の性質に対する見解に疑問を持ち「科学が現実にどのように機能しているかを探求」すべく本書を著したと言います。その結果わかったことは、大多数の論文は誰に顧みられることもなく、追試も検証も為されないこと、科学者自身が他の科学者の不正に気づいたとしても、それを質さないこと、科学者もその社会の権威に弱いことなど、上記のような科学者が信じている「自己検証的な科学のシステム」は、実際にはうまく働いていないということでした。

本書では、1981年に米国下院科学技術委員会における証人喚問の場面から始まります。調査小委員会の議長はアルバート・ゴア・ジュニア、証人として召喚されたのは米国アカデミー会長のフィリップ・ヘンドラーその他の科学者。取り上げられていた問題は、ハーバード大学やエール大学という一流の研究機関で生じた研究不正についてでした。その場において、証人である科学者たちが「科学には自己検証機能がある」ことを繰り返したことが、議員たちの不満を募らせたと本書には記されています。「...データの捏造者の比率がいかに小さいものであっても、事件が二〜三ヶ月に一件表面化するだけでも、科学に対する信頼は深刻に損なわれてしまう」のに。

冒頭のプトレマイオスを始め、本書では多数の研究不正エピソードが取り上げられていますが、中でも私が注目したのは「第3章 立身出世主義者の出現」で取り上げられた「アルサブティ事件」です(以下、ネタバレですので注意)。

イラク出身のエリアス・A・K・アルサブティは、17歳でバスラ医科大学に入学し、「ある種のがんの検出に有効な検査法を開発した」ことを政府に伝え、政府はよく調べもせずにアルサブティをバグダット医科大学の5年次に入学させて研究資金を与え研究施設を作らせた。がんの検査法開発は実際には芳しい成果とはならず、代わりに労働者のがん検診を行って金を稼いだ。社会主義国家においてこのような金稼ぎが問題となったときには、すでにアルサブティは国外逃亡。ヨルダンのハッサン皇太子に近づき、フセイン国王医学センターでの研究を認めさせた。さらにヨルダン政府に依頼して米国派遣。アルサブティが参画したのはテンプル大学の微生物学者ハーマン・フリードマンの研究室だった。まずは無給のボランティアとして仕事が与えられ、大学院課程で学んだ。この間にも新しい白血病のワクチンに関する捏造論文を書いていたが、ともあれ学位取得が繰り返し失敗であったために、テンプル大学は去らなければならず、次にジェファーソン医科大学のE・フレドリック・ウィーロックのもとに移った。ウィーロックはアルサブティを「ヨルダン王族の若くして才気にあふれる学生」であると信じこみ、ラボメンバーに加えた。その1万ドルの資金援助はヨルダン当局から為された。この間に、博士号を取得していないにも関わらず虚偽の身分を騙ったりしたが、ラボ内でのデータ捏造が同僚から告発され、ウィーロックはアルサブティを解雇する。ラボを去る際に研究費申請書と論文原稿を持ち出し、それらを用いて盗用の論文を「チェコスロバキアの雑誌」に発表するも、ウィーロック研のめざとい学生に発見される。その頃、アルサブティはテキサスのM・D・アンダーソン病院に異動していたが、これも、病院トップとかけあって「ヨルダン国軍の軍医総監」の紹介状を見せて、まんまとポジションを得たもの。この時代にアルサブティは論文を盗用により量産し、「無名の雑誌」(日本のものも3つあり)に送りつけて掲載を勝ち取っている。自身の所属先をヨルダン王立科学協会やイラクの私設研究室にすることにより同僚の目にふれさせず、投稿先が人目につかない雑誌であったために、盗用された方の著者もまったくわからずに論文不正の発覚には時間がかかった。アルサブティが24歳の時点で履歴書には43編の論文がリストされており、虚偽のPhDも書かれていた。アルサブティはその後も捏造論文を量産し(2年で20本程度のペース)、アメリカ・カリブ大学での学位を取得し、バージニア大学での医学研修プログラムに採用されたが、不正は最終的には発覚する。1980年には自分の論文を盗用された原著者たちが騒ぎ出し、『サイエンス』誌にも事件が掲載されたのである。

論文がインターネットで検索できる現代であれば、アルサブティの不正はもっと早くわかったのではないかと思いますが、この事件にしろ他のものにしろ、「不正は繰り返される」「より助長され悪質になる」という原則が見て取れます。それにしても、次々と所属先を変える際に、採用者がアルサブティの経歴をきちんとチェックしなかったことは、数年にわたって彼が捏造論文を量産できることにつながり、多くの科学者が自分の論文を盗まれることになったのではないでしょうか。

科学者の営みは、突き詰めれば真理を探求することですが、もちろんそのことに伴う「名誉」も大きなモチベーションになることは、他の職業となんら変わらないでしょう。程度の差こそあれ、名誉欲は誰にでもありえるもので、それは小さな子どもが親から褒められたいという気持ちの延長にあるものです。

現代の科学者が不正の誘惑にかられる背景には、「名誉」に加えて「職を得る」ことや「研究費を獲得する」も加わります。原著の書かれた1982年という時代背景には、冷戦終結とともに、米国の国家予算配分が軍事から科学研究に大きくシフトしたことがあります。巨額の資金が科学分野、とくに生命科学分野に流れ込みました。その結果、研究人口が増加し、研究者間の競争が厳しくなったことが研究不正の通奏低音として響いています。日本では当時はまだ対岸の火事だったのですが、1996年に制定された「科学技術基本法」以降、科学と産業の結びつきが強くなり、米国の後を追いかけて研究不正が生じているように感じます。本書で挙げられている研究不正の例は、歴史的な順序は逆なのですが、今、日本で起きているいくつかの重大な事件の既視感があります。

原著の刊行以降も、「ボルチモア事件」など、とくに生命科学・医学領域で多発した研究不正を受けて、1989年に現在の研究公正局(Office of Research Integrity, ORI)の前身であるOffice of Scientific Integrity(OSI)が設立されました。これは米国国立健康研究所(NIH)予算に関わる研究不正を扱いますが、組織的にはNIHから独立しています。また、1990年代半ばからは大学等の研究機関における研究不正の処理手続きが整備されてきました。ORIは、起きてしまった不正への対応だけでなく、その予防としての教育にも力を入れています。先般、ORIのトップが辞任するという報道が為されたところですので、「日本版」ORIを設立するのであれば、現状に則した実行性のあるものでなければならないでしょう。

(2014年6月30日「大隅典子の仙台通信」より転載)

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