なぜフランス女性は「ハラスメントの自由」を擁護できるのか?

ラカン派精神分析の社会的効果
Gamma-Rapho via Getty Images

「わたしたちは、ハラスメントの自由を擁護する ‒ 性の自由に不可欠だから」(Nous défendons une liberté d'importuner, indispensable à la liberté sexuelle) と題された公開書簡が、今月9日付の Le Monde 紙に掲載された。

その内容は、有力映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスティーンによる女優たちに対するハラスメントと性的利用が昨年10月に暴露されたことに端を発したセクハラと性暴力を告発する社会運動 #MeToo に対する批判である。

冒頭部分を読んでみよう。

「強姦は犯罪だ。しかし、ナンパは、しつこくても、不器用でも、犯罪ではなく、男が熱心に女性の気を引こうとすることも、男尊女卑的暴力ではない。

「ワインスティーン事件に続いて、特に男が権力を濫用する専門職の領域において女性に対して為されてきた性暴力を正当に意識化する運動が起きた。それは必然的なことだった。しかし、その言論の解放は、今や、その逆のものに転化しつつある:わたしたちは、しかるべく語り、まずいことは黙っているよう言い渡され、そのような命令に従うことを拒否する女たちは、女に対する裏切り者、男の共犯者と見なされてしまうのだ!

「永遠の犠牲者、ファロス権力者 (phallocrate) という悪魔の支配のもとにある憐れな小物 ‒ かつて魔術が信ぜられていた時代のように ‒、そのような地位に女性たちをよりうまく拘束しておくために、万人の善の口実のもとに、女性の保護と解放を主張する議論を借用する。それは、清教徒主義のやり口だ。」

この公開書簡は、セクハラや性暴力を容認したり正当化するために男たちが書いたのではない。作成者5人と、署名者として名を連ねた105人、計110人は、全員、フランス人女性である。その職業は、作家、ジャーナリスト、評論家、医師、教師、哲学者、精神分析家、俳優、芸術家、音楽家、セックスワーカーなど、多種多様である。カトリーヌ・ドヌーヴはそれら署名者のひとりにすぎない。

彼女たちは、性差別や性暴力の問題について無知であったり、反フェミニストであったりするわけでは全然なく、むしろその逆である。だが、「ハラスメントの自由を擁護する」という主張は、#MeToo 支持のフェミニストたちからの猛烈な反発を引き起こした ‒ 反フェミニズムだ、男尊女卑の内面化だ、セクハラや性暴力がどれほど女性を傷つけているかを過小評価している、等々。

当然だろう。では、あの110人はどうして「ハラスメントの自由」を擁護できるのか?答えの鍵は、ラカン派精神分析である。

フランス現代思想の立役者のひとりとして有名な精神分析家ジャック・ラカン (1901-1981) は、単なる「思想家」ではない。彼は、精神分析の実践を確固たる精神的資産としてフランス社会に与えた。

あの110人は、精神分析家である人々を除けば、皆がラカン派精神分析をみずから経験しているわけではないだろうが、明らかにその精神的洗礼を多かれ少なかれ受けている。

フランス人女性に対する精神分析の社会的効果 ‒ ラカン派精神分析家として、わたしはそれをあの書簡に読み取る。

単に、精神分析に準拠せずに「性」について語ることはもはやできない、というだけのことではない。

性差別と性暴力に関する英語圏フェミニストたちのもっぱら社会学的な議論に決定的に欠けているのは、それらの問題にかかわる欲望と幻想と悦 (jouissance) を問うラカン的視点である。

「性」は外傷的である。トラウマ(心的外傷)を与える。欲望との不運な出会いのせいで。

フロィトが無意識として発見した人間存在の内奥の裂口 ‒ それが、欲望の本質である。

欲望の穴は、不安や嫌悪を引き起こす。それをなんとかごまかし、覆い隠さねばならない。

見たくないものには蓋をしてしまおう。英語圏や日本の性道徳は、そうする。今や「良識」が要請する「政治的に正しい」(politically correct) 表現への言い換えも、ごまかしの一手段にほかならない。

だが、そのようなことは、ラカン派精神分析の洗礼を受けた彼女たちにはもはや無用である。

不安や嫌悪に耐えつつ、欲望の裂口を直視し、それを引き受け、さらに、欲望の不安から昇華の悦へ至ろうとする勇気を、ラカンは彼女たちに教える。そのような勇気をあらゆる女性が持つことが望ましい、と彼女たちは考える。

「精神分析」も「ラカン」も出てこないあの公開書簡のどこに、その影響がうかがえるのか?

その冒頭で見た「ファロス」(phallus) は、精神分析が一般語彙のなかに導入した語である。phallocratie(ファロス支配)や phallocentrisme(ファロス中心主義)などのフェミニズム用語も、精神分析の影響下で作られた。

「今日、わたしたちは、性本能 (pulsion sexuelle) は本質的に不快にさせるものであり、飼いならされ得ないということを認めることができるほどに、十分に教えられている」という文の pulsion という語も、精神分析用語である。

「十分に教えられている」と言うとき、それは勿論「精神分析によって」である。さらに、この文には「性本能は本質的に攻撃的かつ破壊的な死の本能であり、それを制御することも無効にすることも不可能である」とラカンの強調したことが、含意されている。

フェミニスト社会学者たちを特にいらだたせる文のひとつは、これだろう。

「人間存在は一枚岩ではない:ひとりの女は、同じ日のなかで、[昼間は]仕事のチームを指揮し、かつ、[夜は]男の性欲対象 [ objet sexuel ] であることを悦する [ jouir ] ことができる ‒『売女』でも家父長制の卑しい共犯でもあることなく」。

この「悦する」(jouir) という動詞は、名詞 jouissance(悦)とともに、ラカンが彼独特の用語に仕立て上げた語である。

冒頭で「わたしたちは、しかるべく語り、まずいことは黙っているよう言い渡される」と言われていたが、まさに、「男の性欲対象であることを悦することができる」は、フェミニストたちの多くにとって「言ってはまずい」ことである。

性差別と性暴力を動機づける sexual objectification(性欲対象化:男が女性の身体を単なる性欲満足の手段と見なし、そのように扱うこと)を批判しているのに、それを容認するばかりか、女はそのことを悦していると言うとは、何という裏切りか!そんなことを言えば、「女は性暴力を被ることを実は望んでいるのだ」という男の側のとんでもないカン違いを助長するだけだ!

無論、マゾヒスティッシュな幻想を有していれば現実に性暴力の被害者になってもかまわない、ということには全然ならない。

しかし、ラカンと精神分析を知る彼女たちにとっては、「男の性欲対象であることを悦する」ことと、それを可能にするマゾヒスティッシュな幻想とを、押し隠し、否認し続けている必要は、もはや無い。

精神分析は、このことを可能にする ‒ まずは、羞恥心や罪悪感のせいでみずから認めがたいかもしれない性的な幻想を否認することをやめ、自身に引き受ける。そして、その幻想を動機づける欲望の裂口を、不安と嫌悪に耐えつつ、直視する。

そのような精神分析の作業を通して、初めて、性欲対象であることを条件づけていた幻想は廃され、欲望の昇華が可能になる。そして、昇華が達成されたとき、欲望の裂口が外傷的に作用することは、もはやなくなっている。

「わたしたちは、欲望の犠牲者のままであり続けないことができる。ラカンと彼の精神分析が、その可能性をわたしたちに示してくれたのだから」。

だからこそ彼女たちは、「芸術的創造には、不快にさせることの自由は不可欠だ」という命題にならって、「性の自由のためには、ハラスメントの自由は不可欠だ」と主張することができるのだ。

2017年3月25日,ラカンの墓にて
2017年3月25日,ラカンの墓にて
Shinya Ogasawara

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