萱野稔人、與那覇潤らの考える「暴走するナショナリズムを抑えるための処方箋」

1998年、『戦争論』で大ブームを巻き起こした "小林よしのり" は、2014年現在の「ナショナリズム」や「ネトウヨ」をどう見ているのか? そして、ヘイトスピーチや集団的自衛権、憲法改正など山積する問題をどうするか、気鋭の論客たちと徹底討論!パネリストには、2000年代半ば以降「ナショナリズム」を理論的に分析してきた哲学者・萱野稔人、『中国化する日本』でまったく新しい東アジア像を描いた歴史学者・與那覇潤、草の根のナショナリズム運動の現場を歩き、「ネトウヨ」的心性の広がりを見てきたフリーライター・朴順梨を迎え、それぞれの角度から現代日本の「ナショナリズム」を語った。

※この記事はKindle版『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』の内容の一部を、見出しを変え転載したものです。

與那覇 今の日本の歴史感覚がなくなっている状態は、宇野さんが『ゼロ年代の想像力』以来よく使われる、「物語からゲームへ」という構図の表れでもあると思うんです。「歴史認識という物語を語って、国民全体の意識をまとめて行こう」というのが90年代までの「物語の時代」であり、もはやそれが機能しない時代が「ゲームの時代」なんだ、ということですね。だから、すべてが「ああ言われたらこう言い返せ」ゲームになってしまうと。

一方で、自分たちの過去を他者化するならするで、「われわれはある時期までのわが国の歴史とは、きっぱり縁を切りました」と語る――いわば、もはや物語的に切断されました、という「物語」を創造する路線もあるはずなんです。成功したと言われるのは戦後の(西)ドイツで、要するに私たちは戦前のナチス・ドイツとは、根本的に違う国を作ったんだと。だから戦前の自国について厳しく批判したり謝罪することと、戦後に新しく築き上げてきた現在の国家を愛することとは矛盾しないと。しかしどうにも日本人はそこが下手で、「戦前まで含めて肯定するのが愛国心だ」と(愛国心教育を唱える右も、批判する左も)思い込んでいるから、いつまでも過去と縁が切れないように思うのですが。

萱野 そこに関しては、若干、私と與那覇さんでは認識が違っている気がします。日本は請求権協定を結んで経済協力というかたちで戦後補償はしました。当時の韓国政府(朴正煕政権)もそちらを選んだわけですね。

でもその後になって、それまであまり議論されなかった慰安婦問題が表面化した。法的には賠償は終わっているので、個人に対しては補償できない、だから民間基金でやりましょう、ということになったわけです。ですがそれは韓国政府に拒否されてしまった。そうしたらむしろ「じゃあ、何をすればいいんですか?」という話にならざるをえない。

與那覇 法的な問題としてはぎりぎりまできている、というのは、そうなんだろうと思います。ただ本来、法的にはどうやったって限界に突き当たるからこそ求められるのが、いい意味での政治的なパフォーマンスなわけで、過去の清算に関する何らかの「儀式」で決着させるしかないということだと思うんですよ。よく「ナチスと日本を一緒にするな」と言う人がいるけど、たとえば西ドイツのブラント首相というのは冷戦下でもワルシャワを訪れて、非常に優れた儀式をやったわけでしょう(1970年、ゲットー記念碑の前で跪き祈りを捧げた)。日本の首脳が慰安婦問題に関する施設に行って、態度で「申し訳なかった」という思いを示す、それが国際社会から見たときひとつの終止符になる、そういうあり方を構想できないものでしょうか。

小林 韓国の元慰安婦に直接、手紙を渡したりとか、それに近いことはやっているんだけどね。

萱野 村山基金(=「女性のためのアジア平和国民基金」)のときの手紙は、小渕首相、森首相、小泉首相と、誰かもう一人首相が署名して、渡そうとしているわけですね。しかし、現実には「韓国の慰安婦の施設に行って日本の首相が謝る」というのは不可能です。今の状況でそんなことをやったらむちゃくちゃなことになってしまいます。しかしそれはそれとして、村山基金の当時の手紙の内容を読むと、決していい加減なものではないと思いますけどね。

與那覇 逆にいうとそういうせっかくの積み重ねが、きちんと国際社会に通じていないことが問題なわけですね。儀式のオーディエンスが誰なのかを間違えていて、謝罪の直接の対象である韓国だけを見て「あいつら、全然納得しないじゃないか」と不満を溜めこんでいる。本当は、世界全体を対象にして「日本はここまでちゃんとやってますよ」とアピールしないといけないはずなのに。

萱野 日本側では、「ここまでやったのにずっと批判されている」「なんで批判されなきゃいけないのか」という鬱憤が溜まっている。そういう中で、政治家とかが「いや、強制連行はなかった」とか「あいつらは売春婦だった」ってポロッと言ってしまうわけですよ。それで外国から批判されて、メンツもずたずたに傷つけられ、「本当は日本はもっと誇りある国のはずなのに、そのように言われて面白くない」とネット右翼の人たちは思っているわけですよね。

でも、じゃあ同じ「誇りある日本」ということを言うんだったら、戦後これだけ韓国の復興に協力したということを言うべきじゃないか。たとえば「女性のためのアジア平和国民基金」だって、否定する人もいますけど、なかなか優れた面があるんです。戦後賠償について法的なレベルでは解決しているという立場に政府は立っているんですが、日本政府はその法的立場を超えた措置としてあの基金をつくった。それは国際社会に誇れることなんです。

要は、日本政府の慰安婦問題への対応に関しても、誇れるようなところはあるんですよ。だからむしろ、日本の自尊心を回復したいというのであれば、その部分をアピールしていったらいいんです。

もっと別の論点で言えば、私が「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)の若者と喋ったとき、「日本は敗戦国だからこんなに冷や飯を食わされているんだ」ということを、えんえんと語っていたんですよ。そのとき「ちょっと待ってくれ、でも負けるような戦争をしたのは誰なの? そのことを棚に上げて言ったってだめでしょ」と思ったんですよ。要は、全部人のせいにするかたちで鬱憤を晴らすんじゃなくて、「この不利な状況のなかでどうするか」ということをもっと考えていこう、と発想を転換していく必要があるのではないでしょうか。

小林 『戦争論』のときは、要するに日本全体で、「自分の祖父の世代は全部悪だ」「日本は侵略国家で、加害者で、悪だ」ということになっていた。どちらかというと、日本人の世論の多くは、いわゆる「慰安婦」の側に同情していた。今、泣いている元慰安婦のおばあさんがいたら、そっちが可哀相だって思うからね。

でも、その人たち「だけ」が可哀相なわけじゃないでしょ? 同じ日本人の、自分たちの祖父の世代だって、あの戦争でどれだけの犠牲を払ったか......。そっちに同情させるために『戦争論』を描いたという部分があったわけ。

そういう意味では、今のいわゆる「ネトウヨ」の人々に与えた影響というのは、すごく大きいと思いますね。実際に「私たちのおじいちゃんは悪くない」「日本人は悪くない」「戦争で亡くなった人をもっと尊敬しなきゃいけない」という台詞を、いわゆる「ネトウヨ」の方々からよく聞きます。

與那覇 僕が一番気になっているのは、そこで「同情(感情移入)できる」ということと「悪くない」ということが、完全にイコールになってしまっている事態なんですよ。じゃあ逆に言うと、相手にちょっとでも「悪」の要素があったら、先祖だろうが縁者だろうが君らは一切の感情移入を排して石を投げるわけ?という気持ちになる。

人間、まして歴史的な制約のもとで生きてきた人間には、どうしたって悪を犯さざるを得ない側面があるでしょう。その自覚込みで、かつ相手に感情移入するというルートがやせ細っていくことが、僕には歴史意識の衰退、物語の消滅に見えるんです。

「おじいちゃんはレイプ犯じゃない」ということと、「慰安婦は売春婦だ」と貶めてもいいかというのは、まったく別の話ですよね。私は「日本を愛するということは、他国を貶めることではない」と思うんですけれど、相手を貶めることで自分の側の価値を保とうとしている部分が、すごくある気がします。

與那覇 「1%でも悪があったら認めない、100%の善でなければ」という発想に立ってしまうと、他者に対してはその1%の悪をあげつらって貶め、自分については「一切の悪はない!」という態度になりがちです。従来は戦前を全否定する「戦後左翼の悪弊」と言われてきた部分だと思うんだけど、いまはそれがネトウヨを媒介にして、戦前全肯定・戦後全否定の右翼の方に感染しちゃった。「健全でないナショナリズム」というのは、そういうことだと思いますね。

萱野 さっきも言いましたが、問題は今のネトウヨ的なナショナリズムが、国益の判断すらわからなくなって暴走していることで、「ナショナリズムそのもの」を批判する必要はないんですよ。さらにいえば、ナショナリズムの暴走を抑えられるのは、別のかたちのナショナリズムでしかないんです。「反ナショナリズム」によってナショナリズムの暴走を抑えることはできません。

これは、この20年の歴史を見ても明らかですし、理論的に言っても明らかです。というのも、「反ナショナリズム」に立っている知識人自体が、別の場面では、たとえば秘密保護法でも何でも、安倍政権を批判するときに「国民に情報をちゃんと開示すべきだ」と主張していて、要するに「国民主権」に依拠しているんです。もともと「国民主権」もまた、政治的にはナショナリズムの一つのかたちですね。つまり「反ナショナリズム」の立場の人たちですら、じつは知らず知らずのうちに別のナショナリストになっているわけです。

実際に私は、在特会などの「排外デモ」と呼ばれるものを現場で見てきて、排外デモに対抗している「カウンター」と呼ばれる人たちの何人かに「なんでカウンターをやっているんですか?」聞いたことがあるんです。そうしたら割と多くの人が「私は日本が大好きで、自分が住んでいるこの国に差別主義者はいらないと思う」と答えたんですよ。

要するに右と左の戦いではなくて「自分が理想とする日本」をめぐる衝突になっていたんです。そういう意味では、萱野さんのおっしゃるような「ナショナリズム対ナショナリズム」という側面が、ここにももしかしたらあるのかなと思います。

萱野 やっぱり、「反ナショナリズム」ではなくて、ナショナリズムをもっと別の形で活用することで、ナショナリズムの暴走を抑えなきゃいけないということになるんです。そして、それはおそらく、宇野さんの言うような「物語を組みかえる」という話につながってきます。単なる「反『物語』」ではなくて、「別の物語」をいかに作るか、という話ですね。

宇野 まさに僕は、その二つの「物語」の差異が、小林さんの二つの著作、『戦争論』と『大東亜論』の間にある気がするんですね。つまり『戦争論』は、何度も言っているように、どうしても「情報戦を戦うための本」という側面が強かったと思うんです。

與那覇 ナラティブ(物語)よりもディベート(論争)が前面に出ていたわけですね。

宇野 ディベート的な機能というのが、結果的に、小林さんの意図を超えたところで、読まれ方も含めて前面に出てしまった。『戦争論』は、ある意味では(おじいさんの世代と若者を、といったかたちで)人と人をつないだんだけど、中国や韓国の人とは切断していく物語として機能してしまったところがあるのかもしれない。

それに対して『大東亜論』は、『戦争論』に比べて射程も長いですし、実際に僕が第一巻を読んだ限りでは、排外的なナショナリズムにどうしても収斂してしまう貧しい物語に対して、人々のつなぎ方をもっとポジティブなかたちで提示する物語を目指しているように見えます。

與那覇 理論的にいうと、「ナショナリズム」と言ったときに排除と統合の側面のどちらが強く出るかという問題ですね。自己の範囲から他者を排除して純化してゆくタイプではなく、むしろ広く包摂して共感の範囲を広げていけるようなナショナリズムが日本であり得るのかどうか。そこに、萱野さんがおっしゃる「ナショナリズムでナショナリズムを抑える」戦略の成否もかかっています。

僕は理想としてはその路線にほとんど賛成している半面、でも、本当にここ日本でできるだろうかという懸念がある。要するに戦後日本というのは、「反ナショナリズムが自由主義の代わりをしないといけない構造」だったから。左翼が反ナショナリズムを掲げるというのが本来ヘンだったということはわかります、再分配を強化するにはナショナリズムが必要なのだから。しかし55年体制という「何回選挙やっても自民党に勝てるわけがないムリゲー」のなかで、政治的な立場や言論の多様性というものを守っていくためには、左の側が極論に寄っていかざるを得ない部分があったのかなとも思います。

要するに自民党の最右派には、戦後的な価値観=自由と民主主義自体に否定的な戦前回帰勢力が、構造的に入ってしまっている。彼らを下野させることがほとんど不可能な状況で、それでも事実上の自由民主主義を機能させるためには、野党の側もまた正反対の極端=「自民党とは全部逆」に寄ることで、総体としての多様性を確保せざるをえなかった。たとえるなら超強力な酸とアルカリを両方混ぜているからほどほど中性になっていましたというのが戦後日本なので、それを「最初から中性水」=健全なナショナリズムの状態に持っていくのはかなりむずかしい。

萱野 今まで、いわゆる「左派」は、たとえば福祉を充実させろと言っても、そのために増税が必要だとは絶対に言わなかったですよね。それを言わないで済んだのは、増税を唱えなくても税収が上がっていた時代だったからですよ。たまたま幸福な時代だったから、言うべきことを言わなくて済んだという話にすぎないわけですね。

それは左翼の姿勢全般にも言えることで、ナショナリズムを唱える勢力に対して「あいつらは戦前に回帰しようとしている悪い奴らだ」と批判していれば、それでなんとなく論の形がついた時代がこれまで続いていました。でも今のように中国や韓国が日本批判を先鋭化させている状況が大衆レベルでも共有されていると、そういう議論がまったく認められなくなった。やはり、ナショナリズムを批判するリベラルな人たちの文法そのものを変えないといけないと思います。

まだまだ白熱する議論の続きはぜひ、Kindle版『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』で!

(萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛)

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