現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回:「映像の世紀から、魔法の世紀へ」

僕はコンピュータ研究者とメディア芸術家の、二足のわらじを履いて生きています。人とコンピュータとの関わりをどうやって変えていくかを日々研究しながらも、かたや文化の面からもどのような表現が可能になっていくかを日夜探求しています。

落合陽一(おちあい・よういち)

■ 前書き――技術でも芸術でもなく

おはようございます、落合陽一です。

僕はコンピュータ研究者とメディア芸術家の、二足のわらじを履いて生きています。人とコンピュータとの関わりをどうやって変えていくかを日々研究しながらも、かたや文化の面からもどのような表現が可能になっていくかを日夜探求しています。コンピュータという知的装置の前で人間はどう関わるのか、そして、それを取り入れてどう生きるべきなのかを、モノを作りながら考え続けて今の年齢になりました。

宇野さんから連載のお話をもらったとき、連載のテーマについてすごく悩みました。コンピュータやテクノロジーの話なのか、これからの文化の話なのか、それとも僕自身の興味ある未来世界のシナリオなのか――。

それは、僕という人間が語るための基軸はどこにあるのかという問題についての悩みでもありました。単に自分の関わるプロジェクトを説明するだけなら、その文脈はいくつも持ち合わせているので困りません。しかし、自分自身について語るときには、やや困難があります。なぜなら僕は、コンピュータ技術と芸術の間で生きている人間で、自分のやっていることを人に説明するとき、自分のモチベーションや意義を、技術と芸術を俯瞰するある種のモノ作りの思想のようなメタの視点から語らないと、なかなか他人に理解されないし、伝わらないからです。

だから、僕の視点から見える世界を語るには、アートでもテクノロジーでもない何か象徴的な言葉が必要だなと常々思っていました。それも、二つの領域を行き来するようなものではなく、そのどちらとも異質で俯瞰的な言葉です。技術でも芸術でもない言葉であり、しかもある種包括的で、世代のキーワードになるような言葉でなくてはならない。そう考えたとき、宇野さんとの対談で出て来た、「魔法の世紀」という言葉が一番しっくりくることに気がついたのでした。

【参考】

20世紀は「映像の世紀」でした。文化の面でも、社会の面でも、テクノロジーの面でも、そうです。

映像技術は、20世紀初頭にアニメーションテクノロジーを発端として生まれました。芸術と技術の両面で世界を変えてきた「映像文化」は、アートとテクノロジーこそが文化を織りなすという観点では、まさにその典型です。その発展は、まさにいくつもの領域にまたがり、映画産業を作り出し、テレビジョンはマスメディアの概念を拡大させ、コンピュータ領域も取り込み、映像をインタラクティブ技術に変えました。

そして、フィルム技術、映写技術、通信技術という分野横断的なテクノロジーの進歩と、それに伴う様々な作家の表現。映像技術は時代のコンテクストとともに発展していったのです。

『映像の世紀』という同名のNHKのドキュメンタリーもありましたが、そんな20世紀を振り返るのに「映像」というキーワードは欠かせません。つまり、映像は一つのパラダイムだったのです。そこには、時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達ツール、インタラクティブなコンピュータ、虚構と現実などの多くのコンテクストが内包されています。

しかし、それに対して、僕はここで「映像の世紀から魔法の世紀へ」という変革点を語りたいと思っています。僕にとって「魔法」とは、そんな20世紀に映像が持ったようなコンテクストを内包するような、次なる21世紀のパラダイムを表現した言葉なのです。

■「魔法の世紀」

『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』――「映像の世紀」まっただ中の1973年に、SF作家アーサー・C・クラークは、こんな有名な言葉を残しています。魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。

研究者やエンジニアなど、科学やテクノロジー好きの人間は、この世界に文字通りの「魔法」なんて実現しないと端から信じているので、魔法をあり得ないものとして捉えています。だから、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのだと思います。しかし、この言葉には、有り得ないほどの超技術は文字通りの魔法になりえるのではないかという希望を見いだすことも出来るのです。

実際、アーサー・C・クラークは、20世紀の映画を代表するS.キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』の原作者として有名ですが、あの虚構に我々が垣間みた表現は、おそらく21世紀にはこの現実世界でも実現するようになるでしょう。映像で語られるような宇宙の旅の世界を、この地球上に実現するのはやや難しいですが、物体浮遊に関しては研究が進んでいますし、実は僕もそこに関わる一人です。また、政府主導や民間主導での宇宙の開発も進んでいます。

つまり、クラークが描いた「魔法と区別がつかない超技術」の実現は、既に始まっているのです。

ここで重要なのは、なぜそのような技術が実現したのかです。それを可能にしたものこそが、前世紀に戦争の道具として発明され、人類の知的生産からコミュニケーション、映像の中に魔法のような表現などあらゆる場所に革命を実現した「魔法の箱」――コンピュータです。

これらの「超技術」を押し進めるテクノロジー文脈の一つは、間違いなくコンピュータの発展によるデジタルカルチャーです。現在、かつてSFを見て育った子ども達が、このデジタルカルチャーを引っ下げて、コンピュータというツールを多かれ少なかれ巧妙に使い、まさにSFをこの世界に実現しようとしているのです。そう、「魔法の世紀」において、その魔法の素(マナ)となるのは、まさしくコンピュータだと思います。

この連載の目的は、そんなコンピュータとその周囲の文化が織りなすデジタルカルチャーの文脈とその基本的な原理から、コンピュータの特徴を「魔法の世紀」として捉え直すことで見えてくるものについて書いていくことです。

それは、魔法をキーワードにして、デジタルカルチャーを主体に置いたテクノロジーの文脈、メディアアートやインタラクティブアートなどの表現活動、SNSやUGCを始めとしたインターネット文化などが向かう先を理解するために、前世紀的な「映像文化」との対比で読み解いていくということでもあります。

■「魔法」とはなにか

しかし、魔法という言葉に聞き慣れなさを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。実際、魔法という言葉は、どの辞書をたどってみても定義がなかなかに一致をみません。強いていえば「常人には不可能な手法や結果を実現する力のこと」と言ったところであると思います。

では、僕たちが考える魔法のイメージはどこから来ているのでしょうか。

例えば、「ハリーポッター」シリーズを思い浮かべてみてください。あの物語において、魔法使いたちは、ホグワーツで修練した魔法技術を用いて、この世界に奇跡を起こす存在として描かれます。

そこでの魔法の描かれ方で僕が注目したいポイントは、魔法のイメージというものが、魔法によって具現化する実際に体感可能な現象として、ストーリーの中で描かれるところです。そして、その魔法の機序原理についてはあまり多くは語られず、そしてそれ自体は別の現実を描いたファンタジー作品ではあれども、その作品内では世界が完結していることです。これらの特徴は、他のファンタジー作品でも同じではないでしょうか。 以下に、それを定式化します。

1.「現実性」:魔法使いの使う魔法は物理世界(現実)に影響をもたらす

2.「非メディアコンシャス」:完全な動作機序(メディア)は明らかではないが使える。

3.「虚構の消失」:魔法ファンタジーの中にもう一つのファンタジーは存在しない。

もちろん、この連載が目的とするのは、そのようなファンタジーの中で魔法使いが駆使するようなものを語ることではありません。しかし、僕はテクノロジーがまるで魔法のように生活の隅々にまで行き渡った現代と、ファンタジーの魔法のそれには多数の共通点があると考えています。

ここからは、そのことを上記3つの定式化に即して、説明していきます。前章で指摘したのがまさに「現実性」に当たりますから、ここからは「非メディアコンシャス」と「虚構の消失」を説明していきましょう。

■ 非メディアコンシャス――「何が充分なら魔法になり得るのか?」

再び、先に挙げたアーサー・C・クラークの言葉に戻りましょう。充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)という言葉には、"sufficiently advanced(充分に発達した)"という表現があります。

一体、何が十分に発達したもので、何が魔法を作るのでしょうか。それは、そこにある科学技術を人が意識しなくなったときです。テクノロジーに関する理屈は理解できても、高度に細分化され発達したテクノロジーが、そこにある技術についてユーザーが気に留めないほど高度に振る舞い、そこに技術があることを秘匿すれば、それは実質的に魔法となるわけです。

テクノロジー自体の存在を意識しないほどテクノロジーが発達する。そして、テクノロジー自体は超常的な何かとして意識されなくなる――そのようなビジョンとして、例えば1993年に、Xeroxパロアルト研究所のマークワイザー博士が「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st century)」の中で提唱した、ユビキタスコンピューティングがあります。

「ユビキタスコンピュータ(世界にあまねく存在するコンピュータ)」は、まさしくそのような概念です。いつでもどこでも互いに接続されたコンピュータが、人間をサポートすることで、人間はテクノロジーを意識しなくなるというビジョンです。

マーク・ワイザー博士の意に反して、この概念は「いつでもどこでも」が強調され、モバイル通信が盛んに行われる社会のことだと曲解されてしまっているように見えます。みなさんもユビキタスコンピューティングと聞くと、コンピュータの見えない世界というよりは、むしろコンピュータに対して意識的な、スマホなどのモバイル端末がたくさんある世界を想像するのではないでしょうか? それは、当初のマーク・ワイザー博士の意と正反対の世界です。

空気みたいな、植物みたいな、そんなアンビエントなコンピュータを実現する。そうすればコンピュータの存在を意識することはなくなります。ハードウェア的にはまだ遠い世界かもしれません。しかし、我々の意識レベルではそれは遠い未来の話ではないと思います。それどころか、今ここで僕らの中で静かに進行中のことだと考えています。

例えば、Twitterを「喫煙所みたいなもの」と表現したり、ネット回線がない場所で「息がしづらい」と言ってみたりしことはありませんでしょうか?

SNSにどっぷりはまったような人たちにとっては、そのメディアそれ自身は、普段からは意識されない状態になっているので、逆にネットから切断されたときに急にその存在を意識するようになるのです。

僕は、これは既に空気みたいなメディアが実現されつつあるのではないかと思っています。つまり、スマホやハードウェア的なメディアに対しての意識は普段はほぼ消失していて、SNSなどのアプリケーションについての意識が先行しているわけです。メディアとアプリやコンテンツが不可分になっているとも言えるでしょう。

ただし、スマホにおいては、メディアとそれに関わるテクノロジーが消失しているにも関わらず、魔法感は覚えません。

それは、そのメディアにアクセスするためのインターフェースに問題があるのだと思います。つまり、スマートフォンや、コンピュータという出入力装置がまだ充分に魔法的な振る舞いをしていないだけだと考えます。

まず、人間の身体レベルでの入力に対して、その応答がスマホの狭い画面だけだと小さすぎるし、結果が画面という色光だけで返ってくることにも臨場感がありません。しかも、スマートフォンはまだまだ重いし、充電しないと動かない。この点については、僕たちコンピュータ研究者も、まだまだ頑張りどころが多いと思います。

もし、ハサミや鉛筆等のアナログツールのようにデジタルツールと接するならば、それはコンピュータの存在を意識しないものになるでしょう。少なくとも意識のレベルでは、コンテンツと直接やり取りしている状態になるはずです。

この連載では、そんなふうに魔法使いの道具とそのからくりについての、言わばこの世界に満ちつつあるメタなテクノロジーの原理についても述べていきたいと思います。

例えば、ヒューマンインターフェースを研究する観点では、機械音や機械感、エラーやラグなどは、魔法感を損なう最大の原因になると僕は考えています。この問題については、技術の"時間解像度"と"空間解像度"、そしてエラー率の問題です。こういう話についても、後の連載で詳しく語ることにします。

■ 虚構の消失――虚構がリアルに吸収される

この世界には今二つの物理的秩序で動いているものが同時に存在しています。リアルなものとバーチャルなものです。例えば、バーチャルなものの代表である、デジタルコンテンツには質量がありません。それは、いささかおかしな話です。物理世界にあるものが、物理的パラメータを限定的にしか持っていないわけですから。

そういう認識でも、メディアコンシャスな時代には良かったはずです。しかし、今や我々のすむアナログ世界にここまでデジタルテクノロジーが進出し、もはやデジタルとアナログの区別はつかなくなりつつあるのです。

もちろん、ナム・ジュン・パイクがブラウン管を積み上げて彫刻作品を作ったように、リアルとバーチャルの分断を超えて表現を行おうとした試みは多分にありました。例えば、「オンライン to オフライン(O2O)」と呼ばれるサービスなどは、そうでしょう。コンピュータの世界から抜け出して、現実世界でもコンピュータとのギャップなく何かを行おうとしてきたのです。現実とデジタルの間を越境させることで、更なる可能性を我々が生きる現実側にもってきて、それによって新しい考えや製品、思想を生み出す。それが、「映像の世紀」のコンピュータの切り口でした。虚構から越境してくる様々な可能性によって新鮮な価値観が提案されてきたのも事実です。

その結果、この世界にコンピュータは溢れ、インターフェースも溢れ、リアルとバーチャルの線引きでは語りきれないほど、様々なデジタルコンテンツが氾濫しています。街角のどこを見てもデジタルテクノロジーとアナログテクノロジーは共存しています。デジタルサイネージは増加し、ウェアラブルコンピュータは加速し、モバイル機器もまた氾濫しています。

ここでポイントになるのは、現実世界にバーチャル世界を持ち込んで、リアルとバーチャルの対比で物事を考えることが有用だったのは、まだコンピュータやデジタルテクノロジーが氾濫していなかったからだということです。しかし、デジタルテクノロジーが氾濫した今、そのリアルとバーチャルの対比は適用可能なのか。

もちろんそれは適用可能だと思いますが、逆に発想の幅を狭めてしまうのではないか、と危惧しています。それが「魔法の世紀」を提案するに至った三つ目の問題意識です。

なぜなら、リアルにバーチャルがない時代ならば、バーチャルを現実に向かって拡大することで視点を広くすることが出来ましたが、今やこの現実には、リアルと同じだけバーチャルが存在するからです。それは逆説的に、どこに行ってもバーチャルは存在しなくなっているとも言えます。

現代とは、Twitterに冷蔵庫に入った写真をあげれば、現実で身辺が炎上し逮捕されてしまい、うっかりAmazonでワンクリックすれば家に物理的商品がその日のうちに届いてしまう世界です。そういう現実に対するデジタルインフォメーションの影響が無視しきれなくなっている中で、リアルとバーチャルの対比で語るのは、もはやアナクロです。

しかしながら、いまだコンピュータ研究者も世界もリアルとバーチャルの対比が好きです。ここをどうやって踏み越えていくか。リアルとバーチャルが同時に存在する中、同じ一つの世界を二つに区切って対比的に考えることは、かえって視点を狭くする原因になりかねません。

ちなみに、バーチャルという言葉をここまでは世間一般で使われている「仮想」という意味で使ってきましたが、本来バーチャルという言葉はそういう意味ではありません。バーチャル(Virtual)とは「厳密には違うが本物と区別出来ないほど似ている」という言葉です。つまり本来、バーチャルリアリティとは「現実と区別できないほどに、本物に近い現実」という意味です。HMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)を付けた向こうに実世界に極めて近い世界があるのでは、まだバーチャルではありません。その世界を現実と信じきること、もしくは、いつHMDを付けたのかも気にならない世界が本当の意味でのバーチャルの世界です。

さて、我々は今、本当の意味でのバーチャルリアリティの向かう先、全てが「ほぼリアル」の世界に生きようとしているのです。仮想の枠組みは、仮想を突き詰めた結果として現実と区別できないほどになり、あらゆる虚構はリアルの側に吸収されています。

ファンタジー世界で、魔法使いが使う魔法は「現実では有り得ないような振る舞い」をします。それは、例えば質量がないような、形を変えるようなもので、それでいてこのファンタジーの物理世界にともに存在するわけです。それと全く同等に昨今のデジタルデータはまさに「魔法的」で「現実には有り得ない、しかし確かにそこにあるもの」として、「既に」ここに存在しているのです。それは旧来の対比的な意味ではなく、誤訳されたユビキタスやバーチャルの意味をも超えて、「魔法的」に身体性や物理性と接続されたものとして語るべきだと思います。

これは、メタボリズムとミニマリズムとの対比で現代建築の文脈が語られるように、「二分世界(リアル×バーチャル)」と「統合世界(魔法的バーチャル)」でデジタルカルチャーは語られるべきなのではないかという提案でもあります。そして今、統合世界に入りつつある我々は、リアルとバーチャルの対比で越境を目指す時代から、直感的に両者の区別を抜きにして生きていく時代に入ったのだと思います。

それはたとえば、さまざまな取捨選択をもたらします。もし、いつでもどこでもバックアップ可能な、紙のノートを持ち歩けるサービスがあったとして、手書き認識のタブレットとどちらを使うでしょうか。全てがバーチャルならば、どこまでアナログを残すのかは書き換え速度の問題であったり、コンテクストやテクスチャに関する人間の理解の問題になったりします。

■「日本的ないないづくしの閉塞社会」に向けて

以上、「魔法の世紀」を形作るコンピュータがもたらす「魔法」の3つの特徴を見てきました。ここには、20世紀の「映像の世紀」と大きな違いがあります。

今までのテクノロジーはデジタルとアナログの区別をもたらすもので、紙に描かれた絵と画面は違うものという扱いでした。そして、動的コンテンツと静的コンテンツ、我々と虚構は別の世界に生きていました。メディアの存在が際立っていたことで、メディアとコンテンツは容易に分離できていたのです。例えば、「映像の世紀」にはテレビというメディアと、番組というコンテンツの二つが存在していて、それによって行動様式が決定されていました。

しかし、あらゆる電子機器がコンピュータ的機能(万能化/存在の透明化)を成長させる方向へと振る舞った結果、テレビはもはやコンテンツとしてのテレビ(=番組)と一致するメディアではなくなってしまいました。テレビやコンピュータ、スマートフォンを意識することなく、そこにあるコンテンツのみを誰もが意識するようになりつつあるのです。そして、メディアがどう動いているかについてはみな気に留めなくなりつつあります。その振る舞いは、実に魔法的だと僕は思います。

そのように今までは、ある一つの物事に対して、コンテクスト、メディア、コンテンツの三つの見方がありましたが、デジタルカルチャーが我々の生活まで入り込んだ今は、メディアとコンテンツは体験として不可分になっているといえるでしょう。誰もがテクノロジーのことを気にかけないままメディアに触れ、コンテンツを享受しながら生きている。ここには虚構の現実の対比が明確であった「映像の世紀」にはなかった、さまざまな特徴があると考えました。

ここには、魔法的に振る舞うテクノロジーには、新しい概念提起が必要だろうという問題意識があります。「映像の世紀」は本質的にメディアコンシャスな世紀でした。映像には常に再生装置というメディアが伴っており、その形や機能について人間は意識的でした。しかし今やあらゆるメディアは物理世界に溶け込みつつあり、何がメディアで何がメディアでないのかも、もはや不可分になりつつあるのです。そこでは、前世紀的なメディア意識の在り方とは別のメディアの捉え方があるのではないかと思います。

そして今世紀、その中で一つのテーマになってくるのはコンピュータの物象化――すなわち、我々の思考や身体性と同じフィールドにコンピュータ技術が進出してくることだと思います。

おそらく、コンピュータは今までよりも、もっと我々の物理世界に干渉してくると考えられます。今までは画面の向こうにあったコンピュータが、モバイルやウェアラブル、あるいはアンビエント、ユビキタス、パーベイシブ、タンジブル......呼び方は様々にあれども、あらゆる形に姿を変え、より人間に密接に関わるようになってくるでしょう。

そしてそれは今、既にWEB分野や芸術分野、研究分野、産業分野において静かに進行中で、これからますます加速していくと考えられます。

そこに存在する科学観、哲学観、美学についての理解は、既に僕の作品や研究に非常に役に立っています。そして、それを共有することは様々な人々にとって有用だと思って、僕は筆を執っています。

これはきっと、ITに関わる全ての人にとって意味のあることのように感じます。といっても専門的な話ではありません。スマホをいじり、インターネットを検索する、そんな単純なIT操作を行う人々、つまり日常を生きるすべての人々に関わることだと思います。これから社会に出る学生、テクノロジーやIT上のユーザー体験を元に起業しようと思っている社会人、あるいは次の事業テーマを探している企業の人々など、あらゆる人々に届けたいと思って、僕はこの連載を書きはじめています。

僕自身は、コンピュータに関しては若い研究者であり、表現者です。今ここから見える未来を「日本的ないないづくしの閉塞社会」に向けて希望をもって書きたいと思います。20世紀が「映像の世紀」なら、21世紀は「魔法の世紀」。あらゆる虚構、リアル/バーチャルの対比を飛び越えて、僕ら自身が魔法使いや超人になる世界。知的好奇心がサステーナブルな希望を実現し、人間はより人間らしく生きていく。そんな世紀に向けて静かに動き出しているこの世界を、僕の視点から語っていきたいと思います。

※この記事は毎月1度の連載記事です。vol.2は8月14日に配信予定!

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