大切なのは「自意識過剰」に気づいて、育てること【アーティスト鈴木康広】

「内面を見つめる力」に惹かれ、自分らしくいられるための方法を聞きたいと、鈴木さんを訪ねました。

ギャルモデルであり、現役・慶応義塾大学大学院生でもある鎌田安里紗さん 。10代、20代を中心に支持を集める彼女はエシカル・プランナーでもあり、多数のファッションブランドとコラボをしたり、「エシカル」に興味を持ってもらえるようなイベントやスタディ・ツアーを手がけたりと、様々な形で発信をしています。

今回、そんな彼女が「この人の発想はこれからの暮らしを考える上でヒントになりそう!」と感じた人たち10人にインタビュー。生活のこと、暮らし方のこと、自然との関わり合いのこと、自分を大切にすることなどについて、じっくりお話を聞いていきます。

今回はこのシリーズの最終回。アーティストの鈴木康広さん。鈴木さんは東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室客員研究員、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科准教授として指導を行いながら、「空気の人」「ファスナーの船」など、物事の見方を変える様々な作品を発表しています。鎌田さんは鈴木さんの「内面を見つめる力」に惹かれ、自分らしくいられるための方法を聞きたいと、鈴木さんを訪ねました。

「気付き」の衝撃自体を報告する作品

鎌田 鈴木さんの作品やインタビューを拝見すると、鈴木さんはご自身のすごく深いところに潜っていって、心の内側の声を聞くということを丁寧になさっているように感じました。それで今日はお話を伺いたいなと思ったのです。

というのは、環境や社会という「外」に目を向けるということと、自分の内面や意識という「内」に深く目を向けるということがつながっている、と私には思えるからです。

今、社会にはたくさんの物が溢れていて、いるかいらないかを感じきれないまま買ってしまったり、ほしいと思わされてしまったりする状況があります。社会の構造がそのようになってしまっている。そうなると、買い手の方がしっかりと自分と向き合って、本当に必要なものが何かを考えていかなければなりません。

物を買う場面に限らず、これだけ情報が溢れる社会においては「内面に深く目を向ける力」や「感じる力」が必要だと思うのです。

そこで、鈴木さんがどんな風に物事を考えて、内面を見つめ、作品を作っているのかをお聞きしたいなと思いました。

鈴木 興味深いテーマですね。どこから話したらいいのか......(笑)

鎌田 まず、作品のことから質問させてください。

鈴木さんの作品を見ると「見立て」がおもしろいなと感じます。見たらその瞬間にパッと身体的にわかるのですが、それは意図的に仕掛けていらっしゃるのですか?

鈴木 そうですね。結果的にそう見えるかもしれませんが、仕掛けているというより、僕自身が心の中で「わぁ!」と驚いてしまうような、感情が沸き起こる瞬間に興味があって、いつも探しているんです。子どもの頃って、なぞなぞが好きでしたよね。答えにたどり着くまでの時間はもやもやしますが、思いついた途端「わぁ!」とうれしくなります。もやもやの状態がとたんにある意味へと変わる瞬間に興味があります。ですが、僕は「意味づけ」そのものを追求しているわけではないんです。

現代美術は、作り手も観る側も「わからない」状態から入ることが多いと思います。それは、作者の意図や作品への理解にとどまらず、世界の見方を変える作品の潜在的な力や、自身の価値観が変わる可能性を目前にしていると思えば当然のこと。作家の行為や作品の意味することがわからない時ほど、その極地へと積極的に歩み寄っていく中で、観客の中で「何か」が開かれるのではないかと。

ふだん何げなく起こっていることでも、何かの拍子で見え方が変わり、その瞬間、そこにさまざまな意味が何層にも重なっていることに気づく。その衝撃が、僕の作品制作の始めには必ずあります。その衝撃の寸前というのは、いつももやもやしていて、ただ予感のような感触があるのみ。その状況そのものがとても不思議なんです。

そして、意味が見つかったときに初めて、もやもやの中にその鍵が確かにあったことがわかる。でも、わかる前にも、その"意味"は存在しているはずですよね。焦点が合っていなくても、そこに温存されている。しかもその意味は一つとは限らない。僕は、無意味と意味との境界を観る側に立ち上がらせるためのサンプルを公開しているんです。

僕自身のアートワークの目的そのものも定かではない分、方法として誤っている可能性もあります。でも、とりあえず実験だと思って取り組んでいます。

くり返しになりますが、僕は自分自身が衝撃を受けたこと、世界の見方が変わってしまうような気づきを人に報告し、そこからさらなるテーマの広がりや深まりを人と共有したいと思っています。人類の一サンプルとしての僕が見つけた発見を入口にしている分、作品はとても馴染みやすいものになっていると思います。

ふだん、何か発見したときに写真を撮って言葉をつけて人と共有するという活動をしています。ツイッター上で公開していくことで、「言われるとそう見える」、「そうかもしれない」という見方を変える練習をやっているつもりです。

これを繰り返していくと、そのうちにフォロワーの方々は、「鈴木のアップした写真には、必ず何かがある」と思いますよね。

そうなってきたら、あるときから完全に無言で写真をアップしようと思います。すると、きっとみんなは自分なりに意味を推測し始めると思うんです。これは、今思いついた案なので、いつからそうするかまだわからないですが。

通常、僕が経験した「わぁ!」という驚きを、その場にいない人と共有するのはほぼ不可能に近いと思います。そういう点では、作品は作者の体験やそれを取り巻く状況の抜け殻でしかありません。

作品を作っている最中にこんなことが起こったとか、ある状況が生まれたとか、作品を生み出す過程にあったものの方が重要かもしれません。だから、制作に興味を持って手伝ってくれた学生やアシスタントと共有していることは、僕自身にとってはとても大切で、そっちの方が、作品そのものより価値があるのではないかと思うことがあります。

社会に出る「適齢期」ではないと思ったから、作品を作っていた

鎌田 子供の頃から作品を作っていたと聞きました。アーティストを目指したのはなぜですか。

鈴木 作品と言っても、身近にある既製品を木や段ボールや紙など別の素材で作っていただけです。アーティストになろう、と積極的に頑張っていたわけではないんです。ただ、19、20歳くらいのときに、大学を出た後、いろいろな面で自分は就職できないと思っていました。

一般社会に出るために、いつ、どういう形で「自分なりの準備」みたいなものを整えればいいのか。それは、誰も教えてくれませんよね。

鎌田 そうですね。

鈴木 就職先はいろいろあると思うんです。ある程度日本語が使えて、元気であればできる仕事はありますから。

でも、そういった、僕でなくてもいい場所で働くことはどこか嫌でした。......どこか嫌というより、すごく嫌だったかもしれません。

けれど、自分はそれほど特別な能力を持っていないと感じていました。そんな状況の中で、子供の頃からの自分自身を踏まえて、「自分とはこんなことをおもしろいと感じている」「自分にはこんなことができるかもしれない」といった、スタートラインに立つために最低限必要な自己紹介の準備として、美術大学時代を過ごしていました。

大学を卒業した頃は、「子供の頃からあるもの」に対して、あまり価値があるとは思っていなかったんです。むしろ、個人的なことはできるだけ削ぎ落すことで社会の中で仕事ができると思っていました。今では、自分だけではなくて、すべての人がそれぞれにもつ、子供の頃からの出会いや経験の中に、ものすごいポテンシャルがあると思っています。

そういった個々の「子供の頃からあるもの」を、社会の中に生かす場所や仕組みがあればいいし、僕のような人間には必要なことだと徐々に思うようになってきました。その仕組みと、芸術家と言われている人たちが日々行なっていることは非常に近い。それで僕は今、美術の作家やアーティストと呼ばれ、生きている状態です。

鎌田 「自分はこんなことができるかもしれない」という発想を得るために、子供の頃から今までのことを20代前半で振り返ったということですよね。どうやってそこを辿って行ったんですかね。

鈴木 誰もが知っている物の由来など、知識としてではなく、発見や驚きとして身近な人に話したり、久々に会った人と思い出話や共に楽しめるタイムリーな話題を見つけたり、誰もがする営みが自分にとってのアートワークとして、意味を持ち始めたのです。次第に過去を振り返ることそのものを特別に思うようになりました。「そういえば、そういうことあったよね、懐かしいね」と思い出しても、またすーっと消えていってしまうようなことを、メモしたり、イラストにすることで自分の中で特別なこととして再認識したり。自分の経験を、引いて見る視点が芽生えたのかもしれないですね。

僕は、大学に入るまで本をほとんど読めなかったので、あまりものを知らず、加工されていないローカルなサンプルみたいなものが、発見や驚きがうまれる素地として、自分の中に残っていたんです。

当たり前のことを、当たり前と受け止めない感覚

鎌田 19、20歳頃に感じた「社会に出るのはまだ無理だ」という感覚に、きちんと向き合ったのですね。それは特異なことだと思います。多くの人は、「この歳になったら大学に行くものである」とか、「この歳になったら働くものである」と考えて、行動しますよね。鈴木さんがそこで立ち止まれたのはなぜだったのでしょう。

鈴木 まず、美大に行く時点で、僕はそういった一般的なルートを諦めていたところがあります。その理由は国語が苦手だったからだと思っていて。何事も、日本語でできていますから。

国語のテストでは文章を正確に、情報として読むことが求められますよね。でも、僕は文章をどうしても主観で読んでしまったんです。だから、ずっと国語のテストができなかった。

今、国語の教科書を開くと「とてもいい題材が載っているな」と思います。ただ、当時の僕には伝わらなかった。そこに、何か非常に大きな落とし穴があるんじゃないかなと思うんですよね。僕のようなタイプには効果がないわけですから。

今は言葉というツール自体がすごいものだなと思っています。言葉を使って伝えたら、聞き手は自分の経験や知識などを総動員して、頭の中にイメージを作り出すことができる。それだけでコミュニケーションができるのは、極めてポータブルで便利だと思います。

鎌田 その感覚、すごく良くわかります。

鈴木 言葉のみに頼らずに厳密に自分の思いを伝えたい人がいるとしたら、図書館のような大量の蔵書、過去の自分を知っていて証言してくれる家族や友達、今まで捨てたものも含めた自分の持ち物を全部カバンに詰め込んで、何かを伝えるときに「あのときのあれを見せなきゃ」「どこにあるかな......あっ、これこれ」といちいち全部取り出してみせるというような、大掛かりな作業が必要になると思って。でも、それは不可能に近いし、それが効果的と言えないことはわかっています。

鎌田 その「言葉ってすごい」というのは、いい意味ですか? 「危険だな」という気持ちも含まれますか?

鈴木 「要注意」という気持ちですね。言葉はいつも「理想」なんですよね。理想的には、自分の全蔵書・全経験・全人間関係などを見せ合ってコミュニケーションするのと同じことが、言語でできると思い込んで、みんな話しています。だから、その理想を試すんです。

鎌田 多くの人は、「こういうものだ」と受け入れている仕組みや、それを受け入れていることすら忘れている仕組みのなかで生きていると思います。

でも鈴木さんは違うのですね。社会で前提のように扱われているものをそのまま自分の前提にしてしまうことはない。その前に、まず自分があるという気がします。それはなぜなのでしょう。

鈴木 言葉で言うと、自意識過剰っていうやつですかね(笑)

鎌田 なるほど(笑)

鈴木 僕は、学校の勉強と相性が悪かったのですが、その原因は情報として物事を自分の中に入れるという、理解の仕組みに人一倍困難を感じていたからだと思います。発達心理学で分類されるような成長の段階と少し合ってなかったのでしょう。

情報として取り入れるより前に、僕は何かを見たときに必ず、「僕はこう感じた」、「こう思った」という感想の方が先に出てきてしまった。

国語の文章などを読んでも、書き手の意図を理解するよりも自分の感想の方が先に出てきてしまったから基本的にいつも混乱していました。教科書を読みながら、どう読んでよいのか、いつも「わからない、わからない」と思っていました(笑)

ただ、世の中のすべてのことを精査して自分で決めてきたわけではありません。僕は基本的に受け身ですし、決められないときは「まわりに流される」というのがポリシー。

だから高校受験の時も「今は大学に行くのが当たり前」という風潮があったので、国語はできなかったけれど、頑張ってぎりぎり進学校に進みました。その頑張りが通用したのは高校に入るまででしたけど。

鎌田 大学進学のことは親御さんに言われたんですか。

鈴木 両親にも言われたと思います。でも、うちの親は大学に行っていないんです。だから大学の実質的な面を知らないわけですよ。知らないのに、大学進学を勧めていたのだなと思います。「当たり前」だと言われているようなことは、そういうことが多いのではないでしょうか。

鎌田 当たり前だと思われていることを鵜呑みにして、自分の感じたことをおろそかにするのはもったいないことかもしれませんね。

鈴木 そうですね。困難や違和感を手がかりにいろいろ試しながら開拓していく感覚です。

世の中の仕組みに合わせるのではなく、自分なりに仕組みを開拓していく

鈴木 ここにあるのは、学生時代から描いたイラストをまとめたスクラップです。当時は日付を入れて描いていました。でも、今は日付を入れずに、ノートの中は現在・過去・未来という時間の枠がないというルールにしています。

当時日付を書いていたのは、「日付を書くものだ」ということを鵜呑みにしていたから。でも、やめました。日付の有無によって自分の描くことや、見返すこと、すべての意味が変わってくる可能性があるんです。自分にとって重要なのは、日付ではなかったとなかなか気づくことができなかった。

鎌田 日付を書かないと決めたときの気持ちなどは覚えていますか?

鈴木 すごく簡単な話で、めんどうだったんです。

鎌田 (笑)

鈴木 「めんどくさい」という言葉はなるべく使わないようにしたいと思いながらも、感覚としておもしろいから使っているのですが、日付を書くのって、けっこうめんどうなんです。絵を描きあげて、すぐに次の絵を描きたいのに、全部のイラストに何年何月何日と書かなくてはならないから。それでやめました。

鎌田 同じ日にたくさん描いていらっしゃったんですね。このイラストは1月1日、2日、こっちは4日。そうなると、めんどうに思う気持ちもわかります。

鈴木 このイラストは紙に描いていたのですが、スクラップブックとしてノートに貼ったら、おもしろい発見がありました。

絵を描いている時点で思考は紙に定着しているので矛盾しているようですが、思考を定着させたくなかったんです。頭の中で紙がペラペラペラペラと入れ替わって、ページが変わっていくようなイメージ。でも紙に描いてしまっているので、自在に入れ替えるのが難しい。紙を束にしていると、めくるのに時間が膨大にかかるんです。

一枚一枚をじっくり見るのではなく、もっとザッと見たいなって。それでスクラップブックに貼るようにしたところ、一気に見られて感動しました。無数のメモに対してランダムにアクセスすることで、メモの見え方が開く度に変わるんです。

こういった具合にプロセスとして身を以て経験していないと、スクラップの意味やアルバムという形式、本という形そのものに、なんとも思わないんですよね。

鎌田 私は、この間Kindleで本を読んだときに「本」のすごさを実感しました。本をたくさん持ち歩くのは重いけれど、Kindleならたくさん持ち運べるからいいなって思ったのです。でも一冊読んだら、やっぱりKindleと本は違うとわかったのです。

本で読んでいるときには、「いいな」って思ったページのなんとなくの厚みとか、本全体のこの辺りというのを手や目がなんとなく覚えていて、後でペラペラっとめくって戻れます。でも、Kindleだとそれができないのです。

鈴木 なるほど! 悪夢ですね...(笑)

鎌田 しかも、読み終わるまでにあと何分だと予測が表示されるんですよ。

鈴木 そんなことを意識していたら読めないですね。本に似た感覚で、今どの辺りを読んでいるか、示さないといけないですね。

鎌田 そうなんです。手に感じる厚みや重さとか、横から見たときの厚みのバランスなどが、機能的にはわかるけれど、肉体的には感じられない。それを感じたときに、ああ、本ってすごいなと思いました。

合理性だけを考えると、抜け落ちてしまうものがある

鈴木 いい話を聞きました。でも自分でやってみないで知ってしまいました(笑)。僕も、本は読み進めるごとに重心が変わっていくなと思ったことがあって、天秤にまたがっている本の絵を描いたことがあります。

Kindleには、もう少し余分とも思われるくらいにハイテクを足す方向があるのかもしれないですね。読み進めるうちに右手と左手に感じる重さが変わっていくという機能とか。

鎌田 機能的には余分かもしれませんが、感覚的には大切なハイテクですね。

鈴木 本とKindleもそうですが、卸売業者とインターネット販売もずいぶんちがいますよね。

今、配達を兼ねた卸売業者が入る余地が全くないのです。時間がかかるし、値段も高くなるし。1つの商品でも何万円もするようなものだと、インターネット販売の方が何千円も安いこともあるくらいです。インターネットは卸値の前段階で仕入れたものを仲介なしで売っているから安くなるわけです。

それに卸売業者の方は、時々注文を忘れちゃうんですよ(笑)。それでも、僕は卸売業者にお願いするのが好きなんです。

鎌田 忘れちゃうのは問題ですけど(笑)。それなのに卸売業者さんにお願いするのはなぜですか?

鈴木 実際に会って雑談しているうちにヒントが得られたり、いざというときに助けてもらえるんですよね。インターネットで注文していると、絶対に無理は聞いてもらえない。

3年前から、東大のほかに武蔵野美術大学で教えているのですが、10年前からお付き合いのある卸売業者さんが偶然、武蔵美の近くに住んでいることがわかったんです。

それで東大から武蔵美についでに荷物を運んでもらったり、東大と武蔵美の両方で荷物を受け渡しできるようになりました。だから、この日のために、10年前、彼に出会っていたのかな、なんて思ったりもします。

僕は「偶然」と感じることや不思議なことが好きなんです。でも、よほど得することがないと、卸売り業者を経由した方がいいとは思えない状況になっていますね。合理的にはインターネットで注文した方がどう考えても便利。早いし、安いし、忘れないし。

でも、やっぱり、人が介在する所には捨てきれない何かがあるんですよね。

自発的に外からの情報を取り入れるためには「自分が閉じていること」が大事

鈴木 インターネットとテレビも、メディアとして全く違いますね。テレビはつけっぱなしにすると、ますますおもしろいメディアなんです。

いろいろなものが流れてくる「川」みたいなものだなと思います。

鎌田 「川」ですか?

鈴木 そう、家の横に川が流れているみたいな感覚です。

テレビって、勝手に流れていて、自分の力では止められないですよね。NHKのデジタル・スタジアムという番組に出演することになって、番組の中でうまくコメントが言えなかったことがありました。でも、放映を止めたくても止められない。それで「止められない感じは、川と一緒だ」って思いました。

当時、住んでいたのはアパートのワンルームで、部屋の両脇に本棚を置いて、最小限の空いたスペースで生活していました。朝起きたらすぐにテレビをつけるんです。休日などは基本的につけっぱなしのまま、本を読んだり作業をしたりしていたのですが、ときどき「今の自分に届けてくれた」と思えるような瞬間が流れて来るんです。それがどうにも不思議で。

東京で一人暮らしのワンルームは、一見、どことも繋がっていない自分だけの空間。そこにはどこか茶室のような魅力もあるかもしれない。茶室は極めて人工的な閉ざされた空間だからこそ、外からやって来るものに特別な価値が生まれ、季節の微妙な変化までも取り入れることができる。

鎌田 そうですね。全くの閉ざされた空間ではなく、ときどき何かが外から入ってきますね。

鈴木 それが自分自身にとっても重要なのかなって思っているのです。ワンルームの空間のように閉ざされたところに、ときどき、外からテレビの情報のように偶然何かが入ってくる。それがポイントなのかなと思います。

ちょっと思い込みが強すぎるのではないかと言われそうですが、思い込みこそ、「自分の中の自然」、言い換えれば「自分にとってニュートラルな状態」をとらえるために欠かせないもの。流れていくテレビの情報に対して「あ、今、特別なものが流れて来た」と反応できるセンサーとして必要なのだと思います。

それがなくなったら、物事をどう見ていいかわからない。誰かが決めた判断基準に頼るしかなくなります。

洋服も、トレンドや周りの人がいう「こういった服を着ると印象が良い」などといった当たり障りのない判断基準に頼って選ぶことしかできなくなりそうです。

鎌田 本当にそうですね。

鈴木 自分というものは、閉じていた方が自然だと思うのです。十分閉じた上でちょっとだけ外の情報を入れる仕組みを、自分の中で作っていく。多くの場合、初めからオープンにしなきゃと焦ってしまいがちなのではないかと。僕自身は美大に入るまでは焦っていました。

今は自意識過剰って言われても良いのではないかと思っています。

きっとそのくらいがニュートラルな状態です。自分のことを見つめてまずは知らないと、外から来たものと出会うという感覚が消えると思います。まずはもっと自分のことを放り出して観察していかないと。その機会をあらかじめ潰してしまうのが、世の中に用意されたルールやシステムなんでしょうね。

鎌田 そう思います。外からの情報が入ってきすぎて、自分のことが埋もれちゃう、見えなくなっちゃうのか、最初から自分の思いを感じたり、出会ったものを受け取ったりする習慣がなくって、どんどん取り入れちゃうのか、どちらが先かなのかはわからないですけれど。

鈴木 多くの人にとっては、「自分の中の自然」を重視する必要がないのでしょうね。僕はそうする必要があったから気づけただけで...。

基本的には僕も必要性のないことはしていないと思っています。アートワークは、はたから見ると、「そんなことをよくやろうと思ったね」と言われることばかりですけど(笑)

鎌田 そんなことを言う人がいるんですか?(笑)

鈴木 「なんでファスナーの船なんて作っちゃったんですか」ってふつうに言われますよ。

でも、それって少なくとも僕にとっては必要なことで、実現したということは世の中でもその必要性や意味があったということだと思っています。

自分の覚悟を試してみる

鈴木 近々、東京でも大きな地震が起こるかもしれないと言われていますよね。そう言われるようになってから、ますます大きな本棚や物を持った方がいいのではないかと思ったりします。たとえ、地震が起きて本棚の下敷きになるとしても、本や物を持つという無防備な感覚。それはけっこう大事だと思うんです。

鎌田 なぜですか?

鈴木 情報量としては本よりもテレビやインターネットの方があったり、それこそ本の代わりにKindleを使ったりもできますよね。その方が省スペースですし、地震が起こっても安全です。そんな状況の中で本を持つということは、スペース確保や情報量の担保、命を守ること以上のものがあるということにしか、僕には思えないんですよ。

同じことがタバコにも言えます。タバコが体に悪いことはほぼ証明されていますよね。それなのにタバコを吸う人がいます。ということは、今、その人にとってタバコは将来の健康を守る以上のものがあるということですよね。つまり、タバコを吸っている人のほうが、将来のことは考えず、今を生きている可能性が高いのです。

そのあたりをもっと突き詰めていくと、実は重要なヒントがあるように思います。「本は物理的にかさばるから、ないほうがいいよね」、「結局本は情報と同じだよね」って言ってしまうと、先ほどのKindleの重さの比重の話ではないけれど、重要なところが欠落する可能性がありますね。

鎌田 世の中が、合理的なこと、革新的なことを良いとしがちだと思いますが、鈴木さんはそれとは正反対のものも大事にしているというわけですね。

合理性を追求していくと落としてしまう何かがあるはずだと。

鈴木 そうですね。あるはずです。

ただね、それを"自分にとって欠かせない"と思ったことがなければ、合理的なもの以外は信じられないんですよ。いくらどこかで誰かが、本が物体としてそこにあることが大事なんだよって言っても、自分で切実な感覚を持ったことがなければきっとダメです。

鎌田 切実な感覚を持ったことがない人には、伝えられないですね。ただ、そういった"自分にとって欠かせない"というものを感じる瞬間が完全になくなってしまった、もしくは、その感覚がもともとない人は、いないと思うんです。

鈴木 そう、もともとない人はいないんですよ。だって、身の回りですごいことがいっぱい起こっているのですから。人は、時には葉っぱが1枚落ちてきただけで運命を感じてしまうくらいです。

自分で行動を起こし、自分にとっての運命が受け止められるか

鎌田 鈴木さんは落ち葉にも運命を感じるとのことですが、自分にとっての運命のようなものをきちんと受け取るにはどうしたらいいのでしょう。

鈴木 おそらく、自分で何か行動を起こしていない限りは、運命だと思えないかもしれませんね。自発的に動きつつ外から来る何かを待ち受けていることがポイントなのかもしれないです。

僕はこれから取り掛かるべき作品のヒントを得るという、不確かながらも切実な思いをもって物事を見ています。だから、些細な物事も時には運命として感じられるのかなと思うのです。

鎌田 なるほど、ただ受け身なだけではないということですね。

鈴木 基本的にいつも困っているんです。わざと困っているわけではないのだけれど、いつも不安感があります。

だから、僕にとってこれまで制作した作品は「生きていくための道具」みたいなもの。作品制作と同時に自分なりの考え方を装備するしかないのです。日々忘れていってしまう些細な出来事や小さな成果を、過去の作品があれば忘れないんです。それが僕の「基地」、「心の拠り所」になっています。

もちろんすべての人が僕のような活動をする必要はないと思いますが、社会的に居場所や所属を確保するためには、何か行動を起こさないと困るようになっている。これは、すべての人に言えることだと思います。

作品を作るということと、社会の中に自分の所属を確保するということは、直接的には繋がっていません。どうやって社会の中に所属を確保すればいいのか、その方法もわからないから作品制作をしてきました。その結果として、作品が媒介となって、出会った人たちが僕に居場所を与えてくれたのです。

居場所を確保するための直接的な活動をしない代わりに、誰にも依頼されなくても常に何かをしてきました。作品制作というのは一つの例ですが、その自主的に行動するということが必要不可欠なんです。

鎌田 この対談シリーズでもお話を伺った四角大輔さんという方が、人は誰でもアーティストであると言っているんです。四角さんのアーティストの定義は、「その人が最もその人らしい状態にあること」なのだそうです。

一般的に思われている「アーティスト」という言葉に対するイメージとは違いますけど。

鈴木 まさにその通りだと思いますね。ただ、そのためには行動しなくてはならない。何かをしないとその言葉が成立しないと思います。

鎌田 ただ生きているだけではなく、行動を起こす必要があるのですね。

鈴木 そうです。その人らしくいること......。もちろん、友達同士の間などプライベートな空間では多くの人が達成しているのかもしれないですが、仕事や社会的関わりといったパブリックな場で自分らしくいられる人が増えると、より社会は変わると感じます。

パブリックな場所で自分らしくいるためには、自分の物事の見方を試す必要があります。

たとえば、自分が着る服で自分の物事の見方を実験することもできる。僕は特に理由はないのですが、毎日ボーダーを着ているんです。そうすると、周りの人が理由を聞いてくることがわかりました。

鎌田 毎日ボーダーだったら気になりますもんね。理由が聞きたくなります。本当に理由はないんですか?

鈴木 おもしろい服だなとは思っているんですよ。そのくらいの感じです。何かあるって。でも、理由を聞かれるから考えるんです。

鎌田 となると、理由は後付けということですね。「なにかある」ということだけを信用して、理由は聞かれたら答える。

鈴木 そうです。そうしているうちに、これなんじゃないかという理由がだんだん出揃ってきます。たとえば、人から「ボーダーは嫌われる服だから、鈴木さんは人からあまり好かれないようにバランスとっているんだと思いますよ」と言われて、よくわからないけど、「そうなんですよ」と言ってみたり(笑)

ボーダーの幅が太い服を着ていたときに、「太さには何か意味があるんですか」と聞かれたら、「講演会や授業の会場が広い時には太くしているんです。遠くから見た時にもよく見えるように」など説明しながら、自分でも「あ、そうかも」と思ったりするのです。縞の太さは相手との物理的な距離によっても変化するものだということを自分でもはじめて意識しました。

こうやって自分で自分の考え方、ものの見方を探るきっかけを作っています。

自分だけの「やらないこと」を大切にする

鈴木 こんなふうに自分の考え方、見方を相対的に探りながら作家活動をしているのですが、今まで何度か「鈴木康広」は作家名としては地味だから変えたら?という助言をもらったことがあります。一般的に「鈴木康広」という名前が認識されないことは経験的にも十分わかりつつ、作家としての名前を変えるのに非常に抵抗があります。静岡県浜松市で鈴木家に生まれてその環境で育ったという蓄積も含めての活動だから、変えるのも不自然だなと思うのです。そもそも、僕の活動に作家名が際立つ必要はなく、むしろいらないのかもしれないと最近は思っています。

鎌田 ああ、それは非常によくわかります。私も本名で活動しています。生まれてから今までの蓄積があって今の私がいるのだし、芸能活動は発信する場所として大切に思っているけれど、発信したいコンテンツは自分自身が今まで見てきたもの、感じてきたものすべてを合わせて生み出されるもの。モデルとしての私だけが私ではないので、本名がいいなと思うのです。

鈴木 あと、僕は、自分が「自分である」ということへの問題意識が強すぎるのか、カラオケに違和感を感じて歌えないくらいです。

鎌田 実は私もカラオケで歌えないです。カラオケには何度も行ったことはありますが、絶対に歌えないんです。

鈴木 え、そうなんですか! 仲間だ。そういう人は少ないですよね。

カラオケは本当にできなくて。どうしていいかわからないんです。あの環境で歌うということが本当によくわからなくて。心も体も拒否します。

鎌田 わかります! あれは、自分以外のものになれないとダメなんですよね。私も絶対にできないのです。

鈴木 恥ずかしいというレベルを超えて、発狂してしまいそうな感覚。あれができない人は、何か別のことをやっていかないと生きていけない人ではないかと...。「歌えない人は、その代わり何かに向いているかもしれません。」と、カラオケルームに書いておきたいです(笑)

鎌田 カラオケへのこだわりは何かあると周りの人にも言われます。人前でしゃべる仕事もしているのに、絶対にダメだというのは、何か理由があるはずだって。

鈴木 僕もそう思いました。声もきれいだし、歌えそうですよ。

鎌田 鼻歌とかは歌えるのですが、カラオケはダメなんです。でも今日ヒントがもらえました(笑)

鈴木 カラオケで歌えなかっただけでいろんな側面が見えてくるんですよね。

断れないということもありますよね。一緒にカラオケに行く人たちがすでに「社会」を形成していますし、歌えない自分に集中しきれずに流されて歌ってしまうと、自分も「なんだ、できるんだ」と思い込んでしまう。すると、そこで何かが終わってしまうんです。

社会化するというか、馴染んでしまう。

人類学者の中沢新一さんは、山梨県出身で富士山についても非常に造詣が深い方ですが、山梨県に生まれたら一生に一度は登りたいと思いそうですよね。ところが、中沢さんは富士山に登らないと決めているそうなのです。

中沢さんにとって富士山は登るべきものではない。現代の感覚では、登った方がわかることがあるかもしれないと誰もが思いそうなところ、まったくそういう判断ではないところにラインがあるようなのです。

そういう風に、絶対にやらないということがはっきりしていると、自分が取り組むべきことも見えてくるのではないでしょうか。「足を踏み込んだら消えてしまうものがある」という感覚が前提にあるのです。ちなみに、僕も静岡県出身ですが、未だに登ったことがありません。

たとえば、日本にとっては玄関と床に境界がありますよね。

先日、とても急いでいるときに忘れ物をして、その日はちょうどコンバースのハイカットを履いていたから脱ぐに脱げなかったのです。でも、ものすごく急いでいたから、不覚にも靴のまま家にあがってしまいました。そうしたら、その後もずっと、この上なく気持ちが悪かった。

子どもの頃から大事にしてきたことを、そこで一回終わらせた感じがあったんです。その、一線を飛び越えてしまったときの「うわー」っという感じが忘れられず、大きなヒントになるような気がしました。小さなことのようで、取り返しのつかないことをしてしまいました。

でも、靴で床を歩くなんていうことは、靴で家に上がる欧米人にとっては何の問題もないわけで...。

鎌田 そうですね。つまり、それは自分の中の価値観の問題なのですね。

鈴木 玄関で靴を脱ぐという文化は、子供のときから親や周囲から与えられた価値観で、自分自身が玄関と床の境界を大事にしているということではないかもしれない。

けれど、あのときの「うわー、しまった」という感覚を感じられなくなるということが、自分で決めることができなくなる状態に似ていると思ったのです。

鎌田 富士山なのかカラオケなのかっていうのは別として、「自分にとっての譲れない何かを自分の中に感じ取って、自分で決めることが大事ということですね。

鈴木 世の中の基準ではなく、自分自身の内的判断です。その判断を時には外に投げ出す勇気が必要です。

鎌田 そして、押し付けられても、自分自身の「できない、やらない」という感覚を大事にして社会化しないようにしていくことが大事ですよね。それが結構難しかったりしますから。

鈴木 そうなんですよね。「この人は、きっとカラオケで無理やり歌わそうとしないだろう」と思っていた人が、歌わそうとしてきますからね(笑)

カラオケは、みんなが歌を楽しむ場所のように見えて、人間関係が垣間見える場所。

鎌田 見えてきますよね(笑)

鈴木 誰も歌わせようとしなければすごく楽しめるんですよ。いろいろな人が歌うのを聴いているだけで楽しいんです。

鎌田 おもしろいですよね。歌わないでただ聞いているだけでいろいろなものが見えてきます。

とてもいいところに話が着地した気がします。今日は本当にどうもありがとうございました。

(2017年1月26日「QREATORS」より転載)

注目記事