2020東京パラリンピック開催まで、あと1000日を切りました。

2020東京パラリンピック開催まで、あと1000日を切りました。連合は、「誰もが参加可能な共生社会の実現」に向けて、全力で応援しています。そこで、月刊連合ではパラリンピックへの理解と共感を広げるために新連載『2020TOKYO人をつなぐ夢をつなぐパラリンピックものがたり』をスタートしました。初回は、国際パラリンピック委員会の殿堂入りを日本人でただ一人果たしたパラリンピック界のレジェンド、河合純一日本パラリンピアンズ協会会長と神津会長の対談をお送りします。

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スポーツとの出会い

やりたいことをやらせてくれる環境があった

─河合さんは、1992年のバルセロナから2012年のロンドンまで6大会連続でパラリンピックの競泳に出場し、金メダル5個を含め、21個ものメダルを獲得されました。水泳との出会いは?

河合 私は、静岡県の舞阪町(現・浜松市)で生まれ育ちました。水泳が盛んな地域で、5歳から近くのスイミングスクールに通い始め、小学校では水泳部に所属しました。公立小学校ですが、室内温水プールがあって、毎日でも泳げる環境でした。非常に恵まれた環境だったと思います。その頃は、弱視とはいえ、まだ右眼の視力がありました。

神津 環境に恵まれていたということだったんですね。しかしご苦労も多かったのでは。

河合 おそらく不自由なことや不便なことは、あったんだと思います。でも、生まれながらに右目の0.1の視力でしか見えていませんから、むしろ両目でものを見る感覚がわからない。他の子と比べて自分は見えないと思うこともないから、特に困った様子もない。両親は、それをうまく利用したんでしょうね。ごく普通の共働き家庭でしたが、「やりたいことは、やれる限りやりなさい」と...。特に水泳は、弱視であることがハンディになりにくい競技でしたので、今思うと、いい種目を選択したと思います。

小学校高学年では、県大会に出場し、水泳部としても地区で総合優勝。中学でも水泳部に入って日々練習に励みました。記録が伸びるとうれしくて...。でも、その頃からだんだん視力が落ちて、コースを外れたり、ターンの時にプールの壁に激突するようになったんです。でも、水泳をやめようとは思わなかった。中学3年で、そのわずかな視力も失いましたが、それでも水泳はやめなかった。地区大会入賞という夢があったからです。顧問の先生や他の部員たちも、私のチャレンジを支えてくれて、県大会の決勝まで進むことができました。

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神津 その2年後、高校2年生の時にバルセロナパラリンピックに出場されたんですね。

河合 はい。高校は東京の筑波大学附属盲学校に進学しました。そこの水泳部の顧問の先生が、水泳部を強化したいと考えていた。私が全国身体障害者スポーツ大会東京都予選会で大会新記録で優勝したところ、先生が「バルセロナに行ってみないか」と声をかけてくれたんです。その時初めて、障がい者スポーツという世界があること、4年に1度パラリンピックという国際大会が開催されていることを知りました。自分の泳ぎを世界で試せるのなら、行ってみたいと思いました。目標に向かって猛練習し、選考会を突破してバルセロナ行きの切符を手にしたんです。

神津 そのチャレンジ精神で、バルセロナではすばらしい成績を収められましたね。大きく飛躍されました。

河合 6種目に出場して、銀メダル2つ、銅メダル3つを獲得しました。うれしいけど、悔しかった。次は絶対に金メダルをとろうと思ったんです。

確かにチャレンジ精神というか、何事にも挑戦してみようとやってきましたが、それ以上に、家族や学校を含めて、やりたいと思うことをやらせてくれる環境があったからこそのメダルだと思います。進学した早稲田大学でも、人との出会いや環境に恵まれ、アトランタ大会では金メダルを手にすることができました。ただ、当時は、日本国内でパラリンピックが報道されることはほとんどなかったし、ユニフォームもオリンピック選手団とは別のデザインで、コーチも同行できなかった。ユニフォームが統一されたのは、1998年の長野オリンピック・パラリンピックからなんです。

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パラリンピックの歴史

失われたものを数えるな 残されたものを最大限に生かせ

─少しパラリンピックの歴史について教えていただけますか。

河合 「パラリンピック(Paralym- pics)」は、ギリシャ語のパラ(Para)、英語でいうパラレル(Parallel)とオリンピック(Olympic)を組み合わせた言葉で、「もうひとつのオリンピック」という意味で使われています。「国際パラリンピック委員会」の発足は、1989年ですが、実はそれ以前から障がい者スポーツの大会が行われていました。当初の目的は、戦地で脊髄損傷や手足を切断するなどの大ケガを負った退役軍人の治療です。第2次世界大戦後、イギリス政府からその任を受けたストーク・マンデビル病院のルードウィッヒ・グットマン博士は、リハビリにスポーツを取り入れました。その効果は大きく、患者は生きる喜びや希望を取り戻し、前向きにリハビリに励むようになったのです。そこで、1948年のロンドンオリンピック開会式の日、病院内でアーチェリーの大会を開催したことが、パラリンピックのルーツと言われています。

グットマン博士は、「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」と患者たちを励まし続けた。この言葉こそ、パラリンピックの原点です。

この病院での大会は、各国からの参加者も増えていったことから、1960年、ローマオリンピックが開催された後にローマで初めての国際大会を開催しました。以降、4年に1度、オリンピックと同年同開催地で障がい者スポーツの国際大会を開こうということになり、後にこのローマ大会が「第1回パラリンピック」と位置づけられました。

神津 第2回は、1964年の東京ですね。「パラリンピック」という名称が使われるようになったのもその時からと聞いていますが...。

河合 はい。東京大会は、3日間の日程で開催されました。日本選手団の団長を務めた中村裕医師が、ストーク・マンデビル病院に留学した際にグットマン博士から「1964年はぜひ日本でやってほしい」と言われ、その実現のために尽力されたんです。当時は脊髄損傷による車椅子の選手だけが参加する大会でした。そこで、日本の大会関係者が、下半身麻痺を意味する「Paraplegia」とオリンピックを組み合わせて「パラリンピック」と名付けたんです。

神津 なるほど、同じ「パラリンピック」でも、意味合いが違ったんですね。

河合 はい。でも、東京大会で「パラリンピック」という名称が使われ、定着していったことは重要です。実はその後、オリンピックとパラリンピックの開催地が異なる時期が続き、次に同一都市開催が実現したのは、1988年のソウル大会でした。翌1989年に国際パラリンピック委員会(IPC)が発足し、国際オリンピック委員会(IOC)が「パラリンピック」という名称の使用を認めて、同年同一都市開催が合意されました。そして2000年、IOCとIPCの間で「今後、オリンピックを招致する都市は必ずパラリンピックも開催する」という取り決めがされたのです。

神津 国際パラリンピック委員会の発足は、1989年なんですね。連合結成も、同じ1989年です。この30年近く、さまざまな困難を乗り越えてこられたんですね。

河合 国連が1981年を「国際障がい者年」と定め、「完全参加と平等」という理念を掲げたことを受けて、障がい者スポーツについても、参加を促進し、競技性を高めていこうという機運が高まりました。それが、1980年代にパラリンピックがもうひとつのオリンピックとして発展する契機になったのだと思います。

パラスポーツの現状と課題

誰もがスポーツに出会える機会を広げたい

─障がい者スポーツの現状については、どうお考えですか?

河合 障がいを持つ子どもの多くは、なかなかスポーツをやらせてもらえていないんです。学校の体育の時間も、危ないからと見学するケースが多い。でも、自分の経験からいっても、子ども時代の体験は重要で、その後の参加につながっていく。誰もが、スポーツに出会う機会を広げられるよう学校や地域での取り組みをもっと進めたいと思っています。

神津 河合さんの部活動では、学校の先生が顧問だったんですよね。連合には教職員の労働組合も加盟していて、今、その長時間労働が問題になっています。実は、教員の長時間労働の要因の1つは部活動の指導なんですね。子どもがスポーツと出会う機会を広げるためにも、教員をサポートする体制が必要ではないでしょうか。

河合 おっしゃる通りです。私は、大学卒業後、母校の舞阪中学校の教員になりました。社会科を教えながら、水泳部の顧問を務めました。日教組の組合員でもありましたので、その問題は本当によくわかります。

神津 最近は、競技経験のまったくない教員が指導を任されるケースも多いと聞きます。それならば、競技経験者の力を借りる仕組みをつくってはどうかと...。地域には、子どもたちに教える機会があれば教えたいというシニアがたくさんいるでしょう。連合では、そういう人材を生かして、地域全体で学校教育や部活動を支えようという提言をしているんです。

河合 サポート体制が必要だというのは、私も同感です。ただ、シニア世代の力を借りるとすれば、やはり最新の指導法を学んでいただく必要があるでしょうね。昔のイメージで指導すると、大きな問題が起きかねない。今は、練習中の水分補給は必須ですし、愛のムチは絶対にNGです。また「ボランティア」であることのリスクもある。資格や報酬に関する制度を整備して、安心して指導してもらえる仕組みが大事ですね。

神津 なるほど。指導方法も大きく変わっていますからね。

河合 私は今、国立スポーツ科学センターで障がい者スポーツのトレーニング方法を研究していますが、どの分野でも指導法は激変しています。例えば、女子アスリートの徹底的な体重管理は、疲労骨折や不妊リスクにつながることから見直されるようになっていますし、妊娠・出産後の競技への復帰支援の研究も進んでいます。

神津 トップアスリートの強化策はどうですか。

河合 私が現役の頃は、ナショナルトレーニングセンターを使わせてもらえなかったのですが、2014年にパラリンピックが文部科学省の管轄になって、そういう問題もほぼ解消されました。アスリートを雇用し、サポートしてくれる企業も増えてきました。ただ、問題はやはり子どもたちへのサポートですね。例えば、車椅子の子どもがバスケットボールを始めたいという場合、専用車椅子は数十万円もします。健常者の子どもにバスケットシューズを与えるのと同じようにはいきません。でも、持てる能力を伸ばすことは、どの子にも与えられた権利です。用具のレンタル制度などのサポート体制を整備していければと思っています。2020年に向かう今こそ、地ならしをし、種を蒔き、新たなシステムをつくる最大のチャンスですから。

2020東京パラリンピックに向けて

観戦者を増やすことが最大のボランティア活動

─東京パラリンピック成功に向けての課題は?

河合 まず、パラリンピックの意義を多くの方に共有してほしいと思います。パラリンピックは、障がい者スポーツの世界最高峰の競技大会ですが、その開催を通じて、観た人、それに携わった人々が「気づき」を得て、社会を変えていく力になる。それこそがパラリンピック開催の最も大きな意義だと思うのです。東京でオリパラが同時開催されるのは2度目ですが、これは史上初めてのこと。だから、東京が何を発信するのか、世界が注目しています。選手が持てる力を発揮して活躍できるよう、安全・安心の運営体制を整えるとともに、会場を観客で満員にし、すべての競技で選手たちがその力を発揮できる環境をつくっていきたいと思っています。

神津 パラリンピックに対する関心や注目は高まっていますが、まだまだ障がい者スポーツを直接観戦する機会は多くありません。過去の大会では、チケットは完売したけれども、会場には空席が目立ったこともあったと...。

河合 そうなんです。東京大会でも、おそらく多くの企業・団体がパラリンピックの意義に賛同し、チケット購入に協力してくれると思うのですが、そのチケットが、確実に観戦に行ってくれる人に優先的に渡る仕組みをつくることも課題だと思っています。

神津 そのためには、今から、障がい者スポーツのファンを増やしていくことが大事ですね。連合も、連合東京を中心とした取り組みの中で、東京都の障がい者スポーツのファンサイト「TEAM BEYOND」に団体登録し、みんなで応援に行こうと呼びかけています。

河合 観戦者を増やすことは、実は最大のボランティア活動なんです。スポーツ観戦は楽しむことが目的。アリーナやスタジアムの構造も、競技や選手を身近に感じられたり、観る人たちが感動を分かち合い、親睦を深められるようなものに工夫していければと思っています。

連合に望むこと、連合ができること

社会と未来を変える力に

─では、最後に、連合に望むことを。

河合 繰り返しになりますが、東京パラリンピックを成功させることは、その後の社会をどう変えていくのかということなんです。超高齢社会を迎え、誰もが年齢とともに何らかの不自由さ・不便さを感じることが増えるでしょう。だから、パラリンピックに向けて、バリアフリーやユニバーサルデザインのまちづくりを進めることは、障がい者のためだけでなく、すべての人に必要な施策の先行投資になる。それは技術革新を生むヒントやきっかけにもなる。そんなふうに発想を転換してもらえたらと思います。

スポーツも、その1つの切り口です。誰もがスポーツを楽しめるようにすることを通じて、一緒に働く、一緒に遊ぶ、障がい者と一緒に活動する場面を増やしていける。それは職場や地域を変えるきっかけになる。

今、障がい者雇用率は2%ですが、障がい者は人口の1割いると言われています。より積極的に一緒に働くことで、お互いを理解しあうことも大事です。障がい者雇用促進の取り組みも進めていただければと思います。

神津 連合は、全国47都道府県に地方連合会をおいて、地域でも障がい者雇用の促進に取り組んでいます。例えば、連合三重では、三重県の障がい者雇用率が全国最下位だったことから、県と経営者団体に呼びかけて「障がい者雇用推進協議会」を設置するとともに、障がい者の就労体験の場として「ステップアップカフェCotti菜」を開設し、一般雇用への橋渡しをしています。経営者も、雇ってみて初めてわかることが多く、経営にもプラスになっていると言います。連合としても、地域で共に働き、共に生きる取り組みを、どんどん広げていきたいと思います。

河合 もう1つお願いしたいのは、ボランティア休暇などの整備です。今後9万人規模で大会ボランティアを募集する予定ですが、10日間以上の日程になりますので、職場でも準備を進めていただければと思います。

そして、いちばんのお願いは、観戦に来てくださいということです。実は、全国各地で毎週のようにパラスポーツの試合や大会が行われています。競技種目も多種多彩です。何度か観戦すると、ルールや見どころがわかってより楽しめるようになります。スポーツ用具に触ってみるという体験もオススメです。例えば競技用車椅子はフルカーボン製なので片手で持ち上げられるくらい軽いし、競技用の義足も進化して、いろいろな人に支えられていることがわかってもらえると思います。

特に子どもたちに、障がい者スポーツに触れる体験をさせてあげてください。子どもたちが今そこで感じるものこそ、10年先、20年先の社会を変えていく力になるからです。

神津 まさに「パラリンピックの成功なくして、東京大会の成功なし」ですね。月刊連合の連載でも、そうした情報をどんどん紹介し、参加を呼びかけていきたいと思います。

─ありがとうございました。 [進行]西野ゆかり連合広報局長

左:河合純一 日本パラリンピアンズ協会会長 右:神津里季生 連合会長
左:河合純一 日本パラリンピアンズ協会会長 右:神津里季生 連合会長
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河合純一 かわい・じゅんいち

元水泳選手。日本身体障がい者水泳連盟会長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会副委員長。日本パラリンピック委員会アスリート委員会委員長。独立行政法人日本スポーツ振興センタースポーツ研究部先任研究員。

1975年、静岡県生まれ。先天性ぶどう膜欠損症のため、生まれつき左眼の視力がなく、15歳で右眼の視力も失い、全盲になる。5歳より水泳を始め、1992年、17歳のときに初めてパラリンピックに出場(バルセロナ大会)。早稲田大学教育学部在学中の1996年、アトランタパラリンピックで金メダル獲得。以後、シドニー、アテネ、北京、ロンドンの各大会に連続出場。通算獲得メダル数は21個(金5個、銀9個、銅7個)。その功績からIPC(国際パラリンピック委員会)の殿堂入りを果たす(殿堂入りは、世界で24人、日本人はただ1人)。リオパラリンピックでは、聖火ランナーも務める。大学卒業後、静岡県で中学校の教員をしていたときは、日教組の組合員でもあり、青年部活動にも参加。

パラスポーツ 競技日程

《2月》

2日(金)〜4日(日) アルペンスキー

ジャパンパラアルペンスキー競技大会(長野県)

4日(日) 陸上競技

第67回別府大分毎日マラソン大会兼

第18回日本視覚障がい男子マラソン選手権大会(大分県)

10日(土)〜12日(月) アルペンスキー

全日本チェアスキーチャンピオンシップINよませ(長野県)

15日(木)〜17日(土) 車いすバスケットボール

国際親善女子車いすバスケットボール大阪大会(大阪府)

17日(土)〜18日(日) スノーボード

第4回全国障がい者スノーボード選手権大会&サポーターズカップ(長野県)

17日(土)〜18日(日) ボウリング

第26回全国障がい者ボウリング大会(福岡県)

23日(金)〜25日(日) バレーボール

第19回ジャパンデフバレーボールカップ川崎大会 (神奈川県)

25日(日) 陸上競技

東京マラソン2018 兼 アボット・ワールドマラソン メジャーズ シリーズⅪ(東京都)

《3月》

3日(土)〜4日(日) 車いすバスケットボール

第7回長谷川杯兼千葉市長杯全国選抜大会(千葉県)

3日(土)〜4日(日) 水泳

平成29年度春季静岡水泳記録会(静岡県)

9日(金)〜18日(日)平昌パラリンピック

※こちらの記事は日本労働組合総連合会が企画・編集する「月刊連合2018年1・2月合併号」に掲載された記事をWeb用に編集したものです。「月刊連合」についてはこちらをご覧ください。

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