「高校生らしさ」を強調する甲子園に対する違和感

『産経新聞』に掲載されていた「『青葉』から『墨谷二中』になってPL学園の選手たちはどう変化するか?」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。

『産経新聞』に掲載されていた「『青葉』から『墨谷二中』になってPL学園の選手たちはどう変化するか?」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。

1 記事の紹介

高校野球の秋季大阪大会決勝でPL学園が履正社に3-4で敗れた試合を記者の方が見ての感想で、「『キャプテン』(ちばあきお著)という青春野球マンガの傑作」になぞらえて書かれたものです。

この漫画に出てくる「青葉学院は専用の野球グラウンドがあり、個々の選手の能力が高い野球エリート校」で、PL学園と重なるところがあります。一方、「主人公が通う公立校の墨谷二中」は、「部員同士が助け合いながら血のにじむような努力を重ねて青葉学院に挑」みます。

斯様に本来は、青葉学院だったPL学園が、「監督不在の中、選手同士でサインを決め、ひたむきに戦っ」ており、今秋は「墨谷二中だった」という記事です。

そのうえで、今回のPL学園の不祥事について、「全国から野球偏差値の高い中学生を集め、能力の高い部員が激しいレギュラー争いをして当たり前のように甲子園に出場する」というシステムが機能不全をおこしたのではないかとしています。

具体的には、「チームのために」より、個々人を優先し、隠れてでも練習しようとする態度や、下級生による「付き人」の慣習などが指摘されています。

「付き人」については、「付き人を要領よくこなし、野球も頑張る。PL学園出身者はそれができるから、プロでも活躍する」という面がある一方で、「『徒弟制度』に近い」が故に、「要領が悪い部員がいると、いじめや体罰を生みかねない」ともしています。

そして、「野球強豪校の間で、優秀な中学生の獲得競争が年々、過熱している」現実を指摘した上で、「甘いといわれるかもしれないが、互いが助け合って純粋に勝利を求めることは、高校球児が持つ特権だ。高校球児はとことん高校球児らしくすればいい。PL学園の選手たちの今後を、じっくりとみてみたい」と結んでいます。

2 高校野球

最初に断っておきますが、私はあまり高校野球が好きではありません。より正確に言うと、現在の高野連という組織が運営している高校野球が好きではないという話です(甲子園のスパイ疑惑と高野連の対応)。

一生懸命プレーをしている高校生に対してどうこういうつもりはありませんし、プロ野球からスカウトを受けるためには、甲子園で注目を集めなくてはならないのが実情で、そのために頑張っている方を批判するつもりもありません。

ただ、各県代表として甲子園にでる生徒の中に、どれだけその県出身の方がいるかという問題や、学校の知名度をあげるためだけにこうしたスポーツを利用している学校を見ると(大学の学部・学科に「キラキラネーム」が出てきた理由)、どうしてもひっかかるものがあり、今のスタイルのまま運営していくのがどうかと考えているいう話です。

3 「高校生らしさ」

前にも書いた通り、「違和感」にもいろいろな種類がありますが(医者のプライベートと「楽屋」)、この記事で最後に触れている「高校生らしさ」の強調については、普段からかなり強い違和感を感じています。

おそらく少年法の問題などにも関係するのでしょうが、20歳に近い18歳とか19歳の方の行為(少年法では犯罪)をどう取り扱うかとなると、かなり難しい事案が結構あります。

こうした方々の起こした凶悪犯罪であれば、どこまで成人と区別する必要があるのかという気持ちになる事案が正直ないわけではありません。

ただ、体は大人に近いとはいえ、まだ社会に出ておらず、親の保護下にあるのも事実で、そういう意味で「教育」という側面が必要だというのは理解できます。

4 最後に

ならば、極端な話、球技会の様に、純粋に教育の一環として行っていれば、何の問題もないわけですが、甲子園となるとすでに一大行事となっており、プロ野球とか学校の知名度アップとかいろいろな思惑が関係しているのが問題を複雑にしているのではないでしょうか。

こうした「金もうけ」に関連している現実がありながら、その一方で、高校生の行事ということで、「教育」の一環という側面を外すことができない、こうした背反性が私の感じている違和感かと思います。

そうはいっても、いまさら簡単には変更できないという現実があるので、多分これからもこうした違和感を感じ続けていくしかないのかと思ったが故の今日のエントリーでした。

(2013年10月21日の「政治学に関係するものらしきもの」から転載しました。)

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