どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です

大人が「大人としての責務」を果たしていないくせに、勝手なことをぬかすな。いま必要なのは的外れな若者論ではなく「大人論」だ。

「最近の若者はどうしようもねえな」というセリフは、古代エジプトの壁画にも刻まれているという。若者の言葉づかいの乱れを憂いたのは清少納言だったか、それとも吉田兼好だったか。年長者が年下を叱責するのは、もはやヒトの本能に近い。

と、思っていたのだが、どうやら違うらしい。

震災後の日本社会と若者(2)小熊英二×古市憲寿

http://synodos.livedoor.biz/archives/1884961.html(現在はリンク切れ)

日本では1970年以降、急速に「若者論」が流行るようになったという。たしかに時代は移り変わる。その流れについていけない人たちは、若者を貶めることで溜飲を下げるのだ。

冗談じゃない。

大人が「大人としての責務」を果たしていないくせに、勝手なことをぬかすな。いま必要なのは的外れな若者論ではなく「大人論」だ。

少なくとも私は言いたい、

「最近の大人はどうしようもねえな」って。

古代社会において、「大人」は社会の存続に責任を負っていた。子供たちは通過儀礼(イニシエーション)によって「社会を支える一員」として認められ、大人になった。

たとえばオーストラリアの先住民アボリジニの場合:

手に負えない少年のもとには恐ろしい姿の精霊がやってくる。もちろん精霊のメイクをした村の男たちなのだが、ブル・ロアラーといううなり板を鳴らしながら家に入ってくる。少年は母親に守ってもらおうとするし、母親も息子をかばうふりをする。けれど男たちは少年をあっさり母親から引き離して、"聖域"へと連れて行く。本当の試練はここからだ。

泣き叫ぶ少年たちを押さえつけて、男たちは粛々と儀式を進めていく。包皮を切る儀式、陰茎下部を尿道まで切開する儀式、男たちの血を飲ませる儀式――。幼いころ母親の乳を飲んでいたのと同様に、少年は男たちの血を飲んで大人になる。こうした一連の儀式が行われている間、少年たちの目の前では偉大な神話のエピソードが演じられている。彼らは一族の神話を学ぶのだ。

そして村に連れ戻される頃には、彼らのそれぞれの結婚相手となる娘がすでに選ばれている。彼らは一人前の大人として村に迎え入れられる。肉体にメスを入れられ、割礼と尿道切開をほどこされ、彼らは大人の体になった。こうして「子供の状態」から切り離されてしまえば、もう少年に舞い戻るチャンスなどありえない。

性器と、霊的なものと――。世界中の通過儀礼に同様のモチーフが見つかる。たとえば日本のマタギは山の神々との性交により大人になるし、似たような儀式はネイティブアメリカンにも見られる。儀式を通じて「神秘的な存在との交わり」を経験し、少年たちの精神構造はガラリと変わる。儀式を耐え抜いたという自信が芽生えると同時に、共同体の一員としての自覚を手に入れる。

なぜ、そうまでして「大人」にしなければいけなかったのか。

それは共同体を存続させるためだ。狩猟文化における狩りにせよ、農耕文化における種まきと収穫にせよ、それらは共同体の存続をかけた一大事業だ。もし仮に帰属意識を軽んじる文化があったとしても、食い詰めて滅びてしまうだろう。共同体を半永久的に維持できる文化だけが、「文化の生存競争」を勝ち抜いてきた。

だから世界中の神話は、死後もこの世界が――端的には自分の属していた共同体が存続することを前提としている。たとえば東洋には輪廻転生というそのものずばりな考え方があるし、キリスト教圏において死は「復活の時」までの一時的な眠りにすぎない。たとえあなたが死んでもこの社会は残るし、遠い未来の子孫にまでもこの世界を受け継がせなければならない:宗教がチカラを保っていた近代まで、人々はそういう発想のもとに人生を送っていた。

というか、ちょっとイメージしてもらえば解ると思うんだけど、仮にあなたが輪廻転生を信じていたとするじゃん。そんで生き返ってみたら自分の暮らしていた世界がめちゃくちゃになっていたら嫌っしょ? もしくはあなたが「復活の時」を信じているとして、自分が死んだ後に世界がめちゃくちゃになったから「やっぱ復活なんてやーめた」とか神様に言われたらたまんないっしょ?

だから当時の大人たちは自分の死後にまで責任を負っていた。自分の寿命よりもはるかに長大なスケールでモノを考えて、人生を送っていたのだ。「自分が死んだ後のことなんて知らね!」という発想は無かった。

ちょっとだけ余談をすると、こういう古代の神話には地域性があって面白い。

たとえばヘブライ人のヤハウェ信仰(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の原型になった)のような唯一神をあがめる風習は、神話のなかではかなり珍しいという。砂漠で暮らす地域社会的な神の特性だそうだ。厳しい環境と対決しながら生まれた信仰だからか、「自然」を神が与えた罰のようなものだと見なしている。人間はエデンの園から追われて荒れ野(=自然環境)に迷い出たのだ。神は自らの姿に似せてヒトを作り、ヒトに似せてあらゆる生き物を作った。だからヒトは万物の霊長で、動物や植物を支配する立場なのだ。

一方で、狩猟文化における神話では、動植物の扱いがガラリと変わる。動物はハンターたちに恵みをもたらす存在で、人智を超えたチカラを秘めている。動物たちはヒトに知識と活力を与えてくれるのだ。北米のインディアンはコヨーテの皮をかぶり、東北のマタギはクマの皮をかぶって――動物と一体化し、そのチカラを得て狩りに出た。狩猟文化において動物は親しい隣人であり、同時に畏敬の対象でもある。だから狩りは神聖で、滝行のような苦行によって穢れを落とさなければ参加できなかった。そして獲物を殺した時には、厳かな祈りを捧げるのだ。

これが農耕文化では動物から植物になる。地母神のような存在への信仰は農耕文化のものだ。狩猟文化の神話が個人主義的・男性的なのに対し、農耕文化では社会的・女性的だ。獲物との対話とシャーマンのひらめきが中心になる狩猟文化の神話に対して、農耕文化の神話では司祭の説教と四季に応じた細かな規律が中心になる。

では日本の神話はどうだろう。

日本は農耕民族だと思われがちだが、じつは農民もいれば漁民も狩猟民も、流浪の民までも暮らしていた。かつて日本は多民族国家だった。単一国家としての自覚を日本人が持つようになったのは明治になってからで、だから私たちは今でも故郷のことを「おクニはどちらですか?」なんて訊く。昔の日本はいくつものクニに分裂していたのだ。長州・薩摩の元藩士たちは、欧米列強に対抗するため「日本国民」という単一の民族を創り出した。

この「国民」意識は戦後教育にも受け継がれた。「愛国心を失わせた」と一部の人々が批判する日教組の戦後教育は、じつは「日本国民」としての意識を教化するナショナリズムに満ちたものだった。それも、強烈なナショナリズムに――。地方出身者のなかには、方言を矯正された記憶のある人も多いだろう。標準語は薩長の藩士が東京の方言を模倣して発明した言葉だ。

『戦後教育のなかの"国民"―乱反射するナショナリズム』作者:小国喜弘、出版社:吉川弘文館)

そういう「多文化・多民族の国」として日本をとらえなおすと、日本の神話を読むときに新しい発見がありそうだ。このお話は農耕文化的、このモチーフは狩猟文化的――というように分解することができて楽しい。

ともかく、私たち人類は自然環境と対話しながら、ときには対決しながら生きてきた。四季が巡るように、霊魂は輪廻転生する。春が来れば草木が芽生え、冬が近づけば鳥たちが渡ってくる。そうした終わりない自然の営みのなかで、自分の属する社会もまた、永続的なものだと信じていた。

ただ信じていただけではない。「社会を永続させる責務」を大人たちは負っていた。自分の命が終わった後にも、共同体を、社会を、この世界を存続させる:それが神話の時代における大人たちの責任だった。

すべてを変えたのは、科学だと思う。

科学はあらゆる奇跡から、霊的なものを消失させた。とくに影響が大きかったのは「生物機械説」だろう。生物を有機物と水でできた機械だととらえ、霊魂や魂魄といった神秘的なエネルギーの存在を否定した。それが生物機械説だ。

で、調べてみると、たしかに生物のカラダからそういうミラクルパワーは見つからなかったのだな。

あらゆる生命現象は、物理と化学の言葉で説明できるようになった。私たちのカラダも、意識も、恐ろしく精緻なピタゴラスイッチなのだ。命とはつまり連鎖的な化学反応であり、私たちの一生とは、ピタゴラスイッチが動き始めてから止まるまでのわずかな時間のことをいう。

そして死は、ただの終わりでしかなくなった。

霊魂がないのなら輪廻転生はありえないし、肉体的な復活もたぶん不可能だ。私たちは永続性から切り離され、「人生」というスケールでモノを考えるようになった。

たとえばBSE問題が世間を騒がせたころ、老年の国会議員たちが旨そうに牛肉を食うパフォーマンスをしてみせた。狂牛病の潜伏期間は長い。発症する頃にはこいつら全員死んでるんじゃね――? と誰もが思ったはずだ。

死がただの終わりでしかないのなら「自分の生きている間だけ平穏無事ならいい」という逃げ切りの発想になる。

たとえば40年後に副作用の出る医薬品があるとして、50代の会社役員たちは平気で販売するだろう。問題が発覚するころには自分たちはこの世にいない。無毒化するまでに数万年かかるゴミだって、いまの大人たちは平気で捨てる。自分の死んだ後のことなど知りようがないからだ。国の借金? いいじゃん問題になる頃には死んでるんだし。年金? 生きているうちに破綻しなければいいや――。

今の大人たちは、究極の無責任の価値観で生きている。

なにが「大人」だ。

現代の大人たちは、自分の人生のスケールでしかものを考えられない。

真っ向から批判することになるので名前は伏せるけれど、最近、某アルファブロガーさんの記事を読んでガッカリした。「能力のある人はクビにならない・儲かっている会社に勤めている人はクビにならない、そういう社会になるといいですね」というようなコトを書かれていた。

裏を返せば、能力もなく優良企業に入るコネもない人は食いっぱぐれる――そういう社会ではないか。

たしかに能力は一人ひとり違う。

アインシュタインも言っている。「すべての人は天才だ。しかし、もしも魚が木登りの能力で評価されるのなら、その魚は自分をばかだと思いながら生涯をおくるだろう」自分の能力を正しく見つけ、それを伸ばすことは何よりも大切だ。

けれど、こういう「個性を大事に」みたいな言葉に、すでにリアリティはない。フリーターたちの受難を目の当たりにして、この社会には人の適性を見つける仕組みも、それを伸ばすシステムもないのだと私たちは思い知った。

「能力のある人はクビにならない・儲かっている会社の社員はクビにならない社会」

それは凡百の一般人が不幸になる社会だ。

この記事を書いたブロガーさんの実年齢を私は知らない。40代か、それとも50代か。壮年以上の人だということだけは判っている。彼女はあと何年ぐらい生きるのだろう。30年か、40年か。そして、あと何年ぐらい社会の第一線で活躍できるのだろう。肉体的な衰えはあっという間に進む。隠居の時期は、そう遠くない。20年か――短ければ10年ほどしか「世の中と関われる時間」は残っていない。

10年〜20年という時間感覚でいえば、たしかに彼女のいう社会は「いい社会」なのかも知れない。クレバーでスマートな世の中だ。が、私たち10代20代の人間は、その倍以上の時間を生きなければいけない。今の40代50代には見ることのできない未来を、私たちは生きることになる。10年〜20年の時間感覚でモノを言っている人の意見が、一体どこまで参考になるのだろう。

なにより「能力のない人が受難する社会」を、私たちは60年後・70年後の未来に残すべきなのか。

私たちが作る未来は、そんなつまらないものなのか。

現代社会では、人々は自分の人生のスケールでしかモノを考えられない。未来に対して大人たちはあまりにも無責任だ。だから年上の人間から意見をもらった時は、その人が「あと何年生きるか」を考えて、割り引かなければいけない。

古代社会の大人たちは、過去から未来へと続く永続性のなかに生きていた。社会を良い状態に保ち、気が遠くなるほど遠い未来の子孫たちにもそれを残すことを責務としていた。しかし科学により神話がチカラを失い、人々の行動は「永遠」ではなく「人生」へとスケールダウンした。その結果、いまの大人たちは未来に責任を負わなくなった。

なにが大人だ、恥を知れ。

私たちの未来を、もうこれ以上めちゃくちゃにしないで。

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