「分析眼」が欲しい人へ

「分析眼がある」とは、要するに「違いを認識する力」と「共通点を抜き出す力」のそれぞれを充分に持っていることだ。よく似たものを前にして「では違いはどこにあるのか?」と考える力。ぜんぜん似てないものを前にして「では共通点はどこにあるのか?」と考える力。そのどちらが欠けても、分析の眼は曇る。
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「分析眼がある」とは、要するに「違いを認識する力」と「共通点を抜き出す力」のそれぞれを充分に持っていることだ。よく似たものを前にして「では違いはどこにあるのか?」と考える力。ぜんぜん似てないものを前にして「では共通点はどこにあるのか?」と考える力。そのどちらが欠けても、分析の眼は曇る。

私たちは、分析しながら生きている。

先月の売上目標が未達なら、その原因を分析する。予想外のヒット商品を目撃したら、成功要因を分析する。カネ儲けの世界だけではない。毎朝、目が覚めるたびに肌で感じる湿度を分析し、空の色を分析し、傘を持っていくべきかどうか判断する。相手の好みを分析して、美術館に行くべきかテーマパークに行くべきかを判断する。昼食はどうしよう、お弁当を作っていったらヘンだろうか......と、相手との距離感を分析する。いざ相手を目の前にしたら、声色や表情を分析して、好意の有無を見抜こうとする。私たちの脳みそは分析せずにはいられない。

では、分析とは何だろう?

言うまでもなく、分析の基本は「違いを認識すること」だ。よく似たものを並べて、まず細かな要素に分解する。たとえば目の前の異性の「喋り方」を、言葉づかいや視線、声のトーン、ジェスチャーに分解していく。それらを他の異性と比較して、違いの有無を認識する。もしも大きな違いがあるのなら、その人はあなたに好意を抱いているのかも知れない。恋愛に関していえば、こうした分析を意識的に行う人は少ない(と信じたい)。私たちの意識に上らない場所で、脳はいつでも複雑な分析を行っている。

「違いを認識すること」に失敗すると、妥当な分析ができなくなる。そして、判断を誤ってしまう。「男子中学生のカン違い」がいい例だ。男子中学生は、好きな女子と「よく目が合う」という理由だけで「あの子も僕のことを好きに違いない」と判断する。悲劇だ。

男子中学生が判断を誤るのは、分析のやり方が悪いからだ。

まず、好意の有無の判定に「視線が合うかどうか」という1つの要素だけを用いている。人間の感情を判定するには、もっとたくさんの要素を比較検討しなければいけない。彼はまず、ものごとを細かな要素に分解するという部分でつまずいている。

さらに比較の方法もよくない。

男子中学生は「好きな子が自分と目を合わせる頻度」と、「他の女子が自分と目を合わせる頻度」とを比較している。こんなに何度も目が合う女子は他にいない、だから彼女は自分を好きに違いない......と考えているのだ。おめでたい話だ。

彼が好きな女子を見つめている時間は、彼が他の女子を見つめている時間よりも長いだろう。であれば当然、たまたま視線がかち合う可能性も高くなる。「自分」の行動に大きな偏りがあるため、この2値の比較には意味がない。少なくとも相手の好意の有無を判定するには不適切だ。「好きな子が自分と目を合わせる頻度」の比較対象とすべきなのは、「好きな子が他の男子と目を合わせる頻度」である。

違いを認識するのは、あらゆる分析の基本だ。

では「共通点を抜き出す力」とは何だろう。

世の中には「リンゴとオレンジを比較するな」という格言があるらしい。あまり似ていないもの同士を比較しても、得られるものは少ない。リンゴの良し悪しを判定したいのなら、リンゴ同士で比較しなければ意味がない。では、リンゴ同士を比較してさえいれば、充分な分析ができていると言えるのだろうか?

「共通点を抜き出す力」がないと、ものごとを単純なパッと見の印象だけで判断してしまう。

イルカが魚の仲間に分類され、コウモリが鳥の仲間に分類されていた時代がある。その時代の人々に、「そいつらはヒトと同じ哺乳類だよ」と言っても相手にされなかっただろう。「なに言ってんの? ぜんぜん似てないじゃん!」と言い返されたはずだ。なかには、したり顔であなたを諭す人がいたかもしれない。「リンゴとオレンジを比較するな」と。

違いを認識する力があれば、コウモリが他の鳥と「なんか違う」と気づける。しかし、「空飛ぶ生き物」というカテゴリーを調べるだけでは、それがヒトや牛、馬と共通点があるとは気づけない。他の、ぜんぜん似てない生き物との共通点を抜き出さなければいけない。違いを見抜く力だけでは、充分な分析眼があるとはいえないのだ。

「共通点を見抜く力」から得られる分析結果は、汎用性が高い。AとBに当てはまった共通点は、まだ試していないCにも当てはまるかもしれない...と、発展的な思考につなげられるからだ。あらゆる科学技術は、共通点を見抜く力によって前進してきた。

人が分析をするのは、なにも学術的な分野だけではない。私たちの脳は、日常的に分析しつづけている。

たとえば私は、ロンドンの地下鉄で猛烈な腹痛に襲われたことがある。脂汗をダラダラとたらしながら、爆発しそうな下半身を押さえていた。このとき私の脳は、東京や京都のスターバックスでトイレを借りた経験から「スタバはトイレを貸してくれる」という共通点を見抜いていた。また北京でマクドナルドやKFCを利用した経験から、「グローバル企業は世界中でほぼ同じサービスを提供する」という共通点を見抜いていた。そして私は、慌てて電車を飛び降りて、目にとまったスターバックスでトイレを借りて事なきをえた。「共通点を見抜く力」で、私は人間としての尊厳を守ることができたのだ。

「分析眼」は、大きく2つの能力からなっている。

1つは「違いを認識する力」だ。似たものを比較検討して、相違点を見つけ出す力だ。もう1つは「共通点を見抜く力」だ。比較対象それぞれの「同じ部分」を抜き取って、法則性を見つけ出す力だ。

この2つの能力は、どちらが優越するというものではない。実質的には同じ1つの能力の、2つの顔である。たとえば、違いを認識するためには、比較されている要素のうち同じでないものを見分けなければならない。「同じでないもの」を見つけるには、「同じであるもの」を────共通点を見抜かなければならない。コインの裏表のように、「違いを認識する力」「共通点を見抜く力」は2つで1つだ。

     ◆

多様な視点からものごとを考える秘訣は、心のなかに「観察する自分」と「肯定する自分」「否定する自分」の3人を同居させることだ。そうすれば、自分を盲信せずに済む。なにかを肯定するときも否定するときも、それ以外の判断がありえないと視野を狭めないで済む。

人生に「100%正しい選択」なんてありえない。

あらゆる思考や判断は、確率的にしか存在しない。真実はつねに100個ぐらいあって、それぞれに妥当性が割り振られている。8割がた正しそうな考えは、2割ぐらい間違っているのだ。ただ、その2割を自覚するのは難しい。無意識のうちに「気付かないふり」をしてしまう。「肯定する自分」は、いつでも声が大きい。他人に対しては「否定する自分」が幅をきかせてしまう。だからこそ「観察する自分」が必要だ。

そして「観察する自分」を育てるには、分析眼を磨くしかないのだ。

(2013年5月18日「デマこい!」より転載)

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