私たちが「豊かな生き方」をするのに必要なもの/競争でも平等でもなく、多様化を!

多様なミームを受容できる社会――そんな社会こそ、人類を進歩させる原動力になる。私たちが目指すべき社会であり、グローバル化によって現実になろうとしている社会だ。
kristian sekulic via Getty Images

※ツイッターでつぶやいたネタを再編。

"It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is the most adaptable to change." ――――Charles Darwin

「教育の現場に競争原理を持ち込むべきだ」と訴える"識者"は多い。

いわく、国際社会で勝ち抜ける人材を生み出すためには、若いうちから競争に揉まれておくべきだという。そうでもしなければ、グローバル化する今後の社会に通用する人材は育たない。

一方で、競争に否定的な意見もよく目にする。子供たちに競争を強いても、自分の成績や才能を伸ばすより、他の子の足を引っ張るほうがはるかに費用対効果が高い。だから子供たちの学力は下がり、学級崩壊が頻発するようになった。――競争に対する憎悪にも近い批判が、「運動会でみんなで手をつないでゴールする」といったおかしな平等主義へと繋がっている。

競争か、平等か――。

どちらも間違っていると、私は思う。

これからの時代に求められるのは、競争でも平等でもなく、多様化だ。

◆ ◆ ◆

まずご紹介したいのは、こちらの記事。

典型的な「教育にも競争を!」論で、読みながら失笑してしまった。トヨタが破竹の勢いで海外でのシェアを伸ばしていた昭和時代ならいざ知らず、いまだにこんな古い議論を蒸し返しているなんて時代錯誤も甚だしい。

グローバルで通用する人材の作り方:日本サッカーを見よ!

「本当は英語の得意なはずの子が、教室ではわざとカタカナ読みをする」という話題から、ぬるま湯な環境での教育はよくない、競争の激しい場所に放り込めば(自分より"上"の人間を意識させれば)、確実に能力が伸びる――と議論を展開している。

才能のある子に、その子にふさわしい教育を施すのは大賛成だ。

しかし「競争に負けた子をどうすんの?」という疑問に答えてくれる"識者"は少ない。

こうした時代遅れな議論の背景には、教育というものに対する根本的な誤解がある。

そもそもオトナの世界の社員教育と、子供のための学校教育とは、目指しているものが違う。社員教育のような人材育成の延長線上として「教育」を語るから、こんなおかしなことになる。

社員教育であれば、その企業に利益をもたらす人材を育てることが最大の目的だ。一方、学校教育の目的は、子供たち一人ひとりの幸福追求を援助することだ。

「グローバルで通用する人材」とは、いったい誰の、何のために必要なのだろう? なつかしい「日本株式会社」に利益をもたらすためだろうか? 昭和かよ。

オトナの都合を、子供たちに押しつけるべきではない。

たしかにグローバル化は進んでいる。地球はどんどんフラット化し、"外国"の存在は一昔前に比べてずっと近くなった。

しかし、だ。

現実には、ほとんどの日本人は50年後も日本で暮らしている。私たちはそう簡単に、生まれた土地を捨てられない。

海外在住の日本人は現在114万人で、これは日本人口の0.89%に過ぎない(日本の人口は現在1億2750万人)。たとえば上海には5万人の日本人が住んでおり、出張者も加えると10万人の"日本人向け市場"があるらしい(ソース失念)。海外在住者と同数ぐらいの出張者がいると考えれば「海外で仕事をする日本人」の数を推定できそうだ。海外在住者が114万人だから、228万人――ということになる。

海外で暮らす日本人は100人に一人もいない。出張者を入れても「海外で仕事をする人」は100人に2人もいない。

もし仮に、この数字が10年後に10倍になっていたとしよう。それでも「海外で仕事をする人」は、日本人のうち6人に一人ぐらいにしかならない。30人学級でいえば、たったの5人だ。

その5人が活躍できるなら、残り25人の"日本に残る子供たち"はどうなってもいいのか?

教育ってのは、そういう限られたエリートのためだけにあるのだろうか?

――私は、ゼッタイに、違うと思う。

そもそも「競争に勝てる人」が「グローバル化に適応できる人」だという保証はどこにもない。

日本の激しい受験戦争を勝ち抜いたエリートたちが、中国の工場では低学歴な労働者を相手に悲鳴をあげている。最終学歴は小学校――なんて人が、かの国では珍しくない。もちろん中国でも高学歴化は進んでいる。が、そういう優秀な人材は工場の末端労働者にはならない。

グローバル化とは、つまり「多様な文化の接触」だ。いわばルール無用な世界だ。特定のルールのなかで勝利を収めた人が、それに適応できるとは限らない。チャールズ・ダーウィンはこう言っている。「もっとも強い者が生き残るのではない、もっとも賢い者が生き残るのでもない、もっとも変化に適応的なものが生き残る」――競争における強さは、変化への適応力とは無関係だ。

繰り返しになるが、「競争せよ」という教育理念を掲げる人は、圧倒的多数の敗者に対して想像力が足りない。「社会」に対する想像力が欠落している。

社会とは人の集まりだ。

そして社会の大部分は「敗者」によって占められている。

この社会は、実質的に「敗者」によって支配されているのだ。

「勝者/敗者」という単純な二元論では、この複雑な社会を理解することは不可能だ。

適応力というものについて、もう少し考えてみよう。

生物の場合、適応力とは「多様性の豊かさ」に他ならない。たとえば鬱蒼とした森を想像してほしい。環境の変化により、この森が少しずつ草原に変わっていったとする。その森に暮らす生物の種類が豊富であればあるほど、変化に適応して生きのびる種は多くなる。逆に、生物相が貧弱であれば、新たに出現した草原(と共にやってきた外来種)に対応できず、その森で暮らしていた生物は絶滅してしまうだろう。

森ではなく、生物の"種"のレベルでも同じことが言える。たとえば疫病に対する適応力だ。ある生物種が新種の病原体に抵抗する遺伝子を持っている確率は、その種の遺伝的多様性に比例する。クローンみたいに似たようなヤツばかりだと、流行りの風邪だけで壊滅的な被害を受けてしまう。遺伝的な多様性が増すほど「その疫病にかからない遺伝子」を持つ個体の存在する確率も高くなる。

さらに個体レベルでも同じだ。ヒトの免疫系にはゲノムの組み替えを促進するシステムがある。誤解を恐れずに噛み砕いた言い方をすれば、免疫系の細胞の一部では突然変異が"推奨"された状態になっているのだ。そうすることで未知の病原体への抗体を作り出す確率を高めている。

生物学的な知見から言えば、適応力とは「多様性の豊かさ」そのものなのだ。

多様性を失った種は、進化の袋小路に迷い込んでやがて滅びる。

「社会」についても、似たようなことが言える。

かつてのファシズムや共産国を思いだして欲しい。多様性を失った社会は確実に滅びる。環境が変化した際に、それに適応する新たな発想や発見が生み出されないからだ。私たちのアイディアや思想といったものは、多様性のなかから生まれる。

アメリカがイノベーティブなのは、競争原理がうまく機能しているからではない。圧倒的に多様な社会だからこそ、アメリカはすごいのだ。

W杯のとき、米国代表のサポーターは他のどの国よりもカラフルだった。肌も、髪も、目の色も。とくに西海岸は開放的だと言われているが――西海岸といえば、そう、シリコンバレーだ。多様性豊かな社会に育まれて、WindowsやiPadが生み出された。

アメリカは国家成立の歴史からして、自由(つまり多様性の受容)を信条としている。FOXニュースやTea Partyにみられる極端な保守右派と、Occupy Wall Streetのような極端なリベラル派が共存している国。かつての奴隷の子孫たちと、かつての主人の子孫たちとが共に兄弟のテーブルについている国。それがアメリカだ。20世紀においてアメリカが繁栄を極め、今なお強い影響力を持っているのは、かの国が世界でいちばん多様性に満ちた国だったからだ。

(※なお余談だが、同じ他民族国家でもイギリスやフランスなどユーロ圏がグダグダなのを見ると、多様性を移民政策などで外科手術的に取り込んでもうまく機能しないのかもしれない)

人の多様性を認めること・多様性に満ちた社会を作ること――これは理想やイデオロギーのためではなく、私たちの社会が「存続しつづける」ために必要なのだ。

「競争」を手放しで賞賛する風潮は、結局は「勝ち/負け」という二元論しか生まず、社会の多様性を失わせてしまう。5教科7科目の能力を伸ばすこと"だけ"にすべての人が注力したら、私たちの社会は間違いなく、ゆっくりと滅びていく。

カッコつけた言い方をすれば、「競争させるべきは子供たちではなくミームだ」ということ。

多様な価値観・思考・信条を認めることで――つまりミームの多様性を確保することで、その進化をうながすことができる。ミームの進化とは、要するに人類文明の進歩だ。ビジネス大好きな人の言葉遣いを真似すれば、イノベーティブな発想はミームの生存競争によって生み出される。

多様なミームを受容できる社会――そんな社会こそ、人類を進歩させる原動力になる。

私たちが目指すべき社会であり、グローバル化によって現実になろうとしている社会だ。

さらに多様性を認めるということは、個性を尊重するということであり、個人の幸福追求と矛盾しない。「個性を大切に」という言葉を聞くと、私たちはゆとり教育の失敗を思い出して苦々しい気持ちになる。しかし「勉強が得意」なのも立派な個性だ。ゆとり教育は勉強ができる子から学習機会を奪い、その個性を踏みにじった。あの教育制度の失敗の原因はここだ。ゆとり教育であれ受験戦争であれ、画一的な教育では多様性を生み出せない。

「勝ち負け二元論」のミームはとても魅力的で、あっという間に伝播する。だけど実際には社会の多様性を失わせて、進歩を止めてしまう。いわば悪性のウィルスのようなミームだ。

感染しないよう、ご注意を。

※あわせて読みたい

平均主義が敗北する時代

「ポピュリズム」とは何を指すのか

採用する側から見た例のマイナビの広告

参考)

外務省・海外在留邦人数調査統計

世界銀行・世界開発指数・日本の人口

注目記事