私たちがネットで失ったもの/YouTuberが必要とされるわけ

新製品を世に出すと、まずは「新しいもの好き」な消費者が飛びつく。彼らを〈イノベーター〉と呼び、全消費者の2.5%だと言われている。

「2.5%だってさ」

居酒屋で鍋をつついていた。大手メーカーで企画開発をしている彼は、どこか投げやりな口調だった。

「何が?」

「イノベーターと呼ばれる人の割合だよ」

「ああ、『イノベーター理論』の」

マーケティング理論の1つだ。新製品を世に出すと、まずは「新しいもの好き」な消費者が飛びつく。彼らを〈イノベーター〉と呼び、全消費者の2.5%だと言われている。

「だけど、これって多すぎると思わないか」彼はビールジョッキを置いた。「たとえば潜在的に100万人の需要が見込める市場に向けた製品なら、最低でも2万5000人は買うことになるだろ」

「単価4,000円の製品なら、それだけで1億円の売上だよね」

「どう考えても楽観的すぎる。モノを作って、定常的なプロモーションをするだけで、そんなにたくさんの消費者が飛びつくなんて......今の日本ではありえないよ」

わずか10年前と比べても、モノを売りづらくなったと彼は言う。誰もが他人の評判を気にして、財布の口よりも先にネットのレビューページを開く。日本からはイノベーターが消えた。

「でもさ、新製品を試さないということは......」

「他の誰かと同じモノしか消費しないってことだよ」

一昔前なら、消費は個性の表現方法だった。カローラを買うか、スープラを買うかで、その人の個性が分かった。

「だけど、今はそういう時代じゃない。みんな他人と同じ画一的なものしか消費しない」

鍋はぬるくなっていた。白菜しか残っていなかった。

「インターネットは消費者の多様性を失わせたんだ」

ドワンゴ代表の川上量生さんが、以前こんなことを言っていた。

(インターネットの世界は)クリエイティブの楽園なんかにはなりません。オープンなマーケットで、みんながコンテンツをつくれるようになるほど、コンテンツの実質的な多様性は減るっていうのが僕の持論です。

「いま、好きなアニメをつくれるのはジブリくらい。」

(小説家になろうに)投稿されている小説の中には本来多様性があるはずなんだけど、ランキング上位に来るものは全部似たようなものになる。ニコ動だって、いろいろな作品が投稿されていますが、何かが流行るとそれ一色になりがちです。参加数が多いってことは、逆に実質的な多様性を減らす効果があるんです。

「いま、好きなアニメをつくれるのはジブリくらい。」

川上量生さんの言葉に、私はモヤッとしたものを感じた。

私の周囲には、インターネットで創造性を発揮している人がたくさんいる。クリエイティブな職を手にしている場合も少なくない。インターネットがなければ、彼らは作品を発表しようとも思わず、仕事を得ることもなかったかもしれない。私の目には、インターネットの世界は多様性豊かな熱帯雨林のように見える。色とりどりの動植物が息づき、数メートル歩くだけでまったく違う生物相が現れる。インターネットは不毛の大地ではありえない。

居酒屋の会話で、川上量生さんの誤解が分かった。

川上さんの主張は、供給者の多様性と消費者の多様性を区別していない。だから間違っているのだ。

ランキングの上位に入るかどうかは、供給者の多様性とは関係ない。消費する側が似たような動画ばかり求めるから、ランキングには画一的な作品だけが並ぶ。どんなに豊かな熱帯雨林だろうと、紙の需要しかなければ、伐採して製紙用パルプにするしかない。問題は供給側の創造性ではなく、消費側の多様性なのだ。

これは「ニコニコ動画」や「小説家になろう」に限らない。

友人の言葉を信じるなら、わずか10年前に比べても新製品を売りにくくなったという。アンケート調査等を行っても、その傾向はかなり明白に現れるらしい。製品の購入理由に「他の人が使っていたから」や「評判がいいから」をあげる人が増えたというのだ。

10年前といえば2004年、Windows XPの時代だ。ブログが人気を集め、mixiが目覚ましい興隆をとげていた。YouTubeの画質は最悪だった。食べログもニコニコ動画も存在せず、価格.comが話題にのぼる機会は今ほど多くなかった。

この10年の変化を一言であらわすなら、「他者の評価の可視化が進んだ」となるだろう。

典型的なものでは、価格.comや食べログ、Amazonのレビューがあげられる。もはや私たちは、広告だけを頼りにモノを買わなくなった。購買行動に移る前に、必ずネットでレビューをチェックする。この10年で発達したSNSは、口コミの拡散速度を飛躍的に高めた。

加えて、以前は知りようがなかった「評価」まで可視化されるようになった。

ニコニコ動画が好例だ。

ニコ動以前の世界では、映像の評価はいつでも「後追い」だった。たとえば映画の感想を口にするのは、映画館を出たあとだった。

ところがニコニコ動画では、映像を見ながら、その瞬間の感想を書き込める。笑えるシーンには「wwww」と草を生やし、すばらしいパフォーマンスには「88888」と拍手を送る。映像を見ている最中の感情は、インターネットが生まれる以前には共有できなかったはずのものだ。

さらにSNSの発達は、リアルの世界にも「評価の可視化」をもたらした。

たとえばTwitterだ。地震が起きれば、ニュース速報よりも先に「揺れた!」と書き込まれる。揺れが大きい、長いといった評価までセットだ。渋谷で有名アーティストがゲリラライブをしている? さあ、動画を撮って拡散だ。京都の清水寺の紅葉がきれい? よし、Facebookで自慢しよう。ニューヨークに遊びに行った? LINEで日本の友達に感想を伝えよう──。何人がリツイートして、何人がイイネ!したのか、すべて可視化される。物理的距離を問わず、私たちは「他者の評価」をいつでも入手できる。ネットがなければ見えなかったはずの、等時性の高い評価を。

あらゆる評価が可視化された結果、私たちは必要以上に他人の顔色をうかがうようになった。

そして、イノベーターとアーリーアダプターが消えた。

イノベーター理論は1962年、スタンフォード大学のエベレット・M・ロジャーズ教授によって提唱された。世界初のカラーテレビ放送が1954年、日本で総天然色のテレビが普及するのは60年代半ばだ。マスメディアの力が急激に強くなり始めた時代に、この理論は生まれた。

イノベーター理論では、消費者を5つに分類する。

まず〈イノベーター〉は新しいものが好きで、社会通念などは気にせずに自分の欲しいものを採用する。

次に〈アーリーアダプター〉は、流行に敏感な人たちだ。社会と価値観を共有しているものの、自ら情報収集を行って、オピニオンリーダーとして他者に影響を与える。

〈アーリーマジョリティ〉は、やや慎重なグループ。他人の評価をある程度調べてから購買に移る。ある流行をアーリーアダプターからアーリーマジョリティにまで広げるのは難しく、「キャズムの壁」として知られている。

〈レイトマジョリティ〉はフォロワーズとも呼ばれ、大多数の人間が試しているのを見てから同じ選択をする。やや保守的なグループだ。

最後の〈ラガード〉はもっとも保守的な層で、新しいものをなかなか試そうとしない。

この定義を見ると、友人の言葉が正しそうに思えてくる。

現在では、誰もが他者の評価・レビューを気にするようになった。他人の価値観を気にするのは、イノベーターの行動ではない。またアーリーアダプターは「自ら情報収集を行う」とされるが、その情報源はAmazonレビューや価格.comになった。他者の評価を気にするという点で、どちらかといえばアーリーマジョリティに近い行動様式だ。

今の日本からはイノベーターやアーリーアダプターが消えた。

みんながマジョリティになってしまった。

誰もが「他の人と同じものしか試さない」としたら、消費者は画一的なものしか消費しなくなる。かくして日本の市場からは多様性が失われ、過去のヒット商品のコピーを細々と作り続ける未来しか待っていない──。もしそうだとしたら、友人の口調が投げやりになるのも分かる。

しかし、ここで私は「おや?」と思った。

10年前からずっと、日本では消費者の嗜好が多様化したと言われていたはずだ。誰もがカローラに乗り、キリンビールを飲む時代ではなくなった。マス広告の効果が薄れて、プロモーション費用を回収しづらくなったはずではなかったのか。

日本では消費者の嗜好が画一化しているのだろうか。それとも多様化しているのだろうか。

友人の「イノベーターが消えた」という指摘は、たぶん正しい。

自分の判断だけで新しいものを試す消費者は、おそらく減った。これほどかんたんに他者の評価を入手できるのだ。すべての消費者がマジョリティ化してしまうのは無理ないだろう。

一方で、マス・マーケティングが効きにくくなったという話もよく耳にする。消費者の嗜好が細分化されて、とくに新聞や雑誌の広告は影響力が小さくなったという。他者の評価をすぐに調べられるなら、消費者はマス広告に頼らなくなる。

つまり今の日本では、「イノベーターの消失」と「マジョリティの多様化」が同時進行しているのだ。どちらも、他者の評価がかんたんに分かることが原因で。

近ごろ話題のYouTuberは、この時代を象徴する人々だろう。

商品のレビューは、YouTuberの動画のなかでも人気のジャンルだという。現在の消費者は他人の評価を気にする。自分の代わりに何かを買って、一喜一憂を見せてくれるYouTuberのような人が求められているのだ。かつての〈イノベーター〉〈アーリー・アダプター〉の役割を彼らは演じている。

反面、どんなに人気のYouTuberでもテレビほど視聴者は抱えていない。日本でトップレベルのYouTuberであるHIKAKINさんでも、チャンネル登録者数は約180万人だ。テレビの場合、関東では視聴率1%で40万人超が観ていることになるという。テレビの人気番組では視聴率が20%を超えることもある。比べると、YouTuberの1人あたりの影響力は小さい。〈マジョリティ〉の情報源が細分化され、クラスター化した結果、マスマーケティングが効果をあげづらくなった。

クラスター化は、コンテンツの多様化をうながす。たとえばニコニコ動画のランキングだけを見れば、似たような作品ばかりが並んでいるかもしれない。しかしYouTubeのランキングには、まったく違う顔ぶれがランクインしているだろう。ニコニコ動画とYouTubeのユーザー層がクラスターとして分断されているからだ。

今の日本では「イノベーターの消失」と「マジョリティの多様化」が同時進行している。ここから得られる教訓は二つある。

まず、供給者の視点では「奇をてらったものは売りにくい」という戒めだ。イノベーターが減ったのだとしたら、当然、見たこともないような新製品は売りにくくなるはすだ。友人のため息の理由でもある。どんなに新しい発想の製品でも、消費者に「見覚えがある」「なじみがある」と感じさせる部分を残すべきだろう。

たとえばアプリの売上ランキングを眺めていると、いつかどこかで見たようなゲームばかりが並んでいる。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』の時代を彷彿とさせる作品がウケる背景には、イノベーターの消失がある。「見たこともないようなゲーム」が目立たないのは少し寂しい。『パンツァードラグーン』や『パラッパラッパー』が発売された当時のような衝撃は感じにくくなった。

そして消費者の視点で得られる教訓は、「イノベーターたれ」だ。

インターネットがあれば、他者の評価をすぐに得られる。たとえば映画を見たとき、すぐに他人の感想を読みたくなる。共感を得たいからだ。しかし、結果として自分の感想を自分で考えなくなってしまう。さらにインターネットの世界はクラスター化が進みやすい。自分の見たい情報だけを見て、自分の居心地のいい価値観に安住してしまいがちだ。

自分の世界を広げるために、馴染みの薄いものにも手を出すよう心がけたい。もしかしたら苦い経験をすることになるかもしれないが、新しいものにチャレンジするのは悪いことではない。さもなくば、井伏鱒二の『山椒魚』のように身動きがとれなくなるだろう。

何より、私たち1人ひとりがイノベーターたろうとすることで、インターネットをランキングの砂漠から救えると思うのだ。ネットの世界を、わくわくするような創造性のジャングルにしていけると思うのだ。

「正直、インターネットが人間をしあわせにするとは思えない」

友人はそう言った。鍋はすっかり煮詰まっていた。

「そうかな」と私は答えた。

酒は飲みつくしていた。ラストオーダーが近いことに気がついて、私はごはんを注文した。鍋に入れておじやにするのだ。

「ネットが、まだ本当の可能性を発揮できていないだけだと思うよ」

(2014年12月7日「デマこい!」より転載)

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