だから、みんなブログ書こうぜ。

ブログは、職業も立場も問わない情報発信の場だ。言語化の訓練を積める場だ。書き続けていれば、「いくつになっても面白い人」になれる。ブログを書き続けていれば、思考力を深められる。人生を、他者の模倣ではなく、自分のものにできる。少なくとも私はそう信じている。

たとえば金曜日の夜、いつものように残業を終えて帰ろうとしたら、上司に呼び止められたとする。

「おい、○○くん。ちょっと一杯つきあえよ」

もちろん、あなたに断る権利はない。くたびれたスーツの中年男と一緒に、安っぽい居酒屋に連れ込まれる。そしてビールの泡を舐めながら、上司はとうとうと語り始めるのだ。

「いいか、俺が若いころにはなぁ...」

「いいか、人生ってのはなぁ...」

この上司は、たぶんブログを書いていない。

たとえば週末、異業種交流会に参加したとする。やたらと声の大きな若い男がいて、自慢話を披露していたとする。たしかに有能な人物なのだろう。自分の成功体験をとうとうと語りながら、「だから僕はこう思うんですよ......」と気の利いた格言を口にする。

「あ、それって『■■■』って本に書いてあった言葉ですよね! 私もその本読みました!」

あなたが言うと、彼はすごくイヤそうな顔をするだろう。

この男は、たぶんブログを書いていない。

誰だって自分の話を聞いて欲しいし、自分の人生を肯定してもらいたい。すごいねって褒めてもらいたい。

しかし、人生を語れば語るほど、相手のテンションは下がっていく。「この人のようになりたい!」と感じてもらえる可能性は低く、「この人のようにはなるまい」と感じさせる場合がほとんどだ。人生は、面と向かって語るもんじゃない。まして、人生の教訓がどこかの本から借りてきた言葉ならばなおさらだ。

では、どこで語ればいいのか?

ブログだ。

言葉は、インプットするだけでは意味が無い。自分の血肉にしたうえで、アウトプットしなければ価値がない。

色々な人の話を参考にして、ライフハックを蓄えて、他の誰かの真似をして......そうやって歩む人生は、いったい誰の人生なのだろう。たとえばビジネス書には「おれはこの方法で上手くいった、だからみんなこの方法をとるべきだ」と主張するものが珍しくない。すべての本が『ビジョナリーカンパニー』のようなスゴ本ではないのだ。誰かの個人的体験談を模倣するだけでは、上手くいくとは限らない。他者の人生を追体験しようとしているうちは、あなたの人生はあなたのものにならない。

ハウツー本を読むべきかどうかの判断は、「車輪の再発明」をどこまで許容できるかによる。誰かの成功体験を模倣するのは、成功する方法を自力で発想するよりもかんたんだ。既存の方法を再発明するのは、あまり効率的ではない。

しかし、ヒトは働いてカネを稼ぐ代わりに運動不足になって、ジムやランニング用品にカネを払っている。生物はカロリーを摂取するために、必死になってカロリーを消費している。生きるとは、かくも非効率なのだ。効率化をどこまでも追求するのなら、私たちはみんな死ぬしかない。

世の中には、効率化のために他者を真似すべきものと、どんなに非効率であっても自分で考えるべきものがある。ものごとを前者と後者のどちらに割り振るかが、生き方を選ぶということだ。自分で考える比率が多くなればなるほど、人生は非効率で、しかしあなた独自のものになる。

では、「自分で考える」にはどうすればいいだろう?

ブログを書けばいい。

     ◆ ◆ ◆

「思考する」とは、心の中のもう1人の自分と語り合うことだ。「仮説→検証」の議論を自分1人で行うことを、思考という。言葉を持った人間は、もはや1人きりにはなれない。言葉を発する自分と、言葉を聞く自分がいるからだ。したがって、ものごとを言語化できるかどうかは、その人の「思考の深さ」の指標になる。

もちろん言語によらない「思考」はあるし、言語化がうまいかどうかが「思考の深さ」の唯一の指標というわけでもない。しかし、日常的に「思考」をしていなければ、なにかを言葉で説明する能力は身につかない。たとえば「考えること」を仕事にしている人には、必ず「説明する力」を求められる。説明する力とは、つまり言語化する力だ。思考力と言語力は強く結びついている。

「考える仕事」の人は、「分からない」と言ってはいけない。もしも「分からない」という言葉を使うのであれば、どの段階で分からないのかを......仮説を検証できないのか、検証すべき仮説を絞り込めないのか、それとも仮説を思いつかないのか、そもそも現状分析ができていないのか......を明確に言語化すべきだ。

自由度の高い課題ほど、なんとなくの判断で解決してはいけない。学校のテストのような「決まった答え」がない課題ほど、きちんと現状分析して、問題設定して、仮説と検証を繰り返すべきだ。「考える仕事」の人は、なんとなくで判断してはいけない。なんとなく良さそう、なんとなくダメそう......といった判断には、必ず判断の理由があるはずだ。その理由を言語化して、うまく説明するのが、「考える仕事」だ。

日本人の特徴なのか、それともヒトの習性なのか、「まちがった仮説を立てた人」はしばしば叩かれる。しかし、正しいかどうか分からないからこそ仮説は仮説なのだ。仮説には、どんな場合でも「まちがっている可能性」が含まれている。私は不適切な仮説は批判するが、それを立てた人は批判しない。

考えを言語化しないのは、なにも考えていないのと同じだ。

「考えを口にする」のを禁じる社会があるとしたら、なにも考えていない人を求める社会だということだ。考える人が増えるのを、忌み嫌う社会だということだ。

     ◆ ◆ ◆

すべてのおっさんがくたびれたスーツを着ているわけではないし、すべての人生論がつまらないわけでもない。世の中には、自分の人生をおもしろおかしく語れる人がいる。訊いてみれば、そういう人はたいていライターだったり、出版社の編集部で働いていたり......情報発信する訓練を普段から積んでいる人だ。

そしてブログは、職業も立場も問わない情報発信の場だ。言語化の訓練を積める場だ。

ブログを書き続けていれば、「いくつになっても面白い人」になれる。ブログを書き続けていれば、思考力を深められる。人生を、他者の模倣ではなく、自分のものにできる。少なくとも私はそう信じている。

ブログを書いていれば、たぶん、あなたはあなたらしくいられる。

だから、みんなブログ書こうぜ。

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(※この記事は2013年6月2日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)

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