都市と地方の「情報格差」とは何だったのか問題(前編)

すっかりインターネットは個人のものになりました。そのおかげで、情報格差は解消された...のでしょうか?

街でも人に出会わない。街頭広告もない。あるのは見慣れた風景で、外部からの新鮮な刺激はない。向いのホーム、路地裏の窓、こんなとこにあるはずもないのに。

さて、最近では「世代間格差」や「所得格差」が話題ですが、すっかり耳にしなくなった格差のひとつに「情報格差」があります。

グーグルトレンドでも下降傾向にあるようでした。

ウィンドウズ95から今年で20年。すっかりインターネットは個人のものになりました。そのおかげで、情報格差は解消された...のでしょうか?

■しょうたいがつかめない情報格差

今さらすぎて大変恐縮なのですが、ウィキペディアの定義によれば、

都市部と地方間における放送・通信の情報量やサービスの可否に差があること。

また、情報技術 (IT) を使いこなせる者と使いこなせない者の間に格差が生じていることを指す。

とされています。

このように、定義がひとつでないことから議論が錯綜することがあり、「情報格差からのこうげきのしょうたいがつかめない!」状態のままですと、モンスターがどんどん巨大化してしまうため、地方間の情報格差の話を進める前に、まずは前提を揃えたいと思います。

情報格差の問題で、地理的要因の係数があるのは次の二点ではないでしょうか。

1 生活圏での自然情報接触量の差

2 デジタルディバイド(環境充実度の差)

人口が一万人を切るような小規模市町村には、依然として情報格差の問題が残り、「地域活性の機会損失」につながるものだと思っています。

そして、地理的要因変数の係数が高いのは1の「生活圏での自然情報量接触量格差」だと考えています。

2のデジタルディバイドについては、スマートフォンやブロードバンド普及率などの統計データを鑑みると、「将来的にはクリティカルなデジタルデバイドの問題はさほど生じない」と考えます。程度の問題はありそうですが。

(総務省「平成25年通信利用動向調査」より)

■まちの本屋に陳列されない本は、この世に無いのと同じ

私の地元である長万部町の一番大きな書店「加藤書店」の品揃えを見て気づいたことがあります。

地域産業の構造によるのかもしれませんが、ビジネス本のコーナーはとても少ないということ。陳列されているのは「これでお金持ちになれる!」みたいな本です。

コンビニの品揃えはどうかと見てみたところ、東京理科大学の長万部キャンパスが近くにあるコンビニでは、学生の来客が多いためかファッション誌が多く取り揃えられていました。

一方、駅前から一番近いコンビニでは生活情報誌やマンガ本が大量にありました。

都心のコンビ二のように、ブルータス、GINZA、ワイアードやクーリエ・ジャポンといったハイソな雑誌はありません。

「まちの本屋はその町の民度を表す」とも言われますが、書店では陳列できる量に物理的限界がある以上、経済合理上「売れる本」しか置けないからです。

商業ルートで流通される情報には、「マーチャンダイジング上そうなるよね」という経済合理上の問題が根本にあったりしています。

■田舎→都会 肌で感じた情報量の違い

「街を歩くだけで雑誌の情報が得られてしまう!」

音楽情報誌やファッション誌などを隅から隅まで読んでいた超田舎者の私は、上京してそう思いました。

街にでれば雑誌に載っているようなお洒落な人がいたり(昔の原宿GAP前とか)、北海道の農村部にはないような様々な会社・仕事があるのだなと知ることができます。

子供のころは、どんぐりやふきのとうなどはよく見てきましたが、カルチャーやホワイトカラー系の仕事はマスメディアなどで知るきっかけを得ない限り、そのような情報と接触する機会はないでしょう。

都市部と比較して、今後デジタル社会がいくら進もうが、田舎は「文化的成熟度の高い情報との偶然の出会い」が圧倒的に少ないのです。

小規模市町村における「情報格差による機会損失」のセンターピンはここにあり、さらに言えば、ここに地域活性に必要な人材の不足や、貧困の連鎖の根も潜んでいるのだと思います。

この機会損失の解消ができない限り、負のらせん階段をゆっくりゆっくり下っていってしまいます。

■中学受験しない小学生は無敵

私と同じような年代の方々の小学校時代は、おはスタから朝が始まり、通学中にコロコロコミックやジャンプの話題、学校ではハイパーヨーヨーにビーダマン、遊戯王カードで休み時間を過ごし、放課後には団地の公園でポケットモンスターを夢中になってプレイされていた幼少期に思いを馳せてみても、それほど困った記憶はなかったかと思います。(それぞれのブームの時系列があってないのはご愛敬)

これらはマスメディアを通じて広告・宣伝される全国区の情報であるため、地域差はなく、全国で享受できるものです。

では中学以降はどうなのかというと、このあたりから情報格差による機会損失の問題が生じると考えます。それは進路選択です。

「学校選択」「職業選択」における影響が大きいのではないのでしょうか。

育った家庭や進路担当の学校の先生によっては、自身の進路(将来)について得られる情報が異なるかもしれない。場合によっては、自身のポテンシャルが十分に活かしきれない選択肢が提示される可能性もなきにしもあらずです。

しかし、職業選択でいえば『13歳のハローワーク』という名著があり、これは大抵の図書館に置かれています。

この本を読むだけでもとてもいい情報を得られるのですが、読むべきタイミングに読んでいなければ、また、届けるべき人に届けられていなければ意味がありません。

仮にその町になくても、たいていの情報は既に世の中にあるものなのです。ですので、必要なときに届けられるか、手を伸ばしたら届く位置に置いてあるかが重要です。

小規模市町村においては、情報が「あるかないか」が問題ではなく、このような状態と動機がセットされているか否かが問題なのだと思います。

では、どうやって情報との出会いをデザインするか。

後編では、そのあたりについて考えてみたいと思います。後日更新。

ちなみに、北海道函館市出身のYUKIさんの『JOY』の歌詞に

「運命は必然じゃなく偶然で出来てる」

とありますが、ライブでは

「運命は必然という偶然で出来てる」

と歌われているそうです。

ここにヒントがあるかもしれません。