日本育ちのバイリンガルの私が、帰国子女に複雑な感情を抱く背景

日本的文脈から逃れられない自分からすれば、帰国子女たちは、「日本人離れ」が簡単に許されているように見える。

母親が自宅で英語教室を開いていた関係で、様々なネイティブスピーカーと出会い、幼い頃から英語に親しむ生活を送ってきた。中学高校では英語スピーチなどをしながら英語のメディアや音楽、映画に親しみ、外語大を経て、日本語と英語のバイリンガルになった。

38歳の現在も起業をしてマーケティングや国際事業に携わっていることもあり、言語力を含めた自分の国際性は重宝している。特にプレゼンや議論、スピーキングが好きで、日本人としては珍しがられる。

一方で、そうしたマインドを持ちながら、帰国子女ではない、という妙なコンプレックスをずっと抱えてきた。この劣等感が些細なところで、自分自身を傷つける「刃物」となるのだ。

友人たちと筆者=2015年、上海で
友人たちと筆者=2015年、上海で

例えば、「英語ペラペラだね、どこに住んでいたの?」という質問を受けた時。

おそらく、相手は私が海外に長く住んでいたから英語を話せるのだろう、と思い込んで聞いている。だが、私が海外で学んだり働いたりした経験はいずれも1年以内に過ぎない。そう説明すると、今度は「じゃあ、日本で生まれて日本で勉強したの?」という質問が飛んでくる。

そんなとき、「帰国子女」まがいから「日本育ちの英語話者」に転落したような気持ちになる。「英語を勉強した=真面目」のレッテルが貼られる上に「帰国子女」でないと、なんだか「貧相」な印象をもたれてしまわないかと、私自身が思ってしまうからだ。

この思い込みが、人に会うのが好きな私にとって、大きな壁になってきた。

英語が母国語の人とでも同様で、Wow, so you just studied in Japan? と言われても、気分は良くない。下手をすると、「そうだよ、悪いかよ」と、私の心がグレ始める。同じバイリンガルでも、自分は「泥くさい女子」というひがみや低い自己評価が自分の中で定着してしまった。

ニューヨーク
ニューヨーク

英語が母国語の人とでも同様で、Wow, so you just studied in Japan? と言われても、気分は良くない。下手をすると、「そうだよ、悪いかよ」と、私の心がグレ始める。同じバイリンガルでも、自分は「泥くさい女子」というひがみや低い自己評価が自分の中で定着してしまった。

どれだけ英語がネイティブ並みに話せて国際的な感覚を養うことができても、日本人で日本に住む限り、日本の文脈に従うことを求められる。

例えば仕事。日本で仕事に携わる女性たちの中には「日本的男性」に囲われ、もしくは味方につけることで一定の成功を収めている人もいる。

そうした構造に巻き込まれたくないと、相手と自立的な関係を築き、知性でもって経営に参画する姿勢を貫こうとする自分がいる一方、自分を曲げに曲げて日本的社風や日本人男性の評価をなんとか受け入れている自分もいる。海外からのプレッシャーももろに受けながら、日本人として日本人男性の下で、言われなくてもいいことまで介入されながら窮屈に仕事をしている。

38歳のいままでずっと、そんなダブルスタンダードの中で生きてきたが、いつのまにか「日本嫌い」というイメージを持たれ、「英語が話せるから調子に乗っている」というレッテルも貼られていると感じている。他方、他国の人からの評価は逆だ。自分の中の「日本離れ」は、ますます加速する一方だ。

筆者
筆者

自分を取り巻くそうした環境や、「日本生まれ」の自分へのコンプレックス、ひいては自分自身への低い自己評価は、 海外育ちのバイリンガルの人たちへの憎しみにもつながった。

あの人たちは自分流を国内で堂々と貫き、ドメスティックへの配慮もないし、そんな状態でも何も言われない。時には手柄を取りやすい立場にいるのだーー。そんな先入観をいつの間にか抱くようになり、腹立たしく思うことさえあった。

日本育ちであるが故に、日本的文脈から逃れられない自分からしてみれば、「帰国子女」のように、バックグラウンドがわかりやすい「枠」に入っているバイリンガルの人たちは、ある種「日本人離れ」が簡単に許されているように見える。

日本人の上司も「あの人たちはああいう風なのだ」と割り切っているようにも見える。だが、裏で陰口や弱音を聞く役目は、私のような立場の者に回ってくるのだ。

ニューヨークのカンファレンス
ニューヨークのカンファレンス

一部の「帰国子女」が、妙に高い立場に立っているのは、日本人の間にある欧米コンプレックスが一因ではないか、と感じている。自分の自信のなさを「(理解できない人との)考え方の違い」というベールに包んだ、ある種の「透明ガラスの床」が存在しているように思う。

「帰国子女」の人に、こんな批判めいたことを書いて申し訳ないと思う。だが、彼/彼女たちをそのように扱う人々のマインドの根底にあるものが問題なのだ。そしてそれは、自分の「日本生まれコンプレックス」にも通じる、と思っている。

今の日本では、わかりやすい「枠」に入っていない人をも認め合うオープンマインドな環境が欠如していて、人々がありのままの自分も尊重されていると思いづらい環境があると感じている。そうした心理から、自信や誇りを持っている人たち、高い自己意識の人たちに対して脅威を感じるのではないか。

「日本育ちのバイリンガル」と「帰国子女」の透明ガラスに遮られた「扱いの差」も、そもそもはそのような、自己尊重が欠如する傾向から来ているのでは、と思う。

どういう自分でも自分で、状況によって自分を育み、育てるという当たり前のことも、「枠」を必要とする自己表現に慣れていると難しくなってしまう。何かの「枠」、しかもブランド力のついた「枠」に入っていないと自分を認められない、そのような傾向があると肌で感じている。

ボストン
ボストン

例えば、他人からもっと認められたいと思っている人たちの中には、低い自己意識があり、「認められた」と思えるような経験とその経験のためのリソースが必要である。

高い自己意識や自分への信頼、誇りがあれば、他人からの承認は不要だ。自然に低い自己意識グループも、こぞって高い自己意識グループへ称賛を与える。なぜなら、彼らは自分を「認める」リソースとしての「他人」が必要で、自動で得られないと、「褒められるきっかけ探し」から初めて相手をコントロールしたり支配したりすることが必要になるからだ。

意識は本来自由で、人々は物質的にどんな状況にあっても、その自由さをもって、自分の思考やアイデアを練る事ができる。だが、その部分が抑圧されていると、過剰なおせっかいや過剰な称賛につながりやすい。それが反映されているのが、いわゆる「海外コンプレックス」であり、私がぶち当たった「日本生まれコンプレックス」なのではないか、と思う。

いずれこうした意識は、次第に薄れていくとしても、多様化社会のスタンダードと比べると、日本国内の状況は少し度を超している部分が多いと思う。「日本人は冷たい」という人がいるが、そういう人々が意味するのは「優しくない」ではなくて、「自分で自分に冷たい」し、それを押し付けられるように感じることだと思う。

もっと自由でいいし、もっと幸せでいいし、もっと人と違って良いのだけれど、それを実行するのは「意識」まで凝り固まっているところにいると、大変に難しいのだ。

近ごろは犯罪防止などの観点から、サードプレイスの価値が高く評価されている。家でも会社や学校でもない、第3の場所だ。そこでは自己愛を得るきっかけとなる、人々との認め合う幸せがある。

それらがあって初めて、自分というものを生きることができるのだと思う。

SHIROI CLERK
SHIROI CLERK
HuffPost Japan

様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。

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