数日前、「ダサピンク現象」関連の某記事に以下のようなブコメをつけた。
ohnosakiko 「女性はピンクが好き」という統計結果とダサピンク批判は両立するのだが、そこが理解されないのは多分一般的な男性にはダサいピンクとイケてるピンクの違い(その重要性)がわからないからじゃないかと思えてきた。
今更クドいがおさらいしておくと、ダサピンク現象とは、主に男性管理職が「女向けだからピンクでしょ」という考えで製品の色を決定した結果、女性消費者から「これじゃない」と思われがち、というケースを「象徴とした」現象。実際にそういうことが起こっているという声は、こちら(大本の最初の記事に引用されている)にあるし、この後同じような発言を幾つかtwitterで見た。
色に限らず、「女/男向けだからコレでしょ」という送り手の固定的な性差観、つまりジェンダー規範が感じられるもの全てを指して「ダサピンク」と呼ぶ感じになっているが、ここでは話を色としてのピンクに絞る。
現在、「ピンクが嫌いなのではなく、「女=ピンク」というステレオタイプの元に安易に決められた感のあるピンクが厭なんであって、主体的に選択しているピンクはカッコいいんだよ!」ということで、twitterでは#わたしのイケピンクというタグで、女性ユーザーが続々とピンクの画像を挙げている。
こうしたピンクのほぼ対極にあるのが、例の「文庫女子」と銘打った紀伊國屋書店渋谷店のあのほんわかピンクのポスターということになろう。
もちろん、パステルピンクでほんわかムード=ダサピンク/フューシャピンクで尖った感じ=イケピンク、という単純な図式は成立しない。強いて言えば、その製品の使われるシチュエーション、製品の素材や造形デザイン、広告のイメージや背後に感じられる文脈などと合わせて、そのピンクがダサいかイケてるかが判断される。その判断も、個人差はあるだろう。
だが多分女性には、ダサピンクとイケピンクの違いが感覚的にわかる人が多いのではないかと私は思う。
たとえば女性の多くは、メーカーによって異なるピンクやレッドやオレンジやベージュやブラウンが何十色とある中から、自分に合った口紅を選んでいる。ファッションも男性に比べ女性の方がはるかにデザインも色も多様であり、その中から自分に似合う一枚を選ぶということをしてきた。
というと、予め女性は誰でも確固たる自分のイメージを持っているかのようだが、実際はそうではない。さまざまな色やデザインを見た後で、「私の欲しかったのはきっとこれだ」「これは私の色」と事後的に発見し、選択する(なぜ男性はそういう「自分探し」をしなくて済んできたかはまた別の話になるので省く)。
その「多様な女性イメージ」を作るのに貢献してきたのは、男性である。芸術作品でも文学でも男性作家は、聖女から悪女まであらゆる女性の「型」を描いてきたし、ヘアメイクやファッション業界も男性が活躍してきたフィールドだ(ただし欧米のヘアメイク業界を見てきた友人に言わせると圧倒的にゲイが多いらしい。アート業界でもそういう話は聞く)。そっち方面の感覚の優れた男性たちに女性たちが加わって、女性のために作った分厚いセンスの下地がある。今、普通の女性は、最初からその下地の上に乗っている。
そういう女性の微細なこだわりが、普通の男性にはわからなくても仕方ない。別にことさら性差別意識を持っていなくたって、よくわからんという人はいるだろう。それは別にその人のせいではない。ただその男性が決定権をもつ立場に立っていた場合は、「あなたはわからないようだから引っ込んでて下さい」ということになるだろう。紀伊國屋書店のあれはそういう例だった。
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書店の話で言うと、全体にピンクっぽくて女性消費者もそれを受容しているように見える一例として、女性向けモテ本コーナーがある。タイトルに「モテる」「愛される」「恋をつかむ」「幸せになる」「うまくいく」といった、主に恋愛方面のヤル気満々な言葉が散りばめられ、表紙や背表紙の文字にピンク系が多いことで、そのコーナー全体がうっすらピンクっぽく見える棚のことである。最近は一頃のような勢いが衰えたが、大抵の書店の一角にしっかり設けられている。
このコーナーは、「一般的な男が望む女になるためにジェンダーを駆使せよ(「女」を仮装せよ)」と啓蒙するタイプのヘテロ恋愛色一色に覆い尽くされている。その象徴としてのピンク色。「女=ピンク」がステレオタイプとして女性から避けられる場合、このイメージが強いせいもあるのではないかと思う。
実は、このモテ本コーナーに以前、間違って私の本が置かれてしまったことがあった。
処女作である『モテと純愛は両立するか?』(夏目書房、2006)と、三冊目の『「女」が邪魔をする』(光文社、2009)。どちらもジェンダー関連のエッセイ・評論本で、どう間違っても恋愛指南のモテ本コーナーには入れない内容。
なのに、前者は表紙の女性のイラストとタイトルで間違われ、後者はタイトルは微妙ながら表紙が目立つピンクというだけで書店の人に勘違いされたらしい。もちろん著者の名前が売れていないのに加えて、帯のキャッチーが紛らわしかったこともあるだろう。「なんか違う棚に入ってましたよ」と読者から複数報告を受けた。
ピンクの方について、自分の本ゆえ自画自賛のように聞こえそうだが、デザイナーさんのお仕事を褒めたいので紹介する。
ワカマツカオリさんがイラストを描いて下さった一冊目の表紙も気に入っていたが、三冊目のデザインが決定して図像が編集者から送られてきたのを見た時は、とても嬉しかった。タダのピンクじゃない感が漲っていると思った。
作者: 大野左紀子
出版社/メーカー: 光文社
発売日: 2009/06/25
表紙を開くと、見返しが真っ黒。ちょっと禍々しい感じがイイ。カバーのイケピンク感が強調される。
そしてもう一枚めくると。章の扉がこの黒地に白まつげ(一章おきに白黒反転)。「表向きは「女」を仮装しつつ中身は違う? でも「仮装」=女だとしたら‥‥」という女性のジェンダー分析の内容に相応しい、絶妙なデザインだと思った。ブックデザインをして下さったのは、帆足英里子さん。
ちなみに韓国版(WORDS&BOOK PUBLISHING CO. タイトルは『彼女についてのすべて』に変更されている)はこういう中途半端にオシャレな装丁で、ちょっとイメージと違うかな?と思ったが、これってダサピンク現象だろうか。微妙なところだ。
小倉千加子の『結婚の条件』でさえ、表紙が今風の女性のイラストだったがゆえに、モテ本コーナーに間違って置かれるという現象を見たので、ピンクだったり可愛い外見だったりすると、「一般的な男が望む女(中略)」を啓蒙するタイプのヘテロ恋愛文化圏に押し込まれ易いということだ。これは本の装丁だけでなくいろんな物、人にも言えるだろう。
ピンクに罪はないが、ピンクの背負わされた業は深い。
*2:追記:ブコメにも書いたがその決定は「本質的」なものではない。その時の流行とそこに読み込まれる文脈に左右される。またオシャレな人が「いいね!」と言ったものが何か良く見えてくるということは普通にあるし、長い間に作られた個人の嗜好もある。誰もが明確な基準を持っているわけではないと思う。ただ一般的には男性に比べれば、女性の方がずっと敏感だろうという話。
(2015年1月8日「Ohnoblog 2」より転載)