やはり既存の社会システムの終焉は避けられないようだ

20世紀的な大組織(BIG)に代わる、新しいプロセス、新しい生態系等に関する社会全体としての構想/グランドデザインやそれに関わる準備は、日本ではまだまったく始まってもいないというべきだろう。大変な課題だが、私もできるだけ早く、何らかの貢献ができるよう頭を整理しておこうと考えている。

■外れた大予言

4月5日付けで掲載されているCNNの記事、『今となっては大外れ ウェブを巡る5つの「大予言」が興味深い。どんな5つなのだろうか。

予言1:スパムは2年以内に消滅する(米マイクロソフト創業者ビル・ゲイツ氏、2004年)

予言2:ウェブサイトが新聞に取って代わることはない(米誌ニューズウィーク、1995年)

予言3:インターネットは崩壊する(米技術者ロバート・メトカーフ氏、1995年)

予言4:ウェブは権力者による支配の終わりを意味する(米専門誌コロンビア・ジャーナリズム・レビュー、1995年)

予言5:ウェブで買い物をする人などいないだろう(米誌ニューズウィーク、1995年)

CNN.co.jp : 今となっては大外れ ウェブを巡る5つの「大予言」 - (3/3)

予言1を除けば、後は1995年時点での予言ということになる。1995年と言えば、Windows95発売もあって、インターネット元年と呼ばれた象徴的な年だ。今となっては、『こんな的外れな予言をするなんて、皆、権威にあぐらをかいたバカじゃないの?』と思う人も少なくないだろう。だが、1995年の空気を知る私としては、結構複雑な気持ちだ。当時はインターネットを過小評価する論調のほうが普通だったし、過小評価する側こそ、むしろ一見説得力ある議論を展開していたように思う。まだ始まったばかりのインターネットが世界を覆う未来など、論理的にいくら考えてもわからなかったのも無理はないともいえる。

結局、特殊な一握りの天才の想像力に頼るしかなかったということになるが、真面目な人ほどそれを素直に受け入れるのには抵抗があり、インターネットには懐疑的だったように思う。逆にいえば、当時の知性を代表する人や組織が、『変わるはずがない』と確信していた社会の構造を、インターネットは根本的にひっくり返してしまったとも言える。

■これからはどうなる?

では、2014年を起点として、これからはどうなっていくのだろうか。

先日、米国の著名なシンクタンクであるピュー研究所は、2000人以上(2,558人)の専門家を集め、10年後にウェブと人々のライフスタイルがどのような変化を遂げているかを予測し、その結果をまとめて発表した。すぐに日本語の記事にもなったので、ご覧になった人も多いと思う。表題を並べてみると次の通りだ。

1. 自分の周囲や、世界で起こっていることに対して更に敏感になる

2. 情報の共有は、まるで呼吸をすることのように自然なことになる

3. 身体に装着して使用するウェアラブルデバイスが医療を変える

4. 政府が統制能力を失う可能性がある

5. インターネットが(さらに)細分化される

6. 全ての人に教育が行き届く

7. 持てる者と持たざる者の格差は拡大し、暴力に繋がる可能性がある

8. 今以上に、ハッカーなどの脅威にさらされる

9. プライバシーは贅沢品になる

2000人以上の専門家が予測。今後10年間でインターネットが世界を変える9つのポイント : ライフハッカー[日本版]

■社会構造自体変わる

さすがに、すでにインターネットが世界を覆いつくした現代社会が前提となっており、『インターネットは崩壊する』という類いの極論はない。そして、10年後の未来予測というよりは、すでに出現しつつある現在から数年先まで引き延ばした程度の、案外保守的で慎重な予測にさえ見えてしまう。だが、実はそうではない。この予測、かなり『ラジカル』だ。この予測を深読みし、理解するには、ある前提条件が必要なのだ。そのためには先ず『先入観』という眼鏡をはずす必要がある。

年初以来、私自身、今後の世界を変えてしまうくらいのインパクトのある存在として、『アルゴリズム』『人工知能』あるいはそれにフルコミットする、Googleを初めとする米国のIT企業(Apple、Facebook、Amazon等)をとり上げ、今後の未来世界には現在の人間の仕事や活動の広範な部分が機械(アルゴリズム/人工知能)に置き換えられて行く可能性について述べて来た。

私の記事の書き方にも問題があったのかもしれないが、どうしてもこういうことを書くと、既存の日本社会を前提に、仕事が機械にとられて失業者が世にあふれてしまうとか、米国のIT企業を世界規模のグローバル資本主義の先兵に見立て、それに異議を申し立てたり、感情的に忌避し排除しようとしたり、逆に無理に追従しようとしたりと、いただく意見や感想が、の枠の中を前提にした内容ばかりになってしまう傾向がある。皆、『従来の社会構造は、変化はしても原則同じ』ことを無意識的にであれ暗黙の了解/前提条件としているわけだ。先入観という眼鏡をかけているともいえる。だが、そのような前提自体がもはや非現実的だ。

1995年から今まで、インターネットの企業や社会に与えるインパクトは実に大きく、多大な変化を余儀なくされて来たとはいえ、その骨格/構造にあたる部分については、日本では、ギリギリ、従来のあり方を崩さないでここまでやってこれた(既存の保守勢力の必死の努力の賜物?)。だが、加速がついてすべてが猛スピードで変化する今となっては、これから10年もあれば、従来の社会構造(企業/組織、市場、社会、慣習、国家等)の刷新が、根本的な変革が、起きてこないと考えるほうがむしろ不自然だ。(日本の場合、内側から誰かが起こす、というより外部から余儀なくされる、という感じになるだろうけど。)

■ビッグの終焉

この点、ハーバード大学ケネディスクール講師のニコ・メレ氏による、『ビッグの終焉』*1で展開されている指摘/認識は重要だと私は思う。メレ氏は、

ピュー研究所のまとめは、20世紀的な大組織(BIG)存続を前提に読むと、さほどインパクトがないように感じる。だが、このメレ氏の提示する考え方すなわち、20世紀的な大組織が『ラジカル・コネクティビティ』によって崩壊しつつあることの現れと見ると、非常につじつまが合う。先に『ビッグの終焉』を読んでいた私は、ピュー研究所が回答を依頼した、専門家2,558人が異口同音に、このメレ氏の指摘/認識に共鳴し、一方、ラジカル・コネクティビティのもたらすであろう社会の無秩序に不安を感じている様を、その場いるかのようなリアリティを持って感じることができた。(そして、私の集めて来た未来予測に関する情報の多くも整合する)。

日本では違う、という意見も出そうだが、本当にそうだろうか。

確かに日本は、地震でも原発事故でも変わらない強固な保守マインドの只中にあるように見える。政治も、長い迷走の末に結局保守回帰してしまった。だが、一旦市場に目をやると、米国の四天王(Google、Apple、Amazon、Facebook)等が日本の市場を席巻し、それこそ市場を根本的に変革している途上にあるように見える。そして、何度も私のブログで述べて来たように、『アルゴリズムとビッグデータ』が市場をさらに席巻する未来はもはや避けようがないと考える。

一方、今、米国の四天王の席巻する日本の市場に堂々と、あるいはゲリラ的にであれ、反旗をひるがえし、ひるがえそうとしている日本の組織は、いずれも20世紀的な大組織(BIG)ではない。日本なりのラジカル・コネクティビティは、米国等のそれとは違った独自の(2ちゃんねる、ニコニコ動画等に代表されるような)厚みと豊かさとポテンシャルを持つ。そして、それを背景に立ち上がり、立ち上がろうとしている組織や人がちゃんといることは間違いない。(ただ、いずれも、ナイ氏のいう『小さなもの』がほとんどだ)。

少なくとも、今の日本の市場がそのように見える私には、日本でもピュー研究所の指摘は大変リアリティがあるように感じられる。

■準備の遅れる日本

日本の場合、ビジネスシーンより、ラジカル・コネクティビティの帰結としての社会がどうなるのか、というより、どうしていくべきか、という点での認識やコンセンサスがあまりに遅れていることが気にかかる。

その点で関連するピュー研究所のまとめの7について、内容を含めて引用すると次のようにある。

7. 持てる者と持たざる者の格差は拡大し、暴力に繋がる可能性がある

ペンシルベニア州のアネンバーグ大学名誉教授Oscar Gandy氏は次のように予測しています。「経済活動がネットワーク化されることで、世界人口の一部に富が集中することになります。この流れは加速し、不平等が拡大するでしょう」ソーシャルメディアは不満のはけ口になっているだけですが、現状を打開する手段として使われる可能性もあります。ただ、「アラブの春」のように必ずしも平和的な方法が取られるとは限りません。

20世紀的な大組織(BIG)に代わる、新しいプロセス、新しい生態系等に関する社会全体としての構想/グランドデザインやそれに関わる準備は、日本ではまだまったく始まってもいないというべきだろう。大変な課題だが、私もできるだけ早く、何らかの貢献ができるよう頭を整理しておこうと考えている。

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