大島渚:「何いってんだ、バカヤロー!」
金栄作:「バカヤロー、何いってんだ、貴様!」
1984年7月17日から18日にかけて、下関と韓国・釜山(プサン)を結ぶ関釜フェリー船上にて、日韓文化人の討論会が開かれた。参加者は、日本から大島渚、中上健次、岡本太郎、筑紫哲也ら6名、韓国から金栄作、崔仁浩、李禹煥ほか8名。これは、テレビ朝日・韓国放送公社の共同制作で実現し、後日両国にてテレビ放映されている。
およそ5時間にわたる議論のテーマは、日本と朝鮮半島を結ぶ「玄界灘に新しい道を開く」。しかし、議論はどこか噛み合わなかった。討論の合間の夕食会では、各自酒もあおっていた。「とりわけ酒量が目立った」のが大島渚(フェリーで取材していた井川一久・朝日新聞社編集委員〔当時〕の言)。酒の入った大島は、韓国側の発言に我慢できなくなり、冒頭の言に至った。俗にいう「玄界灘のバカヤロー!事件」である。
激高した金は席を立った。場は騒然としたが、やがて金が席に戻り、落ち着いた。なお、金は日本語で「バカヤロー」と言い返している。「貴様」という語の選び方も、戦前の植民地期を生きた日本語世代ならではかもしれない。金は当時47歳。
では、なにが大島の激昂を招いたのか。その伏線を張っていたのは、芸術家の岡本太郎である。
岡本:私は日本人意識はないんです。世界全体の人間、宇宙人、ユニバーサルな人間でなければならないのに、日本人は日本にこだわる。〔中略〕
大島:(その点では)岡本さんに基本的に賛成で、きょうのような話し合いがトータルにナンセンスだと思うのは、つまり韓国人だ、日本人だと、違いを話すことにはほとんど意味がないからです。おれたちはこういうことで共通しているという話がしたい。
こののち、民族や国家を超えたユニバーサルな立場から議論をしようと韓国側をあおるのは、主に大島であった。
「日本人に民族的な良心なんか期待しないで下さい。近代化が終わったら、もう民族の良心なんかなくて、個人の良心だけが問題だ。今や韓国も、そろそろ民族の良心はなくなりつつあるんじゃないか」。「日韓の関係を政治的にも完全にいいものにしようなんて、幻想です。おれは日本の代表として来たんじゃない。全くの個人だ。もし代表するとしたら、日本の少数派の代表だ。それを間違えて、発言なんかしないでほしい」。「個人の問題をこそ放送すべきですよ。それが民主主義と自由の原則です」(この言葉のあと、まもなく冒頭の一節に至った)。「韓国と日本なんて、世界全体からみれば、ケチなこと」。「政府は永遠に謝らない。問題は一人ひとりの個人、民衆なんだな。全世界の民衆の一人としての韓国人と日本人、そういう立場でつきあいたい」。「日本が滅びたって、ちっともかわまない」。
このとおり、大島はコスモポリタン(世界市民)の立場、あるいは個人の立場から議論を進めたがっていた。他方、韓国の政権与党の一員だった金栄作をはじめとする韓国側は、日本側の参加者を国家代表としてみなしたがり、日本の歴史上の誤りを認めさせたがっていた。当然、大島からすれば、国家代表として韓国側に日本の過去を謝罪することなど、まっぴらごめんだったろう。
1982年に起きた日本の歴史教科書問題以後、日韓間で歴史問題がクローズアップされていた時期である。ソウル五輪開催を1988年に控え、近代国家としての発展途上にあった韓国側からすれば、そりゃないだろうとの思いがあったはずである。
戦後、一度も戦争をしてこなかった日本は、経済的繁栄を享受してきた。そして今や、過去をろくに顧みることなく、個人主義、「宇宙人」の境地、いわばポストモダンの境地にたどり着こうとしている......。世界をみすえて仲良くやってゆこう。こうした日本側の態度に韓国側が歯がみするのは、心情的には理解できる。肩すかしを食らったとの思いがあっただろう。
しかし見逃すべきでないのは、まず、映画監督としての大島渚は、かなり先駆的にコリアンの問題を扱ってきたという点である。2014年1月、日本テレビが半世紀ぶりに公共の電波に乗せたドキュメンタリー作品「忘れられた皇軍」(1963年)は、長らく大島の幻の傑作とされてきた。日本軍人として働いた朝鮮人傷痍軍人への補償を行わない戦後日本の現状を映し、視聴者を正面からドキリとさせる作品である。それ以外にも、「絞死刑」や「ユンボギの日記」「青春の碑」など、大島がコリアンを扱った作品は多い。
また、討論会の前年には、関川夏央『ソウルの練習問題』が日本で話題となり、一般市民レベルでの韓国への関心が高まりつつあった。1980年代の日本では、日中・日韓関係よりかは、むしろ貿易摩擦をつうじた日米関係の方が問題とされがちでもあったのである。
以上のような事情があったにもかかわらず、本来韓国に関心を持ちつづけ、日本国内ではリベラルと目される文化人とも対立を先鋭化させてしまったというのは、韓国側にとってほろ苦いことだったろう。当時の時代状況では仕方なかった面も大きかったとは思うが。
では、今日ではどうだろうか。なお仕方ない、といっていいのか。今日の日本のリベラルが、韓国政府や一部韓国人の強硬な態度を前にとまどいを覚え、どう連携していいかわからないということは、ままありうることである。
その一方、今日では日本の一部メディアや活動が、韓国のそれらと合わせ鏡のように、露骨に勇ましくなっている点も無視できない。セウォル号事件に関する一連の報道でも、やはり遅れた国だとレッテルを貼ってほっと安心するかのようなものが、しばしばみられた。
日本も韓国も、かつての、ややとぼけた日本の文化人のような「宇宙人」的な視点を、今よりほんのちょっぴり多めに持とうとしていいのかもしれない。その視点からすれば、少子化問題や格差問題を挙げるまでもなく、両国が共通して抱えている課題はかなり多い。それらのほとんどは、グローバルな課題とも連動するものであろう。
日本では韓流ブームの沈静化、「同情疲れ」のあとの反動、そして韓国では歴史問題の政治争点化を経て、日韓関係はもう底がみえるところまできた。さぁ、ここから、である。至近距離で顔を見合ってばかりいては、毛穴、しわ、たるみが目につくようになるのは当たり前である。そうするばかりでなく、両国の市民が共通の社会的課題を見つめるチャンスが、もっとあってもいい。そして、わかりあえないことはわかりあえないこととして一時棚上げにする(agree to disagree)のも、政治的には立派な英智である。
たしかに、1984年当時の大島らの知的態度は、一足飛びにユニバーサルな価値観を称揚しすぎたかもしれない。けれど、もはや時代は1980年代ではない。「宇宙人」の境地に、片足とまではいわずとも、つま先だけでもつっこんだ形の議論が、今よりかは増えてもよいと思う。
*討論会の主要部分のやりとりは、『朝日新聞』1984年8月15日、『朝日ジャーナル』1984年8月10日号に掲載されている。