「アジア人はバスケ出来ないだろ?」日本人バスケ男子、アメリカへの熱き挑戦。 (若松千枝加 留学ジャーナリスト)

高校卒業と同時に、もうバスケをやめようとも思ったんです。でも...

(写真はプレー中のTAIKIさん)

ここにご紹介するTAIKIさんは、バスケットボールをするため高校卒業と同時に「世界一のバスケ大国」アメリカへ渡った。自分の将来を迷っている人たち、岐路に立っている人たちにとって、TAIKIさんの経験は参考になるのではないだろうか。TAIKIさんの挑戦と今後について直接話を聞いてみた。

■「バスケはもうやめようと思っていた。」

堤太輝さん(以下 TAIKI さん)。現在32歳になる彼だが、高校卒業時、彼にとってバスケは大好きなものであり、かつ複雑な存在でもあった。

「高校卒業と同時に、もうバスケをやめようとも思ったんです。地元福岡の強豪校バスケ部に所属していました。そこは日本のスポ根そのものの部活動。もちろん根性は大切で必要不可欠な事なことだけど、どこかで心からバスケを楽しめていない自分がいました。」

未練はあった。

「最終学年でタイミング悪く、心臓の病気を患ってしまって・・・。めちゃくちゃ悔いを残したまま引退となったんですよ。諦めがつかず、世界一のバスケ王国アメリカで自分の大好きなバスケをもう一回思いっきりチャレンジしてみたいと思ったんですよね。そこで、下見を兼ねて夏休みにアメリカに行ってみたんです。」

この短期旅行がすべての始まりだった。

「アメリカにはプレイグラウンドと呼ばれるバスケのコートが町中にありました。そこでストリートボールに出会い、バスケの楽しさや面白さを実感しちゃいました。"バスケが一番で最高!"と心から思いましたね。」

わずかに念頭にあった日本での大学進学を選択肢から完全消去。TAIKIさんはアメリカ・カリフォルニアへ渡る。

■「アジア人はバスケ出来ないだろ。一緒にはプレーしたくない。」

TAIKIさんが留学したのはカリフォルニアのベイカーズフィールド(Bakersfield)という小さな街だ。

高校を卒業した3月末にすぐ渡米し、4か月間の語学留学を経て地元のコミュニティーカレッジ・ベイカーズフィールドカレッジ(Bakersfield College)に入学する。

「専攻はリベラル・アーツ(一般教養)。この学部を選んだ理由は、将来4年制大学への編入も念頭にあったこと、それから、バスケ部のメンバーのほとんどがリベラル・アーツ専攻だったことです。」

カレッジへの入学準備期間中も、TAIKIさんはバスケがしたくてしたくてたまらなかった。18歳の日本人男子は町じゅうのプレイグラウンドを探してプレーしたそうだ。

「コートでは負けたらその日は順番が回ってこない時もある。みんな、勝ちに対して貪欲でハングリー精神むき出しでプレーしてましたね。」

アメリカでバスケ生活のスタートを謳歌しているようにも聞こえるが、渡米当初からTAIKIさんには「アジア人」というレッテルがつきまとっていた。ベイカーズフィールドは小さな街だ。比較的日系移民の多いカリフォルニア州にありながら、この街は特異と言える。アジア人が極端に少ないのだ。

「最初は『アジア人はバスケ出来ないだろ、だから一緒にはプレーしたくない』と言われました。だからチーム決めのときにも選ばれないんですよね。

順番を待ってやっとコートでプレー出来るようになっても、最初はパスは一回も回ってきません。ボールを奪ってシュートを決めたら、そこでやっと味方からパスが回ってくるという状況でした。

でも、ある意味ハッキリした実力社会なんですよ。自分の中ではチャレンジする楽しさと、上手い選手とやれる喜び、そして徐々に認められていく過程、その3つがとても充実して面白かったですね。」

■シューズを盗まれることも

カレッジ入学後は、正式にバスケ部に所属する。もちろん、何もコネクションはない。ましてや外国人であるTAIKIさんにとってはスムーズではない。

「コーチの部屋へ直接行ってトライアウトを受けさせてくれないかと交渉しました。トライアウトを経て短大バスケ部へ入部する事が出来ました。」

だが、アジア人はTAIKIさん一人。すぐにはチームの輪へ溶け込む事は出来なかった。

TAIKIさんは気合のプレーを見せ、真摯な練習姿勢を貫くしかなかった。やがて、その姿が徐々にチームの目を変えていくようになる。

信頼は増していった。アジア人の洗礼とばかりにアウェーの試合で観客席からブーイングを浴びさせられたり、ロッカーを壊されてバスケットシューズを盗まれたりしたときはチームメイトが守ってくれたそうだ。

「多少の差別は気になりませんでしたよ。見返してやりたい気持ちも大きかった。むしろ、ネイティブの輪へ入れたことは英語力を鍛えるという意味でも自分自身に貴重な事だったですしね。バスケという共通の話題があれば、コミュニケーションはどんどん深まります。」

■生き残りをかけてプレーするアメリカのバスケ

アメリカの選手はとにかくハングリーだったとTAIKIさんは言う。

「自分がいた地域は、貧富の差も感じられる場所でした。選手のなかには、家族を養うために、練習が終わった後に授業を受け、それから仕事に行く人もいる。

彼らはバスケで結果を残し、強い大学に入って、プロになって成功してお金を稼ぐために、毎日生き残りをかけてプレーしていました。改めて日本は恵まれていると実感しました。」

バスケの世界で、アメリカで成功するということは、人生の勝者になることを意味する。NBAの試合中、華麗なプレーに会場が沸き立っているのを見ると、さぞかし個人個人のアピールが強いのではとも思われるが、意外にも"派手なプレー"はコーチからこっぴどく叱られるのだとか。

「練習でもファンダメンタル(基礎練習)の時間が多かったですね。より確実に相手に勝つための選択肢を求められる習慣がありました。結果としての派手なプレーは、基本をきちんとこなした上でのことなんです。」

厳しくも多彩な経験をしたアメリカ留学。留学を終え帰国したTAIKIさんが、日本で新しいバスケに挑む話は後編でご紹介していこう。

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