■「平均」という生き方
ライフプランに「平均」はない。個人の人生はみな個別であるからだ。そうは言っても、ファイナンシャル・プランナー(FP)がライフプランの相談を受ける時、統計的な平均データを参考にすることはある。収入、支出、貯蓄、教育費や住宅費、退職金など。しかし、これらはあくまで平均の参考値であって、その金額をキャッシュフロー表分析などに落とし込んだりはしない。もし、そういうデータをそのまま使うFPがいたら、疑問を抱いた方がいい。
しかし、大学の入学金や授業料などは平均データではないかと言うかもしれない。あれは単に実際にかかる金額を公表しているだけで(そうでないと資金準備ができない)、全国の学費を足して割って1大学当たりの平均額を出しているに過ぎない。大学に行くか行かないか、奨学金をもらうか、アルバイト収入で学費を稼ぐか、住み込みで新聞奨学生として通うか、これらはすべて平均の教育費では割り出せない。
同じように、老後の必要生活資金というものがある。いっとき、60歳で退職した後の必要な金額として「3000万円」説が流布した(今でも流布中か?)。この金額は、あながちいい加減なものとは言えなかった。
夫婦2人の1カ月の生活費が30万円(1人期では21万円)で退職後の合計支出額は約9900万円、夫婦の公的年金収入の合計額は約6800万円、差し引くと単純に3100万円。夫の平均標準報酬月額は37万円(大雑把な言い方で勤務生涯の賞与を除く平均月収が37万円)で、妻は生涯専業主婦。夫婦とも、平均余命まで生きるという「平均」的な生活者という前提である(以上、総務省、厚労省などのデータを参照し概算額を試算)。
■平均並みを目指すことの落とし穴
ごく普通の夫婦がごく普通に働いてきて、ごく平均的に老後生活を生きていく。人生が、普通に平均的なものなら何も心配はいらない(面白味もないが)。だからみな、普通であることを気にするのだ。ライフプランの相談で、「普通、平均して生活費はどれくらいかかっていますか?」と問われることがある。そういう時は、全国の平均値を出すことはできるが、肝心なのはあなたの家計はどうですか、と問い返してみる。
また、「大企業の社員で40代の年収って、普通どれくらいですか?」とか、「退職金は平均、どれくらいもらってますか?」と尋ねる人がいる。これらは「世間では普通どうなのか」ということが気になるから聞いてくるものだ。そして、こちらの答えを聞いて妙にほっとしたりする。「世間では、そんなものか」、「よかったぞ、自分の方が平均より収入が上だ」とか、「平均には及ばないが、まあ、うちも捨てたものじゃない」など、反応は様々だ。
だが、生活レベルが世間の平均よりぐんと下だと、とたんに不安がる。やっぱり自分の収入は平均以下なのかと、自己否定とはいかないまでも落ち着かなくなる。行動経済学の主要バイアス(偏向的意識)に「アンカリング」というものがある。意識のどこかにアンカー(錨)が掛かることをいう。その状態で物事の判断がなされてしまうバイアスである。
平均より上でありたい、せめて平均並みな生活がしたい、平均より下であるのは耐えられない。こうした意識はみな、「平均」というアンカーによる比較から起こる。大企業の社員の給料より自分の方が低い、同じ会社レベルでも自分の給料は劣っている、などと平均の額というものに意識がひっ掛かっていると、なかなかそこから抜け出せなくなる。
結局、同世代での平均的な貯蓄額はいくらか、平均的な保障額はいくらかが気に掛かり、平均並みを目指して無駄な保障プランにはまったり、余計なリスク商品に投資したりするようになる。
■人生は靴選びのようなもの
まことに人生は靴選びのようなものだ。あなたは今、靴を買おうとしている。靴のサイズは25.0センチ、ヒール高は6.0センチ、つま先は細目。店頭に出ている靴は、デザインはいいがどれも足にフィットしない。店員は「普通、これが平均的なサイズですよ」と勧める。それで無理に足を合わせて買ってしまう。
だが、足のサイズというものは、左右で長さも幅も違う。偏平足もあるし、甲高もあれば外反母趾もある。膝下の高さも違うものだ。本当は靴こそ既製ではなくオーダーにしたいものだが、大抵の人は手ごろな既製靴を買って、後で足が合わず後悔する。それでつま先やかかとに詰め物をして、応急措置をとる。これは誰でも経験することだ。
社会に出て最初から靴をオーダーする人はそういない。陸上アスリートのように自分の足を熟知している人ばかりではない。ライフプランもまた、人生の途中までは「平均」という既製靴を履いて生きてきたと思う。平均より上か下かで人生の価値が決まるわけではないという価値観を持ってきたつもりだが、ようやく60歳(あるいは65歳)を意識し始める年代になると、さて、世間では普通どうしているのかと不安になってくる。
■いまや何が「普通」なのか
ところが、時代はすごい勢いで変わっている。60歳で定年退職して無職のまま余命まで生きる人はあまりいなくなった。また、中小企業などでで給与や退職金があまり望めなかった人でも健康で働く意欲があって、仮に夫婦で月に20万円稼ぐと少額の年金収入を合わせれば、それなりの生活ができる。80歳までとは言わないが、70歳過ぎても働く意欲さえあれば、「3000万円」説までの老後資金はいらなくなる。政府の「働き方改革」によれば、65歳はもはや高齢者ではなく、70歳以上でも働き盛りである。いまや「平均」とか「普通」とかいう意味さえなくなった。
もちろん、誰もが老後ずっと健康でいられるわけではないし、健康であっても70歳まで働こうと思っている人ばかりではない。それこそ、人それぞれであって、「平均」ではない。ただ、平均を知ることは無駄なことではない。それは1つのアンカー(錨)であって、それを超えようとすること自体、悪いことでない。問題は、アンカー(錨)が意識に下りたままでいることだ。その時に良からぬ勧誘に陥りかねない。
■投資運用は「平均」を目指せ
こうして、「貯蓄が平均より少ないですね」とか勧誘者に言われると、老後資金は足りるのか、投資しなくては・・・と焦りだす。ここで気になるのが、老後のための資産運用である。投資信託の運用には、「アクティブ」(積極)運用と「パッシブ」(消極)運用がある。前者は「平均」を超えることを目指し、後者は「平均」に追随することを目指す。勘違いしないでほしい。「あなたはアクティブに生きるか、パッシブに生きるか」と問われているわけではない。そう問われれば、誰でもアクティブに生きると答えたいだろう。「平均に堕す」よりは常に平均を超えるという意味にも聞こえるからだ。
資産運用は、靴のように手っ取り早い措置はきかない。運用についてはここまで書いてきたことと矛盾すると思われるが、「平均」つまり市場への投資であるインデックス運用(パッシブ)をとった方が無難だ。これは長期的な視野に立って市場に任せるということであって、ライフプラン関連の統計データの「平均」とはわけが違う。
同じ「平均」という言葉でも、運用でいう「平均」とは「市場」(マーケット)のことである。アクティブ運用は、市場に投資するパッシブ運用に圧倒的に勝てないという調査結果がある(C・エリス著『敗者のゲーム』等に詳しい)。投資運用上の「平均」の意味は、ライフプラン上のものとは違う。むしろ運用では、平均(市場)に任せて長期の成果を期待したい。それがある意味、「平均超え」にとらわれない生き方にもなる。
【参考記事】
野口俊晴 ファイナンシャル・プランナー TFICS(ティーフィクス)代表