藤井浩人・美濃加茂市長の無罪判決は、初動の断定的報道を考えるきっかけにすべきだと思う。

岐阜県美濃加茂市の藤井浩人市長の収賄に関する第一審の判決が出ました。検察の主張には合理的な疑いが残る、という裁判所の判断を経て、無罪と言う結果となりました。
時事通信社

長らく注目を集めてきた岐阜県美濃加茂市の藤井浩人市長の収賄に関する第一審の判決が出ました。検察の主張には合理的な疑いが残る、という裁判所の判断を経て、無罪と言う結果となりました。上告をするしない含め、判決が確定したわけでは決してありませんが、しかし大変重要な判断が示されたと思います。

岐阜県美濃加茂市の雨水浄化設備導入をめぐり30万円を受け取ったとして、事前収賄罪などに問われた市長の藤井浩人被告(30)の判決が5日、名古屋地裁であった。鵜飼祐充裁判長は、贈賄側業者の供述について「不自然に変遷している。現金授受は認められない」と述べ、無罪(求刑懲役1年6月、追徴金30万円)を言い渡した。

(中略)

鵜飼裁判長は、中林受刑者の法廷証言について「授受を知られたくなかったというのに、同席者が席を離れた様子を説明しないなど、臨場感がない」と指摘。捜査段階の供述も「同席者がいたことや現金の渡し方を後になって思い出し、見逃しがたい問題が多い」と判断した。

証言態度に関しては「全体として具体的、詳細で、弁護側の質問にも揺らがなかった」と評価したが、「融資金詐欺を行う能力があれば、体裁を整えて証言するのは難しくない。証人尋問の前に検察官と入念な打ち合わせも行った」と述べた。

その上で、「詐欺事件の処分を軽くするため、捜査機関の関心を他の重大事件に向けたり、意向に沿う行動に出たりすることは十分あり得る」と指摘し、虚偽供述と結論付けた。(時事ドットコム

昨年の6月の逮捕を経て多くのメディアでこの収賄事件について報道がなされてきましたが、初期報道において、複数のメディアが、有罪断定的な論調であったことは、改めて省みられるべき事象でないかと考えます。

たとえば、、、逮捕された2014年6月24日のとある新聞は以下の様に報じています。

29歳市長 危うい手腕 施策 庁内に疑問の声

全国最年少の市長に収賄疑惑が持ち上がった。

(略)

疑惑について「やましいことはない」と繰り返してきたが、市役所内では、市長の打ち出す政策に疑問の声も上がっていた。

(略)

若さと斬新さを掲げ、古いしがらみを否定し、若い世代に支持を訴えた末の勝利だった。

就任後は自ら出演する動画を市ホームページで公開し「イケメン市長」と呼ばれた。インターネットを通じて行政施策を募る

(略)

独自施策を次々と打ち出した。市議時代から参加する政治塾や若手市議の会など、独自の人脈からヒントを得ていたという。

だが、その政治姿勢には「危うさ」もつきまとっていた。市関係者などによると、市長が提案する案件には実現性や費用対効果を疑う声が市内部で出ていた。市職員の誰も知らない業者や大学関係者を突然、連れてきて、事業説明をさせることも。ある市幹部は「アイデアに偏りがあり、性急さが出ることがあった」と漏らす。

市は2014年度、新規事業の採算性や請け負い企業の体質をチェックする「コンプライアンス委員会」を庁内に設けた。きっかけは、藤井市長への贈賄疑惑が強まっている地下水供給設備販売会社社長(43)が今年2月、愛知県警などに逮捕されたこと。メンバーは市長を除く市幹部で、表向きは事業の採算性などのチェックだが、市長の持ち込み案件に不正や不審な点はないか調べるのが本当の目的という。

大型連休中の5月6日。藤井市長は岐阜市内で、サッカーのJリーグの試合を観戦していた。スタンドからフェイスブックで「頑張れ!\( ^ o ^ )/」のメッセージを発信。市長職を離れ、一人のサッカー好きの若者に戻っていた。だが、市幹部は誰も、市長のJリーグ観戦を知らなかった。その一人は「人脈が広く、公務がない日は何をしているのか、よく分からない」と話す。

もろさも同居していた青年市長。掲げた理想は就任後わずか一年で、頓挫の危機に直面している。

無罪判決を受けて、今日の報道では「警察・検察の取り調べや意思決定に問題がなかったか?」といった疑問を呈す論調が見られますが、そもそもメディア自身が、自身の有り様を見直すべきではないか。

6月24日のこの記事は、果たして中立的といえるのでしょうか。収賄の話の前から、こうした論調であればまだわかります。が、しかし、実際は収賄容疑で逮捕後からのこの展開。

仮に百歩譲って有罪という判決になるのだとしても、推定無罪の原則であるはず。報道が中立であるべきなのです。

この事件について取材を進めてきたある新聞社の記者は

警察発表による情報に基づく報道が中心になるとはいえ、有罪無罪は警察が決めることではない。一部の新聞社の断定的な報道は、やはりバランスを欠くものだったと思う。岐阜県の小さい町の首長なんてどうでもいい。どうにでもなる、という驕りがあったように感じる

とコメントした。同業者からみても、まさに「危うい報道」だったと写っているのでした。

判決の是非はそれとしても、改めて犯罪報道のあり方、メディアのあり方と中立性が真摯に問われる事件でしょう。推定無罪の原則を前に、特定のニュースソースを元にした断定的な報道が許されるのか。

多くの人々の心象を左右し、大きな影響力をもつメディアの在り方を再度皆で考えていく必要があるのでは、と思うのです。

ではでは。

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