無宗教国家日本が世界を救う

今後、日本のお寺が本来の宗教性を発揮し、日本がまるごと世界のお寺=templeとなって、世界中から訪れる人が生きる意味を問い、自らが生きているという経験を取り戻す舞台環境を提供できれば、これほど素晴らしいことはない。そう思いませんか?

あなたの宗教は何ですか?と問われると、

少なからぬ日本人が「無宗教」と答えます。

その場合はたいてい「宗教」が

・人の価値観や行動に規範を与える(縛る)もの

・非合理的な超越者を設定し、それを盲信する態度

・自ら意思決定できない心の弱い人がすがるもの

として捉えられています。

自分は理性的に物事を捉えているし、

誰にすがることもなく、自分は自分の足で立っており、

そのような「宗教」を必要とする弱い人間ではない。

それを表明するため「無宗教」を宣言します。

しかし、私が見る限り、

日本人は決して「無宗教」ではありません。

正月には神社へ初詣し、葬式には僧侶に読経を頼み、

年末にはクリスマスを祝うということもありますが、

自然に畏敬の念を抱く神道的な世界観や、

世のはかなさを観ずる仏教的な世界観など、

現代の日本人の価値観や行動は

過去から受け継いだものに大きな影響を受けています。

さらに広い意味で宗教を捉えるならば、

神道や仏教など以上に日本人(のみならず世界中)の価値観や行動に

影響を与えている「宗教」として今もっとも影響力が大きいのは、

「お金教」や「科学教」ではないでしょうか。

お金は皆がそれをお金と信じるからお金になるのであり、

強固な、あまりにも強固であるがゆえに意識されないほどに強固な、

共同幻想の上に成り立っています。

ときに人が自らの信念を曲げて、命を賭けてまで追い求める

お金という共同幻想、これは立派な「宗教」です。

また、科学も「宗教」に近い。

飛行機が飛ぶメカニズムも科学的には明らかになっていないのに、

私はすっかり安心して飛行機に乗っています。

この根拠のない安心はどこから来るのか。

「自分は細かいことは分からないけれど、科学の進歩によって、

あらゆる物事は科学によって明らかになるし、なっていく(はず)」

という強固な信仰を、無意識のうちに抱いているのです。

さらに最近では、国家や民族という「宗教」に自己の

アイデンティティを重ねる風潮も強まっています。

そのように考えると、

多くの人が「宗教」という言葉からイメージする、

・人の価値観や行動に規範を与える(縛る)もの

・非合理的な超越者を設定し、それを盲信する態度

・自ら意思決定できない心の弱い人がすがるもの

などから完全に自由な位置に立っていられる人など、

皆無であることが分かります。

誰しも少なからず自己の外部から与えられた役割に縛られて、

他人のモノサシで自分の価値を測り、

点数稼ぎに時間とエネルギーを浪費し、

自己の根源において大切なことから目を背ける日々を過ごしています。

逆に言えば、本当に「無宗教」の立場に立てた人がいれば、

その人は自己の外に作られたいかなるものに依ることもなく、

ブッダの説くところの自灯明法灯明、

「自己を拠り所とし、自然の法を拠り所とせよ」

を貫徹しているわけですから、それはすでに悟りの境地です。

実は、どのような宗教であれ、およそまともな宗教は、

人間の価値観や行動を縛るためにあるのではなく、

社会を覆いつくす外的に与えられたシステムや基準によって

意識・無意識的に縛られてしまっている人間が、

本来の自由を取り戻すためにあるのです。

自由。

この言葉自体、もともと仏教用語だったものが、

欧米の概念を翻訳する際に訳語として駆り出されたものです。

もともとの意味は、

自由=あらゆる依存から解放され、自己を生きること。

宗教とは、

無意識のうちに入信してしまっている「宗教」から人が自由になり、

本来の自己を生きるための知識と実践の集合です。

***

ではなぜ、宗教をめぐって世界に紛争が絶えないのでしょうか?

残念ながら、どんなに価値ある素晴らしい発明も、

人間が関わる限り、放っておくと「宗教」になってしまうのです。

お金、科学、国家、民族・・・すべて「宗教」になって争いを招きます。

そして、宗教そのものも「宗教」になる。

それを信じる人が集まって共同体を作り、

信者を増やそうと努め、信じない人を排除し、敵と見なして対立する。

それは宗教の本義ではなく、人間の性(さが)によるものです。

宗教が問題なのではありません。

自己の存在に対する恐れや不安から「宗教」にすがろうとする

人間の弱さが問題なのです。

今、私たちに必要なのは、

さまざまな「宗教」の力を借りて弱い自己を武装することではなく、

それら「宗教」の武装を解除して裸の自己を取り戻すための、

根源的な宗教性です。

本来、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、

その本当に大事なところを正しく理解し実践する人ならば、

たとえふるさとが違っても人が互いに深く理解し合えるように、

価値観を認め合いながらビジョンを共有できるはずです。

その点で、私は日本のお寺にほのかな可能性を感じています。

神社は神道、教会はキリスト教、お寺は仏教。

一般的にはそのように、日本のお寺の宗教は仏教であると

ほとんど誰もが(お坊さんも)信じていますが、

千年以上の歴史の積み重ねの中で、日本のお寺は

仏教だけでなく、神道的なもの、儒教的なもの、

道教的なもの、ヒンズー教的なものなど、

信じられないほど雑多なものを飲み込みながら、

現在の姿へと形づくられてきました。

つまり、遠藤周作が『沈黙』において

「すべてのものを腐らせていく沼」と呼んだ

日本的宗教性・霊性の形容しがたい深みが、

お寺という場にあらわれているのです。

Buddhist templeというより、

ただ単に temple としか言いようがない、

それが日本のお寺です。

私は日本全国のさまざまなお寺を眺めながら、

その存在意義を考えてきました。

今、私なりにそれを言葉にするならば、

「訪れる人が生きる意味を問い、

自らが生きているという経験を取り戻す舞台環境」

であると思います。

その定義には、すでに「仏教」という言葉が含まれていません。

日本のお寺のあり様を突き詰めれば突き詰めるほど、

「お寺=仏教」という先入観は崩れ、

お寺の宗教性は限りなくメタ化されていきます。

しかし、それで良いのかもしれません。

いかなる宗教も大切にするあまりに無菌室で純粋培養すると、

かえってその宗教が「宗教」になってしまう恐れもあります。

仏教が「宗教」化するのを避けて、

本来の宗教としての価値を発揮し続けるためにも、

日本のお寺はBuddhist templeではなく、

temple で良いのです。

先日、NHKを観ていたら「バーニング・マン」を特集していました。

バーニング・マン(Burning Man)は、アメリカネバダ州で開かれる、

夏のアートフェスティバルです。

何もない砂漠に全米中、世界中から人が集まり、

一週間だけ、突如として数万人規模の町が形づくられます。

参加者はプロのアーティストではありませんが、

それぞれに好きなものを作り、好きなように過ごします。

巨大なアート・インスタレーションを制作する人もいれば、

参加者のために一週間だけの郵便局をやる人もいますし、

とにかく何でも自分の好きなことをやって、楽しめば良いのです。

アートを通じて自己を取り戻すフェスティバルと言えます。

その中で、とても興味深い建物がありました。

それが、templeです。

Buddhist templeでもなく、Christian churchでもなく、

ただの、temple。

特定の「宗教」はないのだけれど、

しかし確かに深い宗教性を感じられる空間が誰ともなく作られて、

そこへフェスティバルの参加者それぞれが、

亡くなったお母さんや、パートナーや、子どもや、友だちなど、

大切な人の写真を持ち寄り、自分の好きなやり方で祈りを捧げます。

拠り所とする宗教が何であれ、死者を思う気持ちは世界共通。

人が祈りを通じて死者と新たな関係を結び直し、

生きていく力を得るための宗教空間として、

バーニング・マンのtempleは機能していました。

世界には「宗教」をめぐる紛争・戦争が絶えません。

だからこそ、世界の人が宗教を超えて対話を重ね、

これからの世界における宗教の新しいあり方を

形づくることが必要です。

今後、日本のお寺が本来の宗教性を発揮し、

日本がまるごと世界のお寺=templeとなって、

世界中から訪れる人が生きる意味を問い、

自らが生きているという経験を取り戻す舞台環境を

提供できれば、これほど素晴らしいことはない。

そう思いませんか?

(写真:先日、光明寺で開かれた「ほんとうのこと。」というテーマの対話の集いの様子です)

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