公開中の映画「マグニフィセント・セブン」は、言うまでもなく、西部劇の名作「荒野の七人」のリメイクで、そのオリジナルは黒澤映画「七人の侍」なのだが、私の専門はカウボーイ文化なので(そういう卒論を書いたわけではありませんが)、ハリウッド製の二作を見比べながら鑑賞してみた。
有名な映画であるが、ネタバレを嫌う向きにはオススメしない記事である。
「荒野の七人」の原題は"The Magnificent Seven"で、今作と同じだが、登場人物もストーリーもかなり現代風にアップデイトされている。僕は初めに予告編を見た時には、主演がデンゼル・ワシントンで、共演者がクリス・プラット、イ・ビョンホンと知り、「ポリティカリー・コレクトな感じに気を使っちゃったのね」と思った。他にインディアンの戦士がいて、メキシコ人ガンマンもいる。
サンタクロースの人形でさえ、白人、アフリカ系、ラテン系を作らなくてはいけない、アメリカの人種平等の上っ面感の一種かと思ったのだ。
しかし、考えてみれば前作の主演はウラジオストク出身のユル・ブリンナーだったし、リトアニア系の血を引くチャールズ・ブロンソンもいた。
カウボーイというのは白人のイメージが数々の西部劇によって作られてきた。十九世紀のアメリカ西部のカウボーイ人口は二万人から四万人と諸説あり、そのうち「半分が白人で、残りの半分半分が黒人とメキシコ人」とか、「三分の一が黒人とメキシコ人だった」などと言われているから、実際に非白人のカウボーイというのは一定数いたようだ。
但し、カウボーイというのは牧畜業従事者だから、ガンマンとは違う。そのあたりの理解というには日本人には曖昧だし、これも西部劇によって混同させられてきたのだが、ガンマンというのは「銃によって評判を得た人物」という意味で、その中には法執行者もいれば用心棒、カウボーイもいたろうし、強盗やギャンブラーなどのアウトロウが含まれる。
今作の中では、彼らがカウボーイと呼ばれることはなかったが、前作の中ではあった。しかし、集まった「荒野の七人」の中でカウボーイであることが示唆されていたのは、ジェームス・コバーンが演じたナイフ使いのブリットだけである。
彼が七人の一人としてリクルートされるシーンは、列車が止まっている脇で休憩中のところから始まる。投げナイフで決闘の相手をやっつけ、クリス(ブリンナー)とヴィン(スティーヴ・マックイーン)とその場を去る際に、馬の鞍を担いで行く。これは、彼が馬に乗って牛を鉄道駅まで追って売却し、仕事を終えた一団のひとり、つまりカウボーイであることを示している。
「マグニフィセント・セブン」も「荒野の七人」も、物語の核は「様々な経歴の男たちが困っている町の人たちを助ける」というところにあるから、これはカウボーイたちの話ではなく、職業も人種も思惑もバラバラであって当然だったのだ。バラバラであればあるほど、その結束が興味深いものになる。
キャスティングに関しては、新旧どちらの作品の制作陣も、クロサワへのリスペストを口にしているのだから、「せめて、アジア系は日本人を起用してくれよー。浅野忠信ではいけなかったの?」とも感じた。個人的にはイ・ビョンホンは韓国人俳優の中では好きな俳優なので、まぁよしとするか......。
「マグニフィセント・セブン」は、役名もそれぞれ面白い。D・ワシントンはサム・チザム。これは、テキサス南部のサンアントニオからカンザス州アビリーンまで続いた、「チザム・トレイル」という、牛を歩かせたルートの基盤を開発した、ジェシー・チザムの名前から取っている。スコットランドとインディアンの血を引くジェシー・チザムは、十四ものインディアン部族の言葉を話せたという。
映画の中で、D・ワシントンがインディアンの若者に彼らの言語で語りかけて仲間に引き入れるが、ここでチザムという名前が付けられた意味がわかる。
イーサン・ホークの、グッドナイト・ロビショーという役名も牛の輸送路からきている。「グッドナイト・ラヴィング・トレイル」だ。こちらはテキサスから西に伸びて、そのあと北へ上がってワイオミング州シャイアンまで続く。チャールズ・グッドナイトとオリヴァー・ラヴィングという二人の男によって開発された。
ラヴィングは、このルートで運んだ牛をニューメキシコ州フォートサムナーで売り、売れ残った分を売るために、グッドナイトと分かれてさらに旅を続けたところ、コマンチ族に襲われて大ケガを負った。フォートサムナーまで逃げたものの、そこで落命している。当時のカウボーイの商売というのは命懸けだったのだ。
ちなみにアントワーン・フークワ監督は、「トレーニング・デイ」でもD・ワシントンとE・ホークを起用している。彼ら二人が劇中で久しぶりの再会を喜んで抱き合うシーンは、なんだか特別な感慨があった。それぞれトレイルの名を持つ男たちの抱擁は、歩いてきた別々の道が再び出合いつながったような、喜ばしい一瞬であった。
ジャック・ホーンというヒゲもじゃの大男を、ヴィンセント・ドノフリオが演じている。ホーンの命名は、おそらくトム・ホーンからだろう。S・マックイーンの主演で「トム・ホーン」という映画にもなっている、実在したミステリアスな殺し屋だ。カウボーイ、鉱夫、軍の斥候などをしたのちに、列車強盗や牛泥棒を逮捕する探偵になって名を上げた。
ところが、殺し自体に使命感を覚えたのか快感を得たのか、それに感づかれ解雇されてから歯止めが効かなくなる。延べ十七人を殺したと言われ、証拠は残さなかったが、自己顕示のためか、死体の頭のそばに小石を残してあるのが共通点だった。ウィリー・ニッケルという十四才の少年が背中から撃たれて死ぬという事件があり、少年の父親が対立していた男と親しかったホーンに嫌疑がかかった。
決定的な証拠はなかったものの、ホーンの知り合いの保安官代理が彼に酒に飲ませると、殺しについてペラペラと話し出した。隣室に隠れていた係官が速記でメモを残し、ホーンを告訴。
結局、彼は絞首刑になるのだが、今でも彼の告白の真偽に疑惑が残っているのである。
実際のトム・ホーンは頭髪が薄く、背が高くて力が強かったという。私は冷血漢を想像していたので、S・マックイーンがロマンスを絡めて演じた映画「トム・ホーン」ではなんだかイメージが混乱して物語にイマイチのめり込むことができなかった。
......と、ここまで書いて確認すると、トム・ホーンは"Tom Horn"であり、「マグニフィセント・セブン」のジャック・ホーンはスペルが"Horne"であった。どうも違ったようだ。
この、山に住む巨漢のキャラクターには、モデルがいるそうでシドニー・ポラック監督の「大いなる勇者」の主人公にもなったジョン・ジョンソンという人物だそうだ。パンフレットにギンティ小林氏という映画ライターが書いている。J・ジョンソンはクロウ族に妻を殺害された復讐のため、二十年以上に渡りクロウ族狩りに執念を燃やした男だという。
「マグニフィセント・セブン」の映画としての出来栄えは、アクション映画としては申し分ない。「抗争」というレベルだった前作に比べ、敵の数も圧倒的に多く、ほぼ「戦争」のようだ。「荒野の七人」では、敵方の親玉、カルヴェラに一度は捕えられてしまった七人が、村の外れで解放され、銃器まで返却されるというマヌケな脚本になっていて、「なんで、せめて弾丸を抜いて返さない!」というツッコミどころがある。
対して、今回の悪役であるバーソロミュー・ボーグは、ピーター・サースガードが、監督の「こいつはビョーキなんだ」という一言にヒントを得て役作りをしたという、冷酷な目つきがよかった。
しかし、「荒野の七人」の物語の裏に託されたメッセ―ジがあって、「ガンマンの生き方というのはカッコいいかもしれないが、家族も持たず孤独で儚い存在だ。家族を守って、毎日労働に従事することこそ人間らしい生活なのだ」というものだ。
最後に、ブリンナーがマックイーンに「農民の勝利だ。俺たちはいつも負けるんだ」という台詞に表されている。自分たちが村の食料を大いに食べ、村人たちが飢えていることを知ると、それを子供たちに分け与えたり、筋骨隆々のブロンソンが子供たちに慕われてうれしいような困ったような交流も心に残る挿話だ。
「マグニフィセント・セブン」にはそういう温かみはない。
撃ちまくりの痛快さは、エミリオ・エステベス主演、実の弟であるチャーリー・シーン、キーファー・サザーランドらが共演した「ヤングガン」を彷彿させた(あれがもう約三〇年前かよ!)。
「戦えない者たちのために、報酬でなく、正義と名誉を胸に戦う」という、アメリカらしいテーマは何度見ても、何度繰り返されてもいいものだ。
しかし、今回は殺しすぎちゃって、戦いが終わったあとに七人から数名だけ生き残ったガンマンと町の人々が、死屍累々の中、茫然としているように見えた。
「ありがとう!」「町が助かったよ!」というような高揚はない。
「お前らこの、そこらじゅうに転がった死骸の数、どうしてくれんねん」というような非難さえ言外に聞こえてきそうな凄惨さである。
これから町がハッピーに暮らしていけるというよりは、何もかも破壊されて、また一から築き直していかなくてはならない苦労の方がまず想像されてしまうのだ。こんな血塗られた町よりは、そこを棄てて他へ移った方がいいのでないか、と......。
それは、「荒野の七人」から約半世紀が経って、「マグニフィセント・セブン」には、アメリカの世界の警察としての疲労感が滲んでいるようにも映る。あまり後味のいい物語とは言い難い、雨雲のような重苦しさを観客の心に残すのであった。
現代というのは、希望の見えにくい、世界中が荒野のような時代になったものだ......。