アウトサイダーアートの幻想を超えて――第5回「心のアート展」の挑戦 心のアート展実行委員・荒井裕樹氏インタビュー

第5回を迎える「心のアート展」のみどころを荒井裕樹さん(二松学舎大学特任講師・心のアート展実行委員)に伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)

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専門性と倫理に裏づけられた提案あふれるこの場に、そしていっときの遭遇から多くの触発を得られるこの場に、ぜひご参加ください。 シノドス編集長・荻上チキ

2015年6月17日(水)~6月21日(日)、東京芸術劇場5階〔ギャラリー1〕にて東京精神科病院協会(東精協)主催による、第5回 心のアート展「創る・観る・感じる パッション―受苦・情念との稀有な出逢い」が開催中だ。東精協に加盟する68の病院に入院・通院している方たちの作品を展示している。第5回を迎える「心のアート展」のみどころを荒井裕樹さん(二松学舎大学特任講師・心のアート展実行委員)に伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)

絵を支えにした人生

――第5回を迎える「心のアート展」ですが、見どころはどこですか?

2009年からはじめて5回目になりますが、毎回作品の展示だけではなく、「ギャラリートーク」や作者とおしゃべりできるようなイベントもあります。来た人も参加できるようなアート展を意図的に目指しました。さっきも飛び入りのダンス・パフォーマンスがあって、みんなで鑑賞しました。

――双方向の展示会なのですね。特別展も充実していて楽しめました。

今回は特集展示を二つ企画しました。一つは高村智恵子の切り絵です。彫刻家で詩人の高村光太郎の妻で、「智恵子抄」で有名な方ですね。彼女は49歳で精神科病院に入院して、病室で切り絵の制作に没頭するんです。それらの作品の写真版ですが、大変精密な複製を展示しています。智恵子の自筆書簡も展示していますので、ぜひ見ていただきたいです。

高村智恵子

もう一つは、「H.M」さんという方の作品も展示しています。去年、長らく入院されていた病院内でお亡くなりになりました。ご親族は「(H.Mは)絵しかない人生だった」とおっしゃっていて、ご実家には大量の作品が残されていました。

よく例え話で「○○がないと生きていけない」なんて言いますけど、この方は文字通りの意味で「絵がないと生きていけない」方だったようです。そういった生き方しかできなかった人間の圧倒的な存在感を、ぜひ絵を見て体験して欲しいと思います。

H.M特集展示の様子

アウトサイダーアートへの期待

――どれくらいの応募数があって、どのくらいの点数が展示されているんですか。

約300点の応募があり、170点ほどを展示しました。ちなみに、ご観覧いただいて気になった絵はありますか?

――うわー、いいなぁと釘づけになったのは、この絵ですね。

いいですよね。毎回作品を応募してくださる方で、ぼくも大好きです。

長谷川 亮介 『ヤア・ヤア・ヤア!』 アクリル 130.3×162㎝

――あと、隣にあるこの絵も見入ってしまいました。ずっと見ていたいです。

ぼくもはじめてこの絵を見たときは、思わず吹き出しました(笑)。見る度に顔がほころびます。

田村 次郎 『僕の生きる道--汽車を押す自画像--』 鉛筆、水彩 72.7×91センチ

――どういった基準で絵を選んでいるのでしょうか。正直なところ、すごく上手な絵もありますし、素人目線ですが技巧的ではないけどぐっとくる絵もあります。そのバランスが絶妙だなと思いました。

すごく難しいですね。「いい作品とはなにか?」ということですよね。きちんとした美術教育を受けている方もいるので、そういった方の「上手い絵」を集めたら普通の展示会になってしまいますし、かといって、一般的な福祉展とも一線を画したいし。

きっと、作品を「観る側」にいる人たちの中にも、「精神障害者は、きっと一般人の常識では計れないような突拍子もないものを描くのだろう」という期待があると思うんですよね。その期待に応えるような絵を集めれば、それなりに面白い展示会にはなるとは思うのですが、受け手の想像力の範囲内に収まってしまう可能性もあります。

むしろ「心のアート展」では、技法的な良し悪しとは違う「新しい基準」を模索していきたいですね。「観る人」が無意識に抱えている「アートというのはこういうものだ」という常識や想像力を超えるような、良い意味で「混乱させるような展示」「観た後に2~3日考え込むような展示」をしていきたいと思っています。

――新しい基準ですか。

例えば、たまに「事件が起きる作品」ってあるんですよ。本人はすごく陰鬱な気持ちで描いたのに、額に入れて展示してみたら、作者自身もびっくりするくらい明るくてきれいな絵になっちゃったとか。作品を「出す人」「観る人」「何となく会場に来た人」をいろいろと巻き込みながら、そういった「事件」を起こせたら面白いと思っています。

アートの緊張関係

――精神科病院に入院・通院されている方たちの作品を対象にしたアート展とのことですが、そのような作品を「展示」することの意義はどこにあると思いますか。

多くの方が今回のアート展に関わっていますので、皆さんそれぞれ「意義」を考えていると思います。もちろん「応募者をエンパワーメントする」とか「心の病」や「精神科医療」に対する社会的啓発という目的もあります。

実際、そうなってくれたら実行委員としても嬉しいのですが、ここでは「障害者文化論」の研究者としての一意見をお答えしておきます。

アートって、いつも「緊張関係」を内側に含んでいるように思うんですよ。社会の中には、すごく積極的に「アートっていいよね」と、その存在意義を肯定する人たちもいれば、「何か役に立っているの...」と懐疑的な人もいるでしょう。

その緊張関係は絵を描いている個人の中にもあります。特に障害を持っている人たちほど、この緊張関係が強いような気がします。具体的に言うと、単純に「絵を描くのが楽しい」という思いもあれば「こんなことやっていてどうなるんだろう...」とか「病気や障害がよくなるのか...」とか、そういった不安を抱えているわけです。

更に言うと、そういった緊張は描き手を支える人の中にもあったりします。例えば、ご家族も「絵を描いていると楽しそうだし、生き生きしているし、応援したいな」という気持ちもあれば、「絵ばっかり描いてどうなるんだろう」「こんなことばかりしてて大丈夫かな」と心配になってしまったり、場合によっては批判してぶつかってしまったり、ということもあります。

アートって、両手を挙げて賛成できない、けれども、あっさりと切り捨てられない。そんな「愛着と違和感」が拮抗する境界面から生まれてくるような気がします。もちろん、そういった葛藤もなく表現できる人もたくさんいるのでしょうが、私は個人的に、そんな境界面から生まれてくるものが愛おしく感じられます。

だからこそ、たまにはそういった緊張から解放されて、「生み出された表現」や「表現することそのもの」を純粋に寿(ことほ)ぐ場があったら良いと思うんです。

江中 裕子 『漱石が繋いだ時間』 コラージュ 49.8×37㎝

――規範からはみ出すことこそがアートで、「こういう人が描いている絵ほど本物だ」ってついつい思ってしまいます。でもお話を聞いていると、当たり前ですけど、みんながみんな突っ走っているわけじゃない。

アートって「観る側」の一方的な期待が乗っかりがちですよね。みんな「自分が観たいもの」を観ようとするし、「観たいように観られる作品」を好きになるのかもしれません。

以前、同じような主旨のアート展を手伝っていたとき、観覧者から「結構普通の作品もあるんですね」と言われて驚いたことがあります。「心を病む人たちのアート」ということで、「冗長化した常識を超える奇抜さ」みたなものを期待していたのかもしれません。

でも、また一方で「こんなに激しい絵を描いて大丈夫なんですか?」なんて声が聞かれたりもする。人によっては、「秩序を乱さない程度に無害であること」も求めているのかもしれません。

世間の価値観みたいなものに捕らわれずに突っ走るエネルギーのある人もいますが、逆に、他人の目線とか評価を気にせざるを得ない状況の中で描く人もいます。「こういう絵を描いたら精神障害者はこわいと思われるんじゃないか」とか、「変な目で見られたらどうしよう」とか、そういう視線を意識している人も多いです。

とにかく「いろんな人がいて、いろいろな絵を描いている」ということは、強調しておきたいです。あまりにも「当たり前」なことなんですけど、「当たり前」のことってすぐ忘れられちゃうんですよ。

「心のアート展」も、その「当たり前」のところからはじめたいですね。「アウトサイダーアートってこうなんでしょ」と簡単に言葉でくくれない混沌とした世界観を観て欲しい。そして、できればその混沌をそのまま受け取ってほしいです。

キャプションが面白い

――絵の横に本人のコメントが書かれているキャプションがついていますが、すごく面白いですよね。観念的なことを書いている方もいれば、「ここには細かな青い線を入れました」というように、絵の技法についてずらーっと書かれていて、かなりの量があったり。読みふけってしまいました。

石澤 孝幸 『Pink²(の事情)』 油彩 60.6×91㎝ のキャプション

「作品以外にも伝えたいことがある」というか、「伝えたいことが作品に収まりきらない」というか、そんな方が多いのかもしれませんね。

作品を見ただけでは、その表現の根っこに何があるのかは、なかなか見えてきません。例えば、苦しい気持ちを絵筆に込めたからと言って、できあがった絵が陰鬱な暗い絵になるとは限りません。

すごく明るく朗らかな作品に見えても、そういう絵を描いて気持ちを紛らわせないと生きていけないような状況にあるのかもしれませんし、暗くて陰鬱な絵を描けるというのは、少し心に余裕がある証拠なのかもしれません。

描き手の心と絵の内容は、そんなに簡単にリンクしていません。すごく入り組んでいる複雑な世界なんです。その複雑さも感じて欲しいと言うことで、作者の方にはキャプションを書いていただき、絵の横に添えるようにしています。

長く書かれているのもあれば、「入選させていただきありがとうございます。これからも頑張ります。」というサラッとしたキャプションもあります。そのサラッとした言葉の裏側にも、きっと色んな思いがあると思います。それが出てくるまでには時間がかかるだろうと思うので、毎回見に来て、同一の方のキャプチャーの変化に注目しても面白いかもしれません。

――通の楽しみ方ですね。

人間は表現してしまう生き物

――荒井さんのインタビューやご寄稿を読んでいると、表現せざるを得ない人に、優しいまなざしを向けているなと感じています。

そうですかね......なんだろう......「ぼく自身も優しくされたい」という気持ちの裏返しかな(笑)

ぼくはもともと小説家になりたかったんですよ。でも「自分は作る側の人間じゃないな......」と、ある時から思って、「表現する人を支える人」とか「表現する人について考える人」の方が肌に合っている気がしたんです。

「表現すること」って難しいんですよ。それは技術的な面だけでなく、精神的な面でも、経済的な面でも。その大変さは何となく分かるので、「表現する人」とか「表現しようとする人」のことは尊敬しています。

あと、アートや文学のように、目的や意図や費用対効果を明確に説明できないものに対して、ちょっと厳しい世の中になりつつあるなと、ぼくは感じているんです。特に教育現場にいると強く感じます。

人間は「表現してしまう生き物」だと思います。「自分でもよくわからないけど、何故かせずにはいられないこと」ってありますよね。絵を描く明確な理由も説明できない、利益も見込めない、役に立つのかどうかも分からない。でも、絵筆を動かすのは楽しいし、なんとなく、やらずにはいられない。

一見、意味のないように見えること。明確に目的やメリットや費用対効果を説明できないこと。そういったことに対する「社会の寛容力」というか、そういったことが存在していられる「社会の余白」みたいなものを、少しだけ押し広げたいんですよね。「少しだけ」でいいので(笑)。

だから、「表現せずにはいられない」「自分でもよく分からないけど、なんか表現してしまった」という思いや気持ちを、腹の底から祝福する「寿(ことほ)ぎの場」みたいなものを、この社会の中に作っておきたい。「心のアート展」も、ささやかな試みかもしれませんが、そういった場にしていきたいと思います。

荒井祐樹氏

アートとしてどう評価するのか

――最後にどうしても聞きたいことがあるんですが。見ているときに、フフって笑っちゃうことってあって。たとえば、人形の展示が強烈で。

割れた鏡ごしに人形の表情を見る作品なんですけど、すごい迫力ですよね。制作現場も見たことがあるのですが、各部位が天井から紐でつるされて乾かしてあって、思わず立ち止まりました(笑)。でも、じっと見ていたらぼくもなぜか面白くなってきて(笑)。とにかく、不思議な作品です。

井上 紗希 『無題(球体関節人形)』 石塑粘土 高さ70㎝

――どう処理していいのか分からずに思わず笑ってしまって。タイトルが「無題(球体関節人形)」というのも面白くて。でも、その笑いには後ろめたさがあって。失礼なんじゃないかとか、笑って良かったのかなぁって反省しちゃったんです。正直、いったいどうやって見たらいいんだろうと戸惑う気持ちが少しありました。

ああ、わかります、その感覚。障害を持っている人の作品を「面白い」や「つまらない」と言うと失礼な気がして後ろめたいし、かといって「上手い」「下手」では上から目線すぎる。第一印象が「こわい」とか「よくわからない」だったとしても、それをそのまま伝えたら相手を傷付けるんじゃないか......。心が揺さぶられても、何と言っていいかわからないことってありますよね。

それって、きっと「障害を持つ人たちのアート」を語る言葉が、まだまだこの社会の中に定着していないことの表れなのかもしれないですね。考えてみれば、障害を持つ人たちのアートが公の場に展示されて、多くの人の目に触れるようになったのも、つい最近のことですからね。まだまだ語り方が分からないというのも当たり前のことです。かくいうぼくも、正直、まだよく分かっていない。

「学者面」をしてしまって恐縮ですが、研究の世界でも、こういったアートに対する語り方が、まだまだ定まっていません。現状では「○○障害の特質が表れている」とか「哲学者○○の指摘に習えば...」といったような、分析的で短絡的な語り口になりがちです。

むしろ、こういったアートを目にして「私たちは、どういった種類の言葉を備えていないのか?」について考えるきっかけになったら良いなと思うのです。「その対象について語るべき言葉が社会に定着していない」というのは、「まだその対象との共生が十全に進んでいない」ということなのでしょうから。

「心のアート展」のような場で、「言葉がない」ということを実感してもらえたら嬉しいですし、ぼく自身も、そこから始めたいと思っています。

――すごく腑に落ちました。

よかったです(笑)。

とにかく一度、会場に足を運んで欲しいです。身構えず、軽い気持ちで。まじめに見たり、厳かな気持ちになっていただかなくても結構です。ぜひ、この会場の雰囲気を感じて欲しいですね。

第5回 心のアート展

「創る・観る・感じるパッション―受苦・情念との稀有な出逢い」

会期:2015年6月17日(水)~6月21日(日)

時間:10時~19時(最終日は17時まで)

場所:東京芸術劇場 ギャラリー1

主催:東京精神科病院協会

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荒井裕樹

日本近現代文学 / 障害者文化論

2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部特別任用専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。

数多の困難に次々と直面している現代社会。しかし、それを語り解決するための言葉は圧倒的に不足しています。

わたしたちシノドスは、こうした言説の供給不足を解消し、言論のかたちを新たなものへと更新することを使命としています。

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(2015年6月19日「SYNODOS」より転載)

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