「被災地の母を撮り続けた5年間」息子として、テレビディレクターとして向き合った東日本大震災

何度も心が折れそうになったとき、いつも母の言葉を思い出す。
小山人志

それは、スーパーのチラシの裏に、無造作に綴られていた。

3月11日...

あの時猛り狂い 咆哮し 大地を襲った海は 本当にこの海だったのか

今は静かに潮騒の中に 白い小さな波頭が見えるだけ

悠々と流れていく雲よ お前は何を見ていたの

小さな蟻のように 人々がもがき苦しむさまを 黙って見ていたの?

津波で福島県相馬市の実家が半壊し、避難先の姉の家で、当時78歳の母が書きなぐった「震災日記」を見た時、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

確かに日本人は"我慢強い"。

特に東北人は...。特に母のような"戦争体験者"は...。

だからこんな未曾有の災害に際しても、「秩序」や「他者への思いやり」を捨てず、文句や不平不満もむやみに言うこともなく、自らを律して生きている。

でも本当は違うんだ! 誰にもぶつけようのない「天災」への憤りを...たまらない怒りや悲しさを、みんな抱えているんだ。

テレビのインタビューでマイクを向けられたら決して答えないけど、本当は誰もが、そんな思いを心に秘めながら「文句を言ったら申し訳ない」と、感謝ばかりを口にし、身をひそめながら生きてるんだ...そう思った。

テレビディレクターとして、今まで様々な災害や事件・事故を最前線で取材してきた。若さゆえの功名心から、命を落としかけたこともある。でも心のどこかでは「他人事」だった。 「仕事」だった。...今回、自分の実家が被災するまでは。

いざ「当事者」になってみて、初めて気が付いたことがある。

それを自分は、メディアの人間として伝えていくべきなのではないか?

そんなことを考えながら、カメラを回し始めた。

取材対象は、「被災者の母」。

やがて、一見被害が小さな一軒一軒にも、それぞれの苦しみや悲しさがあるんだ、ということを、思い知ることとなる。

2011年3月11日2時46分。

当時、総合演出を担当していた番組「DON!」の1週間の生放送を終え、ほっと一息つき、翌週分の打ち合わせがてら弁当をかきこんでいるときだった。東京・汐留にある日本テレビのオフィスビルが突然大きく揺れる。

その時僕がいたのは29階の会議スペース。ただならぬ揺れに思わず箸をおき、とっさにテーブルを握った。

「やばい...これはでかいぞ」

瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。揺れは徐々に激しくなり、周囲からは女性スタッフの悲鳴が聞こえた。移動式ロッカーが右に左に激しくぶつかり、凄まじい音をたてていた。

打ち合わせをしていた普段クールなディレクターは、机の下にもぐりこんだ。涙がでそうなほどの恐怖を感じながら、僕はひたすら「早くおさまってくれ!」と神頼みするしかなかった。

ようやく揺れがおさまり、思わずテレビの画面を見る。「東北 震度6強」。

瞬間、福島県相馬市でひとり暮らす母・順子の顔が浮かぶ。すぐに携帯から電話をするがまったくつながらない。卓上電話を使ってもダメだった。

「お台場が燃えているぞ!」

誰かの声に窓際に面した喫煙所へ駆けつける。見れば、お台場のフジテレビの裏手から、黒い煙が立ち上っていた。

正直、「この世の終わり」かと思った。

母は相変わらず連絡が取れない。そのとき耳に飛び込んできたアナウンサーの音声に、僕は思わず目の前が真っ暗になった。

「福島県相馬市岩の子には7.3メートルの津波が押し寄せ、壊滅状態です!」

そこはまさに実家だった。78歳の母が、ひとり暮らしていた。

「なに!? 壊滅って、なんだよ...」

言葉を失っている僕の目に、各地の凄まじい津波の映像が飛び込んできた。

これが未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開けだった。

その後、何とか姉と連絡がとれ、一緒に避難し母が無事だと知りほっとする。

しかし「家はもう住める状態ではありません」とのことだった。

すぐに飛んで帰りたかったが、生情報番組の総合演出として、緊急対応に追われ、なかなか帰るわけにはいかなかった。仕事が一段落して3月末にようやくの帰省。、築50年の我が家は「半壊」状態だったが、やがて解体されることとなる。

「うちなんか、まだマシな方」

多くの人がそう言っていたと同様、母もそう言って、「現実」を受け入れているかのように見えた。

しかし、本当はそうではなかった。

ある時、母が言う。

「ある意味、戦争よりひどいよ。戦争は憎むべき相手があったけど、"天のしたこと"は、憎みようがないじゃない」

そして、こうも言った。

「命助かって、良かったんだか、どうなんだか...本当は一気に逝っちゃったほうがどんなに楽かと思ったことあるよ」

カメラを回しながら...弱気な母を見るのは辛かった。

そこには「息子と母親」という独特の距離感だからこそ語られた「被災者のリアルな本音」があった。

当初、「記録用」としてカメラを回したものの、これは逆に「被災地のリアルな風景」として、伝えるべきでは?と思った。

被災者の一軒一軒に、それぞれの悲しみや苦しみがあることを伝えるために...。

それから約5年間...様々な絶望があり、そんな中からも見つけた「希望」があり、78歳だった母は83歳になった。

「塩水にも負けずに雑草が生き延びた。 虫も生きている。 ならば、人も生きなくては」

母の震災日記はやがて一冊の本(「生きてやろうじゃないの!母と息子の震災日記」青志社)になり、それがキッカケで予想もしなかった運命を切り開いていく。

そしてそのすべてをまとめた5年間の軌跡を、今回90分番組とした。

3月13日(日)午前11時55分から13時25分 BS日テレで全国放送される「生きてやろうじゃないの!母と僕の震災日記」。

ディレクター自身がカメラを回し、その被写体が「被災地に生きる母親」という、特殊な関係性の中で生まれたドキュメンタリー。

逆にそれゆえにかもし出された「奇妙なリアリティ」を自分でも感じた。

この5年間で一番何を感じたか?と問われれば、それはやはり、我々日本人には、「どんな災害にも負けない逞しきメンタリティ」があるんだ! ということだった。

どんな辛い状況でも、互いに助け合う「思いやり文化」、そして踏まれても踏まれても立ち上がる「生命力」や「このまま終わってたまるもんか!」という言葉にはならないまでも内包する強い「負けん気魂」みたいなものを、いま83歳となった「母」を通して感じた。この「母のドキュメンタリー」は今まで5回にわたって日本テレビで放送しているが(2012年3月放送「リアル×ワールド ディテクター被災地へ帰る 母と僕の震災365日」は同年の文化庁芸術祭参加、番組審議委員会推薦作品に選ばれる)、関東ローカルが多かったため、被災地では放送されていない。

今回BS日テレでの放送は全国ネットなので、「被災地の人々」が、母の「生きてやろうじゃないの!」というメッセージをどう受け止めてくれるのか、不安でもあり楽しみである。

何度も心が折れそうになったとき、いつも母の言葉を思い出す。

「あらゆることに意味がある。 人生に"無駄"は、なにひとつない」(武澤順子)

武澤順子の日記より

2016年3月13日(日) 午前11時55分 ~13時25分 BS日テレでOA

「生きてやろうじゃないの! 母と僕の震災日記」

photo

日本テレビのディレクター武澤忠が、東日本大震災直後から5年間にわたり撮り続けてきた「被災した実家」の映像記録と、毎日欠かさず母・順子が綴り続けた「震災日記」を通して、「FUKUSHIMA」の"今"を描く、シリーズの最新作。

注目記事