隣の誰かのための一票を 〜選挙で社会貢献をする方法〜

私は少し変わった家庭で育ったと思う。まだ私が小学生だったある日、人権 NGO で働いていた母の招待で家にクルド人難民の男性が来た。

我が家に難民が来た

私は少し変わった家庭で育ったと思う。

まだ私が小学生だったある日、人権 NGO で働いていた母の招待で家にクルド人難民の男性が来た。

クルド人とは、トルコ、イラン、イラクに跨る地域に暮らす「自分たちの国を持たない世界最大の民族」だ。

千葉県に住んでいた私たちは、家からほど近い海に彼を連れて行った。

生まれて初めて海を見た、と言って彼が大変喜んでいたことが印象的だった。

「母は誰かに喜んでもらえるような良い仕事をしているんだな」

小学生ながらにそう思った。

その日以来、私は困難に直面しながら生活している人が、自分と同じ社会にいるということをぼんやりと意識するようになった。

この社会はレイヤーでできている

今月 10 日、参議院選挙が行われる。

初めて選挙権が 18 歳まで引き下げられたとあって、最近「若者よ、選挙にいこう」という論説をよく目にする。

ここでいう若者とはいったい何だろうか?

それは、ひとつの社会だ。

この日本社会は決して一枚岩ではなく、目に見えない無数のレイヤーから成り立つ社会の集合体だ。

若者というのもひとつの社会だし、たとえば労働者社会、公務員社会、富裕層社会、老人社会、学生社会、障害者社会、女性社会、男性社会など、各人の帰属意識の数だけ、無数の社会が存在している。

そうした社会を包摂しているのが、「日本」という帰属意識に基づく日本社会であり、来る参院選はその日本社会の代表を選ぶ選挙だ。

大人はなぜ若者を選挙に行かせたがるのか

先の選挙に行こうキャンペーンの論旨のひとつとして、次のようなものがある。

投票率が低い若者への政策を政治家が軽視するため、高齢者を意識した政策ばかりが論じられるようになる。

その結果、関心を失った若者の投票率がさらに下がるという悪循環に陥る。

つまり、このままだと損をするのは若者だから、若者は選挙にいくべきだ。

20 代後半という、世間的には「若者」に分類される私は、この論調に違和感を覚える。

私の同世代が、自分たちの利益のためにこうした主張をするのはよくわかる。

しかし、年長の人々が若者に向けてこういった主張をしているのを目にするのはなぜか。

そこに、日本社会の現状が見えるような気がしている。

さきほど、日本社会はレイヤー(つまり階層)から成り立つと述べたが、本来、それぞれの社会は並列に包摂されるべきであると思っている。

それこそが、政治の目指すところであり、誰にとっても暮らしやすい、多様性豊かな社会だ。

しかし、現実にはそれぞれの社会に強い社会、弱い社会があり、格差がある。

社会の強さ、弱さとはいったい何か。

それは、「発信力」だ。

なぜなら、それぞれの社会というのは、各人の帰属意識に基づく曖昧な集合体であり、必ずしも目に見えるコミュニティではないからだ。

発信しなければその社会は見えない存在となってしまい、そこに格差が生まれる。

たとえば、ホームレス社会などがその典型である。

日本にはたくさんのホームレスの方が生活をしているが、あたかも、道行く人にそこにホームレスなど存在しないかのような扱いを受ける場面を目にすることがある。

話を選挙に戻そう。

選挙とは、それぞれの社会が自分たちの主張を発信する絶好の機会だ。

発信力の差が社会の格差を生むとすれば、選挙とは社会間の格差を是正する機会なのだ。

冒頭の「若者よ、選挙に行こう」キャンペーンを主張する大人たちの意図はこの点にある。

若者社会が発信をすることで、多様性を受容する格差のない社会に近づき、そのことは自分たちの属する日本社会の公益になる。

日本社会の未来を担う若者社会であればなおさら、その投票率が低いことは多様性という観点から懸念されているのだ。

私たち若者は、選挙を通じて発信することを求められている。

選挙権を持たない社会

一方で、日本には、選挙権を持たない社会も存在する。

たとえば、難民の社会。

いまや難民の数は全世界で 2000 万人とも言われ、その深刻さは増すばかりだ。

このことは、日本にとっても決して無関係ではない。

日本経済にも影響を与えている、先のイギリスの EU 離脱は移民の増加による社会保障費の増大が発端だった。

また、今年行われた伊勢志摩サミットでは難民問題が議題に上がり、議長国としての日本の立ち位置が問われた。

少なくとも、日本が国際社会の一員としてのセルフイメージを維持したいのであれば、これは看過すべき問題ではない。

日本国内にも難民は存在する。

2015 年、我が国での難民申請者数は 7,586 人であり、認定難民として認められたのは 27 人だった。

日々の生活の中で、彼らの存在を認識することはおそらく少ないかもしれない。

必要なのは社会の代弁者だ

私は、決してここで難民の社会を助けるべきだと言いたいわけではない。

大事なことは、他の社会に想像を働かせ、そういった社会が日本国内にも存在するということを認知することだ。

そして、多様性豊かな社会を実現するために現在の日本が必要としているのは、力が弱ってしまった社会の代弁者だ。

そういった意味でも、私は与えられた選挙権はやはり大切にするべきだと思う。

繰り返しになるが、この社会には、投票したくてもできない人もいる。

少なくとも、あなたの一票は彼らを代弁する力を持っている。

選挙に行く理由が見つからないなら、身近な困っている誰かを代弁してみる

来る参院選、憲法改正やアベノミクスの成否、増大する社会保障費をどう賄うかなど、論じるべき争点はたくさんある。

それでももし、あなたが選挙に行く理由を見いだせない時は、身近な困っている誰かのために投票してみてはどうだろうか。

たとえば、奨学金の返済に苦しんでいる友人、子供を預ける保育園がなく困っている知人、過疎化のため移動手段が少なく、買い物に困っている田舎のおじいちゃんおばあちゃんなど。

困っている誰かのために投じられた一票は、あなたの立派な主張であると同時に、社会に貢献している。

誰かを思いやる気持ちで投じられた一票には、実際の一票の価値以上に意味があるのではないかとも思う。

なかなか一票の価値を実感しづらい選挙に行くためには、自分なりに投票に意味づけをする作業が必要になると思う。

政策というのは、すべてパッケージだ。ある候補者や政党の主張の中で、同意できる点もあれば同意できない点もあるだろう。

しかし、政策を見る際の少なくとも 1 つの視点として、自分/身近な人の困り事を軸に眺めてみると政治が少し変わって見えるかもしれない。

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