東京の森(4)競技場の話

大正15年に完工をみた聖徳記念絵画館ですが、下の写真の左背景にチョロチョロっと樹木が見えていますが、このとき既にこの奥には明治神宮競技場も出来上がっていたんです。

大正15年に完工をみた聖徳記念絵画館ですが、下の写真の左背景にチョロチョロっと樹木が見えていますが、このとき既にこの奥には明治神宮競技場も出来上がっていたんです。

上の写真からではまったくその様子が見えませんよね。

でも、航空写真ではこのとおり、左奥の絵画館の脇に競技場があります。

手前にあるのが明治神宮野球場です。

こちらは絵画館と同じく同じく大正15年に完成しています。

なんで絵画館の正面からこの競技場が見えないのかというと、

それは、「見えないようにした」からです。

こんな風に、です。

競技トラックは掘り下げて設けてあり、その掘り下げ傾斜面を芝生にして観客席としてあるのです。

絵画館側には構造物を建設しなかったからなのです。

上の絵葉書のように、むしろ競技場から観客席越しに絵画館が見えていますよね。

当時の設計図もありました。

興味深いのが、このスタンド席の断面図なのですが、

スタンド傾斜席の内側をすべて建物として内部利用していますね。

そしてスタンド背面の垂直面は建物ファサードとして意匠表現されています。

掘り下げたフィールドの傾斜面を芝生観客席にするなど敷地を立体的に活用しつつ、建築するスタンド観客席はその前面、背面、内部とも余すことなく利用してあるところが、土地と建物が一体化したランドスケープデザインのお手本みたいな建築です。

なおかつ、スポーツ施設とは思えないような優美で律儀な様式的ファサードデザインを実現しているところも建物の意匠的価値を高めていますね。

非常に合理的でかつ風致にも配慮した素晴らしい設計案だと思います。

続いて、絵画館と同時に完成した明治神宮野球場です。

大正14年(1925年)に東京六大学野球連盟が結成され、明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場などの運動施設が建造されるなか建設されましたが、当時の総工費は53万円のうち明治神宮奉賛会が48万円を出費し東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付したことで、現在までも学生野球の優先使用権につながっています。

戦時中に空襲に合い、下記写真のように骨組みのみになり、一部が崩れ落ちましたが、

戦後の一時期GHQの接収後、幾度かの改修を経て今につながっております。

神宮球場といえば六大学野球やヤクルトスワローズの本拠地として有名です。

私が実際に神宮球場を訪れたのは上京して早慶戦が初めてでしたから、それまで神宮球場の建築そのものは知りませんでした。

しかし、神宮球場に訪れた瞬間、ここは知っているぞ!と、ジュリーこと沢田研二さん主演の映画「太陽を盗んだ男」の中で、ジュリーが西田敏行さん演じるサラ金の男と出会うアーチの連続する空間を見たときには非常に感動したのを覚えています。

「太陽を盗んだ男」は、中学理科教師が自室で原爆を作成してしまうというアクション映画です。

そのアーチ空間は大正15年(1926年)に建造され、東京大空襲すら越えて今に至っているのは本当に感動ものです。

しかも、なぜ私が外苑エリアの諸施設に詳しいかといいますと、不思議なご縁といいますか、1990年、1991年と続けて、試合の見やすさを考慮して神宮球場外野及び内野席の改修がおこなわれているのですが、これ当時外苑に本社のあったゼネコンの間組で施工しているのですけれど、1987年当時学生の私が間組さんで改修設計案作りのお手伝いと模型作成をしていたのです。

見えにくいといわれていた座席の傾斜角度やピッチを改修するために、当時はコンピューターのCGとかなかったので、模型の座席からマウンドに赤い糸や青い糸を引っ張って視線の抜けや重なりをチェックしたことを覚えています。

その時に戦前の図面やら、オリンピック時の図面やら古い資料をいろいろ見て既存施設の図面起こしをやったのです。だから、外苑の歴史と同時にスタジアムの設計についても、実感あるんですよ。

1991年に改修工事が終了したころ、本当にうまくいったかどうか確認のために、実際に現地に見に行ったときはとても感動しました。

また、日本青年館も絵画館と前後して大正14年(1925年)に建設されました。

今の日本青年館は二代目なんです。

これが初代です。かっこいいでしょう?

日本青年館とは

明治神宮の造営に勤労奉仕をした青年団が当時の皇太子(昭和天皇)から功績をたたえられたことを記念して、

1920年(大正9年)に建設の議が起こり、1人1円を合い言葉に全国の青年団員による募金活動などが展開され、

1922年(大正11年)12月着手の運びとなり、地下1階の初代日本青年館が1925年(大正14年)10月に完成したものです。

当時の1円というのがどれくらいのイメージかは単純に物価や初任給から比較はしずらいですが、現在の貨幣感覚では7000円~1万円といった重みだと思います。

基礎工事中の写真です。

日本青年館の建設趣旨です。

木村栄次郎氏による建設の趣旨、一部を抜粋いたしますと

全国二百余萬の青年が自分の勤労と節約とに依て得た金を醵出(きょしゅつ)した青年の中心的機関となるべき一つの建物を造ることにした。

各青年が醵出した金は約百八十万円でありますがそれは皆火の出る様な労働の血の流れる様な勤倹によって得た零細な金の集まりでありまして他の富豪連の醵出金による何々倶楽部何々会館などといふ種のものとは大いに意義を異にしたものであります。

第一、青年団の事業を直接行う事務所として

第二、地方青年が出京した場合利用し得る様な宿舎として

第三、全国青年が互いに所信を披歴し抱負を述ぶべき一大会堂

をつくることにしたのです。

とあります。

※醵出(きょしゅつ)とは、金品を出し合うことです。

で、本来一番大事なところだったはずですが

相撲場です。

相撲を、現在ではスポーツのように理解されている人が多いと思うのですが、

違います。

相撲はスポーツではありません。

相撲は元々神前にておこなう神事、お祭りです。

古事記や日本書記にも相撲の記述があり、常人よりもガタイも大きく力も強い「ちからひと」は特別な存在だったわけです。

日本各地で祭や神前で相撲は開かれており、奈良時代のころから各地の相撲人を集め天覧するようになりました。

その後、平安時代ころから庶民の間でも相撲は行われるようになり、鎌倉時代、室町時代には諸国の大名主催でもおこなわれるようになりました。

戦国の雄、織田信長の相撲好きは有名で現在のような土俵の型は信長考案ともいわれております。

江戸時代より現在の大相撲のように職業としての力士の興業がおこなわれるようになり、浮世絵にも多くの力士が描かれております。

以上のような経緯を知ってしまうと、敗戦後、GHQが明治神宮外苑の諸施設を接収し、白人専用のスポーツ施設として活用していたという一時期は、建設に携わった方々をはじめ当時の日本人にとっては忸怩たる思いがあったでしょう。

特に、この外苑相撲場を接収し、そこにわざわざ進駐軍専用のボウリング場を建設されてしまったという事実、それは明らかに意図的なものだったでしょう。

そういった意味では、現在この元相撲場には神宮第二球場が立地し、ゴルフの練習場などに使われておりますが、昭和27年(1952年)の接収解除後に元の相撲場になぜ戻さなかったのか、その時点ですぐ本来の相撲場の姿に戻すべきだったと思います。

というわけで、神宮外苑の諸施設についてでしたが次は表参道について解説したいと思います。

(2014年3月17日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載)

ザハ・ハディド氏のデザイン

新国立競技場 画像集

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