「大川小学校の悲劇、語り継ぐ」教員の遺族の大学生が語り始めた

東日本大震災の大津波で、学校で最大の悲劇の場所となった宮城県石巻市の大川小。壊れたまま残る旧校舎の前で、先生の息子の大学生が震災のことを語り始めた。

東日本大震災の大津波で、学校で最大の悲劇の場所となった宮城県石巻市の大川小。壊れたまま残る旧校舎の前で、先生の息子の大学生が震災のことを語り始めた。「第二の大川小を出したくない」と。被災地は震災から3年9か月を迎えた。

旧大川小で中学生らに向けて震災を語り継ぐ佐々木奏太さん=11月、宮城県石巻市

大川小では、全校児童の7割にあたる74人が死亡・行方不明になった。学校にいた先生11人中10人も犠牲になった。佐々木奏太(ささき・そうた)さん(19歳)は、亡くなった先生(男性・55歳)の息子だ。父親の影響も受けて、今春、先生を育てる宮城教育大学に入学。「先生の卵」として被災地の小学校で学習支援にも取り組んでいる。そして、この夏から旧大川小など被災地を案内するボランティア活動を始めた。

「第2学年の担任だった父親は、多くの子どもたちとともに、津波に巻き込まれました」

11月上旬。窓や壁、柱が壊れたままの旧大川小に、佐々木さんの姿があった。福岡市から被災地を学びに訪れた中学生ら13人に語りかけた。

「保護者の方がお子さんの死を受け入れられずに、まだ名前が刻まれていない子どももいます」

運動場だった場所に建てられた慰霊碑に、父親をはじめとした犠牲者の名前が刻まれる一方、空白部分がある意味を説明した。話を聞いていた中学生たちの表情は悲しみに包まれていった。

この日の夜の交流会では、女子生徒(2年)が、病気で祖父を亡くした経験と佐々木さんの立場を重ね合わせ、「つらいのに前を向いて進んでいる姿がすごい」と涙を流した。

「大切な人を亡くしたからこそできることがある。命の大切さを伝えていこう」。佐々木さんはやさしく呼びかけていた。

旧大川小にある慰霊碑に手を合わせる中学生たち

出身地の南三陸町も案内した佐々木さん。津波におそわれた地域の建物はまだわずか

南三陸町の防災対策庁舎。佐々木さんは一番はじめに手を合わせた

宮城教育大学教育復興支援センターによる被災地の様子を伝える取り組みで、佐々木さんは学生ボランティアとして案内役を務めた。11月までに3回、旧大川小などに中学生や大学生らを案内した。「震災を後世に伝えたい。第二の大川小を出したくない」という強い思いがある。取り組みを始めるにあたり、佐々木さんが受け止めているのは、父親の死と、事故の責任をめぐる複雑な状況だ。

佐々木さんが通っていた南三陸町立志津川中。高台にあり生徒は無事だった。現在、校庭に仮設住宅が並ぶ

震災当時、南三陸町の中3だった佐々木さんは「学校は安全なはず。お父さんは生きている」と思っていた。5日後、母親とは避難所で再会したが、父親の情報がない。大川小の近くで、がれきをかきわけるなどして20回以上探した。警察が遺体を確認したのは、震災から1年4か月後だった。

「ほっとした反面、つらい事実を受け入れざるを得ませんでした」。やさしかった父親に、最近よく似てきたねと言われる。自分の将来について相談できなかったことは、今でも悔しいと思っている。

大川小の事故は、学校の安全管理の責任を問う問題に発展していく。地震発生から津波到達まで約50分間あったが、先生が子どもを運動場に待機させていた時間が長く、適切に避難させなかったことが原因ともいわれる。一方、市側は津波の被害を「予見できなかった」と説明。子どもの遺族の一部と市や県との間で、事故の責任をめぐる裁判が続いている。

事故後、佐々木さんは、父親が担任をしていた学級の亡くなった子どもの自宅で線香を上げたという。津波で亡くなった子どもと先生の家族はそれぞれ立場は違うが、「二度と悲劇をくり返したくない気持ちは同じ」。大川小の教訓を生かすため、情報を積極的に発信しようと思うようになった。

佐々木さんは、大川小の悲劇の原因の真相を知りたいと願う。事故検証委員会などが出した資料を読みあさり、調査をした識者に直接連絡を取って会いにいった。事故の原因に対しての個人的な思いは、裁判の決着がついてから語りたいという。

被災地の案内ではジレンマもある。参加者の写真撮影もそのひとつ。旧大川小や南三陸町の防災対策庁舎などは、被災者として、遺族として、大切な場所で、観光地ではないという思いがある。

学習支援をする被災地の小学校の子どもたちから届いたお礼の手紙

「先生の卵」として、南三陸町や石巻市などの被災地の小学校で、子どもたちへの学習支援ボランティアにも力を入れている。「小学生や中学生は、これからの復興をになう世代として、一緒に頑張っていきたい」

佐々木さんは、これからも自分にできる活動を続けていく。ふるさとによりそい、命の大切さを伝えていくことが、「先生だったお父さんの命を輝かせることにつながる」と信じている。

津波で壊れたままの旧大川小の校舎。遺構として残すかどうかはまだ決着していない

※この記事は朝日中高生新聞12月7日号、朝日小学生新聞12月11日付に掲載した記事に加筆しました。紙面のサンプルや記事の一部も見られます。

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